第7話 聖女は本当に天使なのか
ヴァルモン公爵家へ戻ったのは、日付が変わる少し前だった。
裏口からそっと入った俺たちを待っていたのは、案の定、マルグリットである。
廊下の明かりの下、黒髪をきっちりまとめた侍女長は微動だにせず立っていた。両手を前で重ねた姿勢は完璧だ。完璧すぎる。怒っているときほど姿勢が美しいタイプだ、この人は。
「……お帰りなさいませ」
声は静かだった。
静かすぎて逆に怖い。
リリアーヌは外套を脱ぎながら平然と返す。
「ただいま戻りました」
「ご無事で何よりでございます」
「ええ」
「そして」
マルグリットの視線がすっと俺に向く。
「ずいぶんと楽しそうに逃げ回っていらしたようですね」
「楽しんではない!」
即答した。
するとマルグリットは表情を一切変えずに言う。
「瓶を倒したのはどなたですか」
「……俺です」
「でしょうね」
決めつけがひどい。
だが実際その通りなので反論のしようがない。
廊下の少し後ろでは、レオンが腕を組んでこちらを見ていた。顔に書いてある。
だから言ったのに、と。
リリアーヌは軽くため息をついた。
「叱責はあとにしてちょうだい、マルグリット。収穫がありましたの」
「お聞きしております」
「早いな」
「あなた方が戻る前に、先触れの伝令を受けております」
仕事ができすぎる侍女長である。
そのまま俺たちは応接室へ移された。深夜だというのに、バルトロも既に呼ばれている。老執事はいつも通りの落ち着いた顔で一礼したが、目の奥には明らかな緊張があった。
「ご無事で何よりでございます、お嬢様」
「無事ではありますけれど、少しばかり騒がしくなりましたわね」
「そのようで」
「騒がしくしたのは主に俺だけどな……」
「自覚がおありなら結構です」
マルグリットに刺された。
応接室に入ると、夜食代わりの温かい茶が出された。さすがにこの時間なので軽いものだけだが、それでもありがたい。走り回ったせいで喉がからからだった。
リリアーヌが席につくなり、今夜のことを簡潔に報告する。
「南区画の民家で、セシル付き女官が何者かと接触していました」
「相手の顔は?」
バルトロが問う。
「見えませんでしたわ。ただ男です。低い声。年配寄り。少なくとも若い従者ではない」
「会話の内容は?」
「見習いが消えていることを把握していました。ルシェルの口も“そのうち閉じる”と」
マルグリットの眉がぴくりと動く。
ルシェル本人も、その弟も、今まさに保護中だ。そこへなおそういう言葉が出るということは、脅しが継続している可能性が高い。
リリアーヌはさらに続けた。
「そして最も重要なのは、王子殿下のお名前が出たことです。『余計な動きをさせないように』という会話がありました」
その一言で、部屋の空気がさらに冷える。
レオンが低く唸った。
「殿下を、動かさないように?」
「ええ。つまり、殿下ご自身が主導しているのではなく、誰かが“管理している”可能性がありますわ」
「あるいは、殿下が不用意に喋るのを恐れているか」
バルトロが補足する。
俺は茶を飲みながら口を挟んだ。
「少なくとも、王子が全部を仕切ってる感じじゃない。舞踏会のときもそうだった。あいつ、キレてはいたけど、どっちかっていうと“予定通り進めること”の方に神経が向いてた」
「……やはり、そう見えまして?」
リリアーヌがこっちを見る。
「見えた」
「その“見えた”が本当に厄介ですわね」
「褒めてる?」
「今回は半分くらい」
前より配分が良くなった。
マルグリットが腕を組む。
「であれば、問題は誰が舞台裏で糸を引いているか、です」
「候補は?」
俺が聞くと、バルトロが静かに答えた。
「現段階では絞りきれません。王子殿下の側近、セシル付き女官、王城内部の一派、あるいはそれらを束ねるさらに上」
「……やっぱり女官ひとりの独断じゃないよな」
「ええ、まずありえません」
リリアーヌはカップを置き、ゆっくり言った。
「ですから、次に見るべきはセシル本人ですわ」
その名が出た瞬間、俺は自然と背筋を伸ばしていた。
セシル・エヴァレット。
聖女候補。
守ってあげたくなるような顔をして、会場中の庇護欲をかっさらっていた少女。
俺が感じた違和感は、今も消えていない。
「ただ」
リリアーヌは少しだけ声を落とした。
「そこが、一番難しい」
「何で?」
「相手が“聖女候補”だからですわ」
そこでバルトロが引き取る。
「現在、王都におけるセシル嬢の評判は非常に高い。清廉、可憐、慈愛深い、傷ついた少女、未来の聖女――そういった言葉で固められております」
「要するに、今一番“疑っちゃいけない相手”ってことか」
「その通りです」
なるほど。
婚約破棄された高飛車な令嬢と、皆に守られる聖女候補。
印象戦で、最初から勝負になっていない。
リリアーヌは窓の外の闇を見やりながら言う。
「わたくしは、セシルがすべての黒幕だとはまだ思っていません」
その言葉に、俺は少しだけ意外さを覚えた。
「そこは断定しないんだな」
「当然ですわ」
彼女はまっすぐ俺を見る。
「嫌いではあります。ええ、とても。ですが、嫌いであることと、すべてをその人のせいにすることは別です」
「……」
「もしあの子が、周囲に作られた“聖女”でしかないのなら」
ほんの少しだけ、声音が複雑になる。
「それはそれで、別の意味で厄介ですもの」
ああ、と思った。
この人は本当に、筋の通らない断定を嫌うのだ。
自分が今まさに雑に断定されている側だからこそ、余計に。
「じゃあ、どうする」
俺が聞くと、リリアーヌは即答した。
「学園ですわ」
「学園?」
「ええ。舞踏会だけを見ても限界がある。あの空気が作られた土台は、もっと前から学園にあったはずです」
レオンが眉をひそめる。
「しかし、お嬢様。今、学園へ出向けば余計な視線が集まります」
「分かっています。だからわたくしは表立っては動きません」
そこで彼女は、ゆっくりと俺へ視線を向けた。
「動くのは、こちらです」
嫌な予感しかしない。
というか、この“こちら”はたぶん俺を含んでいる。
「……何で俺を見る」
「あなた、今のところ外から来た得体の知れない男という立場でしょう?」
「立場の説明がつらいな」
「学園に入り込むには、逆に都合がよろしい」
「都合いいのか、それ」
「自然な理由を作れば、ですわ」
マルグリットが少し前に出る。
「お嬢様、まさか本気で」
「本気です。学園内にまだ味方になりうる者がいるかもしれません。少なくとも、セシルを中心に何が起きていたかは、あそこへ行かなければ見えません」
バルトロは黙考し、それから静かに頷いた。
「理はございます」
「でしょう?」
「ただし、危険も大きい」
「だからこそ、この男を使います」
まただ。
最近この人、“使う”って言い方に遠慮がなくなってきたな。
俺はカップを置いた。
「一応、本人の意思確認ってものはないのか」
「ありますわよ」
「じゃあ聞いてくれ」
「行きなさい」
「聞いてない!」
深夜の応接室に、レオンのため息が響いた。
マルグリットは「やはりこうなりましたか」という顔。バルトロだけが少し口元を緩めたように見えた。たぶん気のせいじゃない。
だがリリアーヌは真面目だ。
「冗談ではありません。あなたが今一番“外から入り込める”位置にいるのは事実です」
「まあ、そうだけど」
「わたくしが堂々と学園へ行けば、余計な警戒が生まれる。セシル側も、王子側も、話すことを選ぶでしょう」
「でも俺なら、何者か分からないぶん様子見される」
「ええ。少なくとも最初は」
理屈は通っている。
通っているのが悔しい。
「それに」
リリアーヌは少しだけ目を細めた。
「あなたはセシルを見たとき、“妙だ”と感じたのでしょう?」
「ああ」
「ならもう一度見なさい。あの子が本当に何も知らないのか、それとも知っていて沈黙しているのか。その入口くらいは、あなたにしか掴めないかもしれない」
その言葉に、俺は返事がすぐ出なかった。
セシルを、もう一度見る。
舞踏会のとき感じたのは、単純な悪意じゃなかった。
むしろ、作られすぎていることへの不気味さだ。
感情が綺麗すぎる。守られるための形に、ぴたりと収まりすぎている。
あれが演技なのか、教育なのか、抑圧なのか。
それは確かに、もう一度近くで見ないと分からない。
「……分かった」
俺が言うと、リリアーヌはほんの少しだけ息を抜いた。
「話が早くて助かりますわ」
「その代わり条件がある」
「言ってごらんなさい」
「学園に俺ひとりを丸投げしないこと」
「当然ですわ。最低限の情報と導線は用意します」
「あと、必要ならあんたも裏で動け」
「言われなくても動きます」
「ならいい」
そこでようやく、深夜の会議は一区切りついた。
だが話はそれで終わらなかった。
リリアーヌが何気なく紅茶を口にし、それからふいに言った。
「……もっとも」
「何だ」
「学園でのあなたは、今以上に不審でしょうね」
「おい」
「立場のない男が、婚約破棄直後の学園に出入りするのですもの。かなり怪しいですわ」
「だったらせめて、名目くらいちゃんと作れよ」
「作りますわよ。ヴァルモン家の遠縁の客人、あるいは臨時の雑務補佐、いくらでも」
「いくらでもって雑だな」
「細部はバルトロが詰めます」
「執事頼みか」
「信頼しておりますので」
バルトロは一礼した。
この人、本当に便利だな。
「あと」
リリアーヌがまたこちらを見る。
「学園内では、くれぐれも余計なことを言わないように」
「余計なこと?」
「たとえば、“その胸は嘘をついていない”ですとか」
「うっ」
思いきり刺さった。
「まだ引きずってるのか!?」
「名台詞のつもりでしたの?」
「いや、勢いで出たやつだよ!」
「勢いで出す台詞の質が終わっておりますわ」
レオンがわずかに顔をそむけて肩を震わせる。
こいつ、今ちょっと笑ったな?
俺が睨むと、レオンはすぐ真顔に戻った。
「何だ」
「別に」
「今、絶対笑っただろ」
「笑っていない」
嘘だ。
だが追及しても絶対認めない顔だ。
リリアーヌは小さく息をついた。
「冗談はともかく、学園では言葉も立場も全部見られます。わたくしがいない場所で、あなたひとりが判断を誤れば、それだけでこちらの動きが読まれる」
「分かってる。慎重にやる」
「ええ。慎重に」
その言葉の裏には、“本当に分かっているのかしら”という不信がたっぷりあった。
まあ、そこは仕方ない。俺でもちょっと不安だ。
会議が終わり、解散になったのはかなり遅い時間だった。
廊下へ出ると、屋敷の中はすっかり静まり返っている。
使用人たちの足音も少ない。遠くで夜番の気配がある程度だ。
リリアーヌも自室へ戻るのだろうと思っていたが、数歩進んだところでふと立ち止まり、振り返った。
「拓真」
「ん?」
「少しだけ、付き合いなさい」
「え」
また夜の庭かと思ったが、今度は違った。
彼女が向かったのは応接室の奥に続く小さなサロンで、普段は家族用らしい、やや私的な空間だった。暖炉には弱い火が残り、窓辺には夜の王都が見える。
俺が戸惑いながら入ると、リリアーヌはカーテンを少し開けて外を見たまま言った。
「確認しておきたいことがありますの」
「何だ」
「あなたは、セシルをどう見ていますの」
真正面からの問いだった。
俺は少し考える。
「難しいな」
「そうでしょうね」
「嫌なやつ、とはまだ思ってない」
リリアーヌは驚かなかった。
たぶん予想していたのだろう。
「でも、妙だとは思ってる」
「妙、とは?」
「うまく言えないけど……“可哀想な聖女候補”として綺麗にできすぎてる」
俺は窓の外の灯りを見ながら言葉を探す。
「普通、ああいう場に立たされたら、もっと汚く揺れるんだよ。怖いなら怖いで、怒りとか戸惑いとか、自分でも整理できないもんが混ざる」
「……」
「でもセシルは、そういうのが見えにくかった。怯えてるように見えるのに、その怯え方まで“そう見えるべき形”に収まりすぎてる」
リリアーヌは静かに聞いている。
「だから、二択だと思ってる」
「二択?」
「ものすごく上手く演じてるか、逆に、自分の感情をそういう形に押し込められてるか」
その言葉に、リリアーヌはゆっくりと目を伏せた。
「……わたくしも」
「ん?」
「わたくしも、あの子を見るたびに、どこまでが本人で、どこからが周囲の都合なのか分からなくなることがありましたの」
夜の火が小さく揺れる。
「可哀想だと思う瞬間も、なくはないのです」
それは本当に小さな声だった。
「ですが、そのたびに、わたくしの周りで何かが少しずつ崩れていった」
「……」
「ですから、今さら同情だけでは済ませられませんわ」
「当たり前だ」
俺が即答すると、彼女は少しだけこちらを見る。
「怒らないのですわね」
「何で怒る」
「あなた、妙に人へ甘いところがありますもの」
「甘いっていうか、雑に決めつけるのが嫌いなだけだ」
「それを甘いと言うのです」
そうかもしれない。
だが俺にとっては、そっちの方が自然だった。
「でも」
俺は肩をすくめる。
「可哀想かもしれない相手でも、あんたを陥れる側に立ってるなら止めるしかないだろ」
リリアーヌはしばらく黙っていた。
その感情の揺れは複雑だ。
嬉しさ。救われる感じ。少しの照れ。
そして、まだ完全には信じきれない慎重さ。
やがて彼女は、小さく言った。
「……そう言ってもらえると、少しだけ楽ですわ」
「そうか」
「ええ。わたくし、自分がセシルを嫌っているせいで、見誤っているのではないかと何度も思いましたもの」
「でも今は、そうかどうかも含めて確かめに行く」
「ええ」
そこで彼女は、ようやくいつもの少し皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「ですから、あなたが頼りなのです。観察眼の気味悪い不審者さん」
「褒め方が一貫してるな」
「分かりやすくて結構でしょう?」
「まあ、あんたらしいよ」
その返しに、リリアーヌは一瞬だけ目を細めた。
怒るかと思ったが、怒らない。
「……それ、嫌いではありませんわ」
「何が」
「“あんたらしい”という言い方です」
俺は少しだけ言葉に詰まる。
この人はたまに、不意打ちみたいにこういうことを言う。
強い顔で、さらっと。
「じゃあ今後も使う」
「調子に乗らないでくださいまし」
「はいはい」
暖炉の火がぱちりと鳴る。
夜は深い。
だが、昨夜よりも今夜の方が、俺たちの間には少しだけ自然な静けさがあった。
やがてリリアーヌは窓辺を離れた。
「戻りましょう。明日には動き出します」
「学園か」
「ええ。次の舞台はあそこですわ」
サロンの扉を開ける前に、彼女は一度だけ立ち止まる。
「拓真」
「何だ」
「セシルは、たぶん簡単な相手ではありません」
「だろうな」
「もしあの子が本当に“何も知らない顔”をしているなら、それ自体が一番厄介です」
その声音には、警戒と、少しの苦さがあった。
「だから」
彼女はまっすぐ俺を見る。
「見誤らないで」
俺は頷いた。
「分かった」
「……本当に?」
「たぶん」
「そこは“ええ”でしょう!」
ぴしゃりと叱られた。
だが、そのやり取りのあとで二人とも少しだけ笑った。
その夜、俺たちは“次にどこを見るべきか”を決めた。
舞踏会の断罪は終わった場面ではない。
あれは学園で育ち、王城へ持ち込まれた空気の結果だ。
なら、元を辿るしかない。
聖女候補セシル・エヴァレット。
皆に愛され、守られ、白く輝くように見える少女。
けれど、その白さは本当に“正しさ”なのか。
それとも、誰かの手で磨かれすぎた不自然な光なのか。
その答えを確かめるために、俺は再び学園へ足を踏み入れることになる。
よりにもよって、婚約破棄騒動の余熱がまだ残るあの場所へ。




