第4話 高飛車令嬢は、ひとりで泣けない
公爵家の客間というものは、俺の知っている“客間”の定義をだいぶ逸脱していた。
広い。
ベッドがでかい。
シーツがやたら柔らかい。
窓も大きい。
机もある。
水差しもある。
暖炉まである。
これ本当に“一時的に拾った不審者”を放り込む部屋なのか?
せめてもう少し雑な部屋でもよかったのではないか。こう、最低限の寝床と監視付きの簡素な客室みたいな。なぜ俺は、下手なホテルより立派な部屋で軟禁されているのだろう。
「……異世界の貴族、生活水準どうなってんだ」
独り言が、静かな部屋に吸い込まれる。
窓の外はすっかり夜だ。王都の明かりが遠くにちらちら見える。高い位置にある月は白く、薄い雲がその前を流れていく。
俺は借り物らしい簡素な寝間着に着替えさせられ、ようやくひと息ついていた。
とはいえ、気は休まらない。
着替えを持ってきた若い侍女には、ドア越しに「中へ置いておいてくれればいい」と言ったにもかかわらず、「念のため直接お渡しします」と真顔で返された。完全に警戒対象である。
部屋の外には、たぶん見張りもいる。
廊下を通る気配が、一定の間隔で微かにする。
客扱いと軟禁のハイブリッド。なかなかない経験だ。
「……でも、まあ」
ベッドの端に座り、ゆっくり息を吐く。
悪くない。
少なくとも、王家にそのまま拘束されるよりはずっとましだ。
そして何より、ルシェルの証言が出た。
舞踏会の件は、やはり最初から何者かの作為が混じっている。
リリアーヌの無実が、完全に証明されたわけじゃない。
だが「全部が彼女の自業自得」ではないと示す最初の綻びにはなった。
そこまで考えて、俺はふと昼間――いや、もう日付が変わりそうだから昨日か――の応接室での彼女の顔を思い出した。
ルシェルが脅されていたと知ったときの、あの怒り。
あれは、自分の立場が悪くなったことへの怒りじゃなかった。
まず先に、侍女が脅されたことへ向いていた。
「……やっぱ、あんまり悪役っぽくないよな」
そう呟いて、また脳裏にあの冷えた声が蘇る。
――今すぐ客間ではなく庭の池に沈めてもよろしくて?
「……訂正。普通に怖いとこもある」
だが、その怖さすら“筋の通った怖さ”だ。
理不尽に人を踏みにじるタイプの怖さじゃない。
たぶん、あの人は自分にも他人にも厳しい。そしてその厳しさを、ずっとひとりで抱えてきた。
そこまで考えたところで、ノックが鳴った。
コン、コン。
控えめだが、はっきりした二回。
「……はい」
返事をすると、ドアの向こうからマルグリットの声がした。
「夜食をお持ちしました」
「夜食?」
「開けます」
「いや、待て」
言う間もなく扉が開く。
さすが侍女長、俺の制止など一切考慮しない。
黒髪をきっちりまとめたマルグリットが、銀の盆を持って入ってくる。その後ろには若い侍女がひとり。盆の上には湯気の立つスープ、パン、簡単な肉料理、果物。普通に豪華だった。
「毒は入っておりません」
「その前置きやめろって!」
「では別の言い方を。粗末なものですが」
「全然粗末じゃないだろ」
マルグリットはテーブルに食事を並べながら、ちらりとも笑わない。
「お嬢様のお情けです。感謝なさい」
「……リリアーヌが?」
「他に誰が」
意外だった。
「普通、自分を巻き込んだ面倒な男に夜食まで回すか?」
「お嬢様は、理不尽を嫌うお方です」
マルグリットは淡々とした口調でそう言った。
「どれほど疑わしい相手でも、空腹のまま放置するのは趣味ではありません」
「……」
「もっとも、わたくし個人としては、少し痩せて反省なさればと思わなくもありませんが」
「やっぱ侍女長こええな」
マルグリットは若い侍女に目配せし、その侍女は一礼して部屋を出ていった。
扉が閉まる。
残ったのは俺とマルグリットだけだ。
彼女は部屋の中央に立ったまま、静かに俺を見下ろした。
「ひとつだけ、言っておきます」
「何だ」
「お嬢様をこれ以上、妙な騒ぎに巻き込まないでください」
「それ、俺が言われるのか」
「ええ、あなたに言います」
即答だった。
「お嬢様は今日、十分すぎるほど傷ついておいでです。それを表に出さないからといって、平気だと思わないことです」
その言葉には、怒りよりずっと深いものがあった。
忠義。心配。長年仕えてきた者の実感。
俺は少しだけ真面目に頷いた。
「……平気だとは思ってない」
「なら結構です」
マルグリットはそれだけ言って出ていこうとしたが、扉の前で一度だけ足を止めた。
「それから」
「?」
「お嬢様は、人前で泣きません」
振り返らないまま、低く続ける。
「子供の頃から、悔しくても、悲しくても、弱みを見せれば付け込まれると知っておいでです。ですから、いつも気丈に振る舞われる」
「……」
「そのことを、少しは覚えておきなさい」
それだけ言い残して、マルグリットは部屋を出ていった。
静かになった部屋で、俺はしばらく動けなかった。
人前で泣かない。
泣けない、じゃなく、泣かない。
たぶん似ているようで違う。
泣きたいときだってあったはずだ。
でも泣くことを許されなかった。強くあることを、自分に課し続けてきた。
「……そりゃ、あんな顔にもなるか」
俺は夜食のスープに口をつけた。
温かい。優しい味だった。思ったよりずっと腹が減っていたらしく、気づけばあっという間にパンも肉料理も平らげてしまった。
食べ終えて、水を飲み、ようやく落ち着く。
頭の中には考えることが多すぎた。
ルシェルの弟を脅した連中。
セシル付きの女官。
王子の側近。
王家からの圧力。
そして、リリアーヌ。
今夜のうちに整理しようと思っていたのに、逆に頭が冴えてしまった。
このままベッドに入っても眠れそうにない。
俺は立ち上がって、窓辺に寄った。
外は静かだ。
屋敷の広い庭が月に照らされている。整えられた植え込み、細い小道、夜でも白く見える石の噴水。遠くの東屋には明かりがなく、風に枝が揺れる音だけがかすかに届く。
そのときだった。
庭の奥、木立の向こうを、人影が横切った。
「……ん?」
白っぽいものが月明かりにふわりと揺れる。
夜着か、それに近い淡い色のドレス。
髪の長さ、歩き方、姿勢。見間違えるはずがない。
リリアーヌだ。
俺は思わず窓を開けた。
冷たい夜気が流れ込む。
「こんな時間に、何やってんだ……?」
もちろん、すぐに追いかけるべきではない。
客間で軟禁中の不審者が夜中に抜け出し、主の娘を追うなど、文字にすると完全に処刑案件である。
だが、マルグリットの言葉が頭を離れない。
――お嬢様は、人前で泣きません。
そして俺は、あの舞踏会で彼女の胸の奥に溜まっていた痛みを見てしまっている。
……放っておくのも、たぶん違う。
「いや、でもな……」
窓辺で葛藤する。
前世の俺ならここで理性が勝ったかもしれない。
だが異世界転生してまだ数時間の現在、理性と好奇心と放っておけなさのバランスがおかしくなっている気がする。
結局。
「……一言だけだぞ、一言だけ」
誰に言い訳しているのか分からないまま、俺は客間の扉を開けた。
廊下は静かだった。
見張りの気配はある。だがちょうど反対側の角へ巡回に行ったらしい。今なら、数分程度なら抜けられる。
やばい。
普通に忍び足してる時点でだいぶ終わってる。
だが幸い、異世界貴族屋敷の廊下は夜でも明るすぎず暗すぎず、人の動きは隠しやすい。俺は靴を持って裸足のまま廊下を進み、階段を下り、裏手へ続く扉をそっと開けた。
夜の庭は、昼間とは別世界だった。
花壇から甘い香りが漂い、芝は月光に青く光り、噴水の水音が静かに響く。ひんやりした空気が肌に気持ちいい。虫の声は少ない。日本の夏とは違う、もっと乾いた夜だ。
リリアーヌの姿はすぐに見つかった。
庭の奥、小さな石造りの東屋の前。
白い夜着の上に薄いガウンを羽織り、ひとりで立っていた。
昼間の紅いドレス姿とはまるで違う。柔らかい布地のせいか、少しだけ年相応に見える。だが背筋はやはり伸びていて、月を睨むように顔を上げていた。
俺は少し距離を取りつつ、声をかける。
「……寝てないのか」
びくり、と肩が揺れた。
リリアーヌが勢いよく振り返る。
その表情を見て、俺は一瞬だけ息を止めた。
泣いてはいない。
泣いてはいないが、目元が赤い。
ほんの少しだけ、昼間の完璧な仮面が崩れている。
「あなた」
声が低い。
だが怒鳴るほどの勢いはない。
「なぜここにいますの」
「いや……たまたま窓から見えて」
「客間から出るなと言いませんでした?」
「言ってた」
「ならなぜ出たのです」
「……気になったから」
夜の庭に、短い沈黙が落ちる。
噴水の水音だけが聞こえる。
リリアーヌは数秒俺を睨んだ後、呆れたように目を伏せた。
「本当に、どうしてそう無遠慮ですの」
「悪い」
「悪いと思うなら戻りなさい」
「戻ってほしいなら戻る」
俺がそう言うと、彼女は少しだけ目を上げた。
追い返す気ならすぐに命じただろうに、そうしない。
《乳眼》で見るまでもなく、今の彼女の感情は複雑だった。
怒り、気まずさ、疲労。
そして――ほんの少しだけ、“ひとりでいたいのに、完全にひとりでいたいわけじゃない”揺れ。
俺は東屋の柱にもたれ、あえて少し離れた場所に立った。
「別に、近づかない。ここで喋るだけならいいだろ」
「勝手に決めないでくださる?」
「だめか」
「……だめと申し上げても、どうせもういますでしょう」
「それはそうだな」
「はあ……」
深いため息。
だが追い払われなかった時点で、完全に拒絶ではない。
月明かりの下で見るリリアーヌは、昼間よりずっと繊細に見えた。
いや、繊細というより、張り詰めすぎて今にも割れそうだ。
強いガラスみたいな人だな、とふと思う。
しばらく沈黙が続いた後、彼女がぽつりと言った。
「みっともないですわね」
「何が」
「こんなところで、一人夜風に当たっていることが」
「別にみっともなくはないだろ」
「婚約破棄された女が、夜中にこっそり庭へ出てくるのが?」
「それでもだ」
俺は即答した。
「むしろ、よくここだけで済ませてるなって思う」
リリアーヌがちらりとこっちを見る。
「もっと荒れればいいと?」
「いや。物投げるとか、叫ぶとか、泣くとか、そういうの」
「……そんなこと、できるわけないでしょう」
その言葉は、ほとんど吐き捨てるようだった。
「屋敷には人がいます。使用人も、家族も、警備もいる。誰がどこで見ているか分からない。わたくしが取り乱せば、それだけで皆を不安にさせる」
「……」
「父は今夜不在ですけれど、だからといって娘が泣き喚いていてはヴァルモンの恥ですわ」
硬い。
あまりにも硬い。
俺は頭をかいた。
「それ、ずっとそうしてきたのか」
「何がですの」
「泣きたいときでも泣かないとか」
リリアーヌは少しだけ唇を引き結んだ。
「……子供の頃、転んで膝を擦りむいたことがありますの」
急に話が飛んだ。
だが俺は黙って聞いた。
「そのとき、屋敷の者の前で泣いたら、母に言われましたわ。『ヴァルモンの娘が人前で泣くものではありません』と」
夜風が、木々を揺らす。
「母は厳しい人でした。優しくないわけではありません。ですが、貴族の娘として、弱みは武器になる前に傷になると、繰り返し教えられましたの」
「……」
「それ以来、できるだけ泣かないようにしてきました。泣かなければ、相手に何も与えなくて済むから」
なるほど。
理屈は分かる。分かるが、しんどい。
俺は小さく息を吐いた。
「今日も?」
「今日こそ、ですわ」
リリアーヌは月から目を逸らさず言う。
「王子の前で泣くなど、冗談ではありません。セシルの前でも、取り巻きの前でも、誰の前でも」
「だから一人でここに?」
「ええ」
「でも、泣いてない」
「泣けませんもの」
その一言に、俺は言葉を失った。
泣かない、じゃない。
泣けない。
ずっとそうしてきた結果、たぶんもう泣き方を忘れかけてる。
夜の静けさが、ひどく重く感じられた。
少し迷ってから、俺は言った。
「今日のこと、悔しいか」
リリアーヌは鼻で笑った。
「愚問ですわね」
「まあ、だよな」
「悔しいに決まっております」
その声には鋭い熱が戻る。
「アレクシス殿下に捨てられたことが悔しいのではありません。……いえ、それがまったくないと言えば嘘になりますけれど」
そこで彼女は少しだけ口元を歪めた。
「幼い頃から婚約者として育てられた相手ですもの。好いた惚れたでなくとも、それなりの情はありましたわ」
「……そうか」
「ですが、それ以上に許せないのは」
彼女の瞳が強くなる。
「わたくしが、まるで最初から“そういう役”だったかのように扱われたことです」
その言葉は静かだったが、芯に火があった。
「高飛車で、きつくて、可愛げがなくて。だから、聖女候補をいじめる悪役令嬢であっても不思議ではない――皆、そう思ったのでしょう」
「……」
「反論しにくいではありませんの。わたくし、実際に優しくはありませんから」
「でも、だからってそこまでされる理由にはならない」
「ええ。そうですわ」
リリアーヌはやっとこっちを見た。
月明かりの中、その目は強く、そして少しだけ脆かった。
「わたくしはセシルに冷たくしました。好意的ではありませんでした。茶会でも、何度か刺々しい言葉を口にしました。ですが」
「脅迫や細工はしていない」
「しておりません」
即答。
揺れに濁りはない。やはり本当だ。
「なのに、あまりにも“それらしく”罪が積み上がっていくのです。まるで誰かが、わたくしならやりそうなことを丁寧に並べていったみたいに」
それはまさに、俺が感じていた違和感そのものだった。
「セシルが嫌いだったのは、ただ守られてばかりいたからじゃないんだな」
そう言うと、リリアーヌは少しだけ目を細めた。
「……あなた、たまに妙なところで勘がいいですわね」
「たまにじゃなくて結構いつもな」
「自画自賛しないでくださる?」
「すまん」
だが彼女は、そのまま話を続けた。
「最初は、単に気に入らなかっただけです。ああいう“誰もが庇いたくなる顔”を向けられるのが」
「顔って言うんだな、あんたも」
「あなたほどではありません」
そこは釘を刺された。
「ですが、途中からおかしいと思うようになりましたの」
「何が」
「セシルの周囲にいる人間ですわ」
夜風に髪が揺れる。
彼女はガウンの前を軽く押さえながら、低く続けた。
「セシル本人は、正直なところまだ判断がつきません。愚かなだけなのか、利用されているのか、それとも全部承知で演じているのか」
「……」
「けれど、あの方の周囲にいる者たちは、妙に早く、妙に自然に、わたくしを悪者へ押し込めようとする。気づいたときには空気ができていて、誰もそこから外れようとしない」
「王子も?」
「殿下も」
少しだけ寂しそうな揺れが混じった。
俺は黙る。
「最初から愚かな方ではありませんでしたわ。人の上に立つ者として、最低限の分別はお持ちだった。ですが、ここ数ヶ月で目に見えて変わりました」
「セシルに傾いた」
「ええ。……それだけならまだ、若い殿方の気の迷いで済みます」
「済むのか」
「済みませんわね、よく考えれば」
少しだけ、俺たちは同時に苦く笑った。
その空気が少し和らいだところで、俺は思い切って言った。
「なあ」
「何ですの」
「俺、まだこっちの世界の常識とかよく分かってないんだけど」
「でしょうね」
「こういうとき、婚約破棄ってそんな簡単に通るのか?」
リリアーヌは眉をひそめる。
「……本来なら、簡単にはいきません」
「だよな」
「公爵家と王家の婚約ですもの。感情だけで破棄できるほど軽いものではない。だからこそ、今日の舞踏会は“皆の前での断罪”という形を取ったのでしょう」
「既成事実にしたいわけか」
「ええ。“悪役令嬢だから捨てられて当然”という空気を作ってしまえば、あとは押し切りやすい」
ああ、やっぱりそうだ。
現代でも似たようなことはある。事実そのものより先に空気を作った方が勝つ。
だからこそ腹が立つ。
俺は東屋の柱に背中を預けたまま、ゆっくり言った。
「で、その空気の中で、あんたはずっと一人で立ってたわけだ」
「一人で立つしかなかっただけですわ」
「でも、しんどかっただろ」
「当然です」
「なら、少しは弱音吐いていいんじゃないか」
リリアーヌはじっと俺を見る。
「あなたに?」
「今ここには俺しかいないし」
「それが問題ですわね」
「ひどいな」
「事実ですもの」
そう言いながらも、彼女は完全には拒まない。
むしろ、迷っている。
弱音を吐きたい。
でも相手が俺なのは信用しきれない。
その綱引きが、分かる。
「……わたくしは」
やがて彼女が、ぽつりとこぼした。
「父に、申し訳ないのです」
その言葉は、想像していたよりずっと小さかった。
「ヴァルモン公爵家の娘として育てられ、王家との橋渡しとなるよう教育されてきました。わたくし自身、いつかその役目を果たすものだと思っていた」
「……」
「それが、こんな形で傷をつけられた。家の名まで巻き込んで」
「家は、あんたを責めるのか」
「父は責めないでしょう」
「じゃあ」
「だからこそ、ですわ」
リリアーヌは目を伏せた。
「責めないと分かっているからこそ、なおさら顔向けしづらい」
その感情は重い。
怒りでも恥でもなく、もっと静かな痛みだ。
俺はしばらく考えてから、正直に言った。
「それ、たぶんあんたが真面目すぎるんだよ」
「褒めていますの?」
「半分。半分は呆れてる」
「失礼ですわ」
「でも本気で思ってる」
俺は彼女を見る。
「父親が責めないなら、それはあんたを信じてるからだろ。なのにあんたが勝手に一人で抱え込んでるなら、そっちの方が余計つらくなる」
「……簡単に言ってくださいますわね」
「簡単じゃないのは分かる。でも」
少し言葉を選ぶ。
「俺、あんたのその“全部自分で飲み込んで平然としてる感じ”、見てて落ち着かない」
リリアーヌは一瞬だけ目を丸くし、それから呆れたように笑った。
「またそれですの」
「まただ」
「本当に失礼な人」
「知ってる」
「ですが」
彼女は少しだけ口元を緩めた。
「……嫌いではありませんわ、その言い方」
その瞬間、胸の奥が妙に熱くなった。
あ、今のは結構うれしい。
かなりうれしい。
だが顔に出すとたぶん調子に乗るので、俺は咳払いで誤魔化した。
「そ、そうか」
「何を動揺してますの」
「してない」
「しておりますわよ」
月明かりの下で、初めて少しだけ空気が軽くなった。
それでも夜は深い。
問題は何ひとつ解決していない。
だが、リリアーヌの顔からはさっきまでの張り詰めた痛さがほんの少しだけ抜けていた。
たぶん、話したかったんだろう。
認めないだろうけど。
「……ねえ、拓真」
ふいに、彼女が名前を呼んだ。
呼ばれ慣れていないせいで、心臓が妙に跳ねる。
「なんだ」
「あなた、あの場で言いましたわね」
「何を」
「“あんたの胸は嘘をついていない”と」
ぶふっ、と変な声が出そうになった。
そうだ、言った。
勢いで言った。
かなり決め台詞っぽく言ってしまった。
「……言ったな」
「あれはどういう意味ですの」
来た。
来てしまった。
ここが一番危険だ。
《乳眼》のことを全部言うわけにはいかない。
でも、まるごと誤魔化すと嘘になる。
俺はしばらく空を見上げ、それからできるだけ真面目に言った。
「……俺は、人が無理してるときとか、嘘ついてるときとか、そういうのが妙に気になる質なんだよ」
「それで?」
「で、あんたを見たとき、ああ、この人は今、めちゃくちゃ怒ってて悔しくて、でも必死で立ってるんだって分かった」
「……」
「少なくとも、“してやったり”じゃなかった」
リリアーヌは静かに聞いている。
追及はしてこない。
たぶん、それ以上はまだ聞くべきではないと思っているのだろう。
「だから、ああ言った」
「わたくしの“胸”などと言わずとも、他に言い方があったでしょうに」
「それは本当にそう」
「自覚はおありなのね」
「かなりある」
彼女はくすりと笑った。
今度の笑いは、少しだけ年相応だった。
「……でも」
リリアーヌはガウンの袖を指先でつまみながら、小さく言う。
「あの言葉を聞いたとき、少しだけ救われたのも事実ですわ」
その瞬間、俺は完全に言葉を失った。
夜の庭。
月明かり。
静かな花の香り。
その中で、婚約破棄された悪役令嬢が、初めて少しだけ本音をこぼす。
ずるい。
そういうのはずるい。
「……そっか」
やっとそれだけ返すと、彼女はまた強がるように顎を上げた。
「勘違いしないで。だからといって、あなたを信用したわけではありません」
「分かってる」
「まだ怪しい部分だらけですもの」
「それも分かってる」
「ですが、今夜くらいは」
彼女は月から目を逸らし、まっすぐ俺を見る。
「少しだけ、話し相手にしてあげてもよろしくてよ」
その言い方に、俺は思わず笑ってしまった。
「何だよそれ。上からだな」
「わたくしは公爵令嬢ですもの」
「そうだった」
「忘れていましたの?」
「いや、たまに普通の女の子みたいな顔するから」
しまった、またやった。
だが今度、リリアーヌは怒らなかった。
少しだけ目を細めただけだ。
「……普通の女の子、ですの」
「嫌だったか」
「いいえ。ただ」
「ただ?」
「そう見えるなら、少しだけ安心しますわ」
その返しが来るとは思わず、俺はまた言葉に詰まった。
夜風が流れる。
噴水の音が、少しだけ近くに聞こえた。
しばらく俺たちは、すぐには事件と関係のないことをぽつぽつと話した。
王都の夜は前世の東京より静かだとか。
ヴァルモン家の庭は春の方が花がきれいだとか。
俺がこの世界の食べ物にまだ慣れていないとか。
リリアーヌは甘すぎる菓子が嫌いだとか。
ほんの少しだけ、普通の会話だった。
そうしているうちに、最初の張り詰めた空気はかなり薄れていた。
もちろん、問題は山積みだ。
婚約破棄も陰謀も何一つ終わっていない。
だが、少なくとも今この瞬間だけは、彼女は一人で立っていなかった。
やがて、屋敷の方から遠く鐘の音がした。
夜更けを告げる音だろう。
リリアーヌが小さく息をつく。
「……戻りましょう」
「そうだな」
「これ以上あなたを庭に放置していると、本当に不審者ですもの」
「今でもかなり不審者だと思うけど」
「否定はしませんわ」
俺たちは並んで屋敷へ向かった。
少し距離を空けて。
でも、さっきよりはずっと自然に。
屋敷の裏口に着く直前、リリアーヌがふいに立ち止まった。
「拓真」
「ん?」
「明日から、もっと忙しくなりますわ」
「だろうな」
「わたくしは、ただ泣いて終わるつもりはありません」
その声音には、もうさっきまでの揺れは少なかった。
代わりに、燃えるような意志がある。
「今日の屈辱も、家にかけた迷惑も、全部まとめて返してみせます」
俺は頷いた。
「その方があんたらしい」
「ええ。そうでなくては困りますもの」
そう言って、彼女はほんの少しだけ笑う。
「ですから、あなたも覚悟なさい」
「何の」
「わたくしの味方をすると、ろくなことにならないと申し上げたでしょう?」
「聞いたな」
「本当ですわよ」
「でも」
俺は肩をすくめた。
「たぶん、嫌いじゃない」
リリアーヌは一瞬だけ目を見開き、それから呆れたように笑った。
「……変な人」
「今さらだろ」
「ええ、今さらですわね」
裏口の扉が静かに開く。
暖かな屋内の空気が流れてくる。
その夜、婚約破棄された悪役令嬢は泣かなかった。
けれど、少しだけ弱さを見せた。
そして俺は、その弱さごと彼女を嫌いになれそうにないと、はっきり自覚してしまった。
明日からは、また面倒な現実が始まる。
王家への対応、侍女の保護、証拠探し、そして屋敷の人間たちの警戒。
だが今は、それでいいと思えた。
あの舞踏会で、たったひとりで立っていた少女は、少なくとも今夜だけは、一人ではなかったのだから。




