第3話 おっぱい紳士、悪役令嬢の屋敷で処刑されかける
ヴァルモン公爵家の屋敷は、ひと言でいえば「でかかった」。
いや、もっと語彙を尽くすべきなのだろうが、異世界貴族の屋敷を初めて見た庶民上がりの高校生としては、まずその感想が先に来る。でかい。広い。門が高い。塀が長い。庭がだだっ広い。噴水まである。どこまでが庭でどこからが公園なんだ。維持費どうなってるんだ。
夜の王都を走ってきた馬車は、やがて黒い鉄門の前で速度を落とし、そのままゆっくりと敷地の中へ入っていった。
月明かりに照らされた石畳の先、正面には白亜の大邸宅がそびえている。三階建てどころの話じゃない。中央棟に左右の翼棟、広い車寄せ、等間隔に並ぶ窓。いかにも「由緒と金があります」と言わんばかりの外観だった。しかも嫌味じゃない。手入れが行き届いていて、屋敷そのものに妙な威圧感より気品がある。
「……すげえな」
思わず漏らすと、向かいに座っていたリリアーヌが冷ややかにこちらを見た。
「田舎者丸出しですわよ」
「悪いか。こういう屋敷、前世でもそうそう見たことねえよ」
「前世?」
「言い間違いだ」
「変な人ですわね、本当に」
変なのはお互い様じゃないか、と思ったが口には出さない。
今の俺は、公爵家に“監視付きで拾われる不審者”という大変不安定な立場にある。初日から追い出されるのは避けたい。
馬車が止まり、扉が開く。外にはすでに使用人たちが並んでいた。執事、侍女、従者らしき人影がずらりと玄関前に立ち、主であるリリアーヌの帰還を待っている。
だがその空気は、歓迎一色ではなかった。
ざわつき。緊張。困惑。怒気。
そして俺を見た瞬間に増す、明確な警戒。
そりゃそうだ。婚約破棄された令嬢が、どこの誰とも知れない男を一緒に連れ帰ってきたのだ。しかも舞踏会で問題を起こした乱入者である。屋敷の人間から見れば、怪しさしかない。
俺が馬車を降りた瞬間、空気がさらに冷えた。
「お嬢様」
先頭にいた年配の男が一歩前へ進む。黒の燕尾服に白手袋、銀髪をきっちり撫でつけた執事だ。背筋は年齢を感じさせないほどまっすぐで、声は静かだが通る。
「お帰りなさいませ」
「ただいま戻りました、バルトロ」
リリアーヌの口調がわずかに変わった。王城で見せた鋭さを残しつつも、屋敷の主としての落ち着きがある。
執事――バルトロはうやうやしく一礼し、それからようやく俺を見た。
「……こちらは?」
「王家預かりにされかけていた不審者ですわ」
「説明が雑だな」
「正確でしょう?」
正確ではあるけどもう少し何とかならないのか。
バルトロは表情を崩さなかった。だが《乳眼》を使うまでもなく、その目の奥に濃い不審があるのは分かる。
「お嬢様。恐れながら、そのような人物をお屋敷へお連れになる理由をお聞かせ願えますか」
「監視のためです」
「……監視」
「舞踏会の最中に現れ、王子の断罪に横から噛みついた挙げ句、わたくしを庇って騒ぎを大きくした男ですもの。放っておけば面倒なことになる予感しかしませんわ」
「俺の扱いが一貫してひどい」
「ですが」
リリアーヌはそこで言葉を継いだ。
「今夜の件で、この男が見ていたものもあります。少なくとも、王家へそのまま預けておくよりは、こちらで目を届かせた方がよろしいと判断しました」
それは建前半分、本音半分だろう。
《乳眼》で見ると、彼女は今も「使えるなら使いたい」「でも信用はしていない」という綱引きの最中にいる。
バルトロはわずかに目を伏せた。
「かしこまりました」
さすが執事だ。主の命令には従う。
だがその直後、別方向から鋭い声が飛んだ。
「かしこまる話ではありません!」
空気がぴんと張る。
階段の上から現れたのは、黒髪をきっちり束ねた女だった。三十代半ばほど。侍女長だろうか、黒と白を基調とした使用人服を着ているが、その眼光は騎士より鋭い。小柄なのに迫力がある。
「お嬢様。今は平時ではございません。王家との間で何が起きたかもまだ把握しきれていないのに、素性の知れぬ男を屋敷に入れるなど――」
「マルグリット」
リリアーヌが名を呼ぶ。
侍女長――マルグリットは一度口を閉じたが、怒りは引っ込んでいない。
「申し訳ありません。しかし、この者は危険です」
「危険かどうかを判断するために連れてきたのですわ」
「舞踏会でお嬢様の胸元を見つめていた男ですよ!?」
やめろ。
事実だけど、玄関先で大声で言うな。
しかも使用人たちの前で。
案の定、ざわめきが広がる。
「まあ……」
「本当に?」
「信じられない……」
「最低では……?」
最低です。はい。
いや目的は違ったんだって。違ったんだが説明できない以上、俺が限りなく不利であることに変わりはない。
リリアーヌは額に手を当て、明らかに面倒くさそうに息を吐いた。
「そこは……まあ、問題がなかったとは言いませんけれど」
「否定なさいませ、お嬢様!」
「できるだけ見ないようにすると約束はさせましたわ」
「約束で済む話ではありません!」
玄関先が地味に修羅場である。
すると、今度は脇に控えていた若い男が前へ出た。短く刈った茶髪、がっしりした体格、腰に剣。護衛騎士だろう。顔つきは生真面目で、俺を見る目はほぼ敵意だった。
「お嬢様。俺からも申し上げます。そいつは危険です」
「レオン、あなたまで」
「当然です。王都の真ん中で突然現れた得体の知れない男です。しかも殿下の御前で騒ぎを起こした。普通ならその場で斬っていてもおかしくない」
「物騒だな!」
「おかしくない!」
即答された。
この護衛、俺に対してだけは判断が早い。
リリアーヌは静かに言った。
「レオン。剣を抜く理由はありませんわ」
「今は、でしょう」
「今後もです」
「お嬢様」
「命令です」
短く切ったその一言で、若い護衛騎士――レオンは渋々ながらも口を閉じた。
しかし《乳眼》で見るまでもなく、警戒心はまったく解けていない。
むしろこの屋敷、リリアーヌのことを大事に思ってる人間が多いからこそ、俺への殺意が高いのでは?
それに気づいて、俺は少しだけ目を瞬かせた。
舞踏会で見たリリアーヌは、社交界全体から悪役扱いされていた。だからてっきり、屋敷でも恐れられたり嫌われたりしているタイプかと思っていた。
だが違う。
ここにいる使用人たちは、彼女を本気で案じている。
侍女長も護衛も怒っているのは“リリアーヌのため”だ。
少なくとも、日常的に暴虐を振るう典型悪役令嬢なら、こうはならない。
その事実が、妙に腑に落ちた。
「……何ですの、その目は」
リリアーヌがじろりと睨む。
「いや」
「いや、ではありません」
「思ったより慕われてるんだなって」
一瞬、空気が止まった。
やばいこと言ったか?
だがもう遅い。全員の視線がこっちに集中する。
マルグリットが眉をつり上げた。
「何が言いたいのです」
「いや、だって」
俺は率直に言った。
「みんな、俺を排除しようとしてるけど、それってこの人を守ろうとしてるからだろ」
使用人たちが一斉に黙った。
リリアーヌも、わずかに目を見開いている。
しまった。こういうのは心の中で思うだけにしておくべきだったかもしれない。だが出たものは戻らない。
「……あんた、口を閉じていればまだ不審者で済むのに」
リリアーヌが低く呟いた。
「喋るたびに面倒な方向へ行くな」
「それは否定しない」
「否定なさい!」
侍女長に怒鳴られた。
だが、その怒鳴り声の中にも、妙な揺れがある。
困惑。動揺。そして、ほんの少しの“こいつ、見えているのか?”という違和感。
もちろん《乳眼》のことなんて誰にも分かるはずがない。だが、俺が屋敷に漂う空気を妙に正確に言い当てたせいで、完全な変質者として切り捨てにくくなったのだろう。
バルトロが咳払いをひとつした。
「お嬢様。お話は中で伺いましょう。玄関先では何ですので」
「そうですわね」
リリアーヌは頷き、俺に向かって顎をしゃくった。
「ついてきなさい。不審者」
「名前呼びはまだ解禁されないのか」
「信用が足りませんもの」
「序盤だから仕方ないけど地味に傷つくな」
「傷つく繊細さがおありなら、最初から少しは慎みなさい」
正論だった。
屋敷の中へ入ると、外観に負けない豪華さが広がっていた。磨かれた石床、赤い絨毯、高い天井、壁には肖像画や風景画、等間隔に飾られた燭台。夜でも十分明るいのは、あちこちに魔道具めいたランプが置かれているからだろうか。炎に見えるが煙がない。
正直、きょろきょろしたかった。
だが今そんな態度を取れば田舎者というより完全に盗賊予備軍である。俺はできるだけ平静を装って歩いた。
通されたのは応接室だった。
広すぎる。重厚なソファが並び、中央には低いテーブル、壁際には本棚と飾り棚。暖炉まである。しかも暖炉の前には毛足の長い絨毯。踏んでいいのか少し不安になるレベルだ。
リリアーヌが上座に座り、バルトロが背後に控える。マルグリットは扉の近く、レオンは俺の斜め後ろに立った。逃げたら斬る布陣だなこれ。
「座りなさい」
リリアーヌが向かいのソファを示す。
「立ったままでは話しづらいでしょう」
「……ありがとう」
「勘違いしないで。立たせたままだと、余計に怪しいからです」
「その言い方もう飽きてきた」
「慣れなさい」
座ると、やたら高級そうなクッションが沈んだ。
落ち着かない。庶民はこういうソファに弱い。
すると、別の侍女が静かに入ってきて、茶器を並べ始めた。
香りのいい紅茶だ。さすが公爵家。
……いや待て。
俺、不審者だよな?
何で紅茶が出るんだ。処刑前の最後の情けか?
俺が困惑していると、マルグリットがきっぱり言った。
「毒は入っておりません」
「いやそこ疑ってなかったけど言われると逆に怖いな!?」
「疑われるような事情を作っているのはそちらです」
「はい」
ぐうの音も出ない。
リリアーヌは紅茶には手をつけず、まっすぐ俺を見た。
「では、改めて聞きます」
「何だ」
「あなたは何者ですの」
「その質問、また来るよなあ」
「当然です」
「名前は如月拓真」
「それは聞きました」
「身分は……ない」
部屋の空気が凍った。
そりゃそうだ。
公爵令嬢の応接室で、「身分はない」はかなり終わっている。
レオンが一歩前へ出る。
「やはり斬るべきでは」
「早い早い早い!」
「待ちなさい、レオン」
リリアーヌが止める。
だが彼女自身の表情も渋い。
「身分がない、とは」
「そのままの意味だ。戸籍とか、家とか、そういうのを説明できない」
「より悪化しましたわね」
「分かってる」
「逃亡奴隷、流民、密偵、呪術師、異端者。いくらでも面倒な可能性がありますわよ」
「最後らへん急にファンタジー感が強いな」
「ここはファンタジーですわ」
「それもそうか……」
自分で言っていて悲しくなってきた。
リリアーヌは腕を組む。
紅いドレスから着替えてはいないが、マントを脱いだ分、舞踏会より少しだけ素顔に近い空気だ。とはいえ相変わらず気が強い。
「では、質問を変えましょう」
「どうぞ」
「あなたは、なぜあの侍女に気づきましたの」
ああ、そこか。
舞踏会の去り際に現れた侍女。側近に止められたあの場面だ。
俺は少し考えてから答える。
「側近の反応が露骨だったから」
「それだけ?」
「あと、侍女の方も“言わなきゃ”って顔してた」
「また“顔”ですの」
「分かりやすい言い方をしてるだけだ」
リリアーヌはじっと俺を見る。
その視線は厳しいが、単なる否定ではない。彼女は今、本気で俺を測っている。
「あなたは、人の機微を読むのが得意なの?」
「……得意、なのかもな」
「曖昧ですわね」
「こっちも急にそうなったから自信がない」
「急に?」
しまった。
言葉の綻びは危険だ。
俺は慌てて咳払いをした。
「いや、そういう意味じゃなくて。前から何となく、空気の変化には敏感だった」
嘘ではない。
前世でも、空気が悪い教室とか、誰かが無理してる感じとかにはわりと気づく方だった。今は《乳眼》のせいでそれが妙な方向に強化されているだけで。
バルトロが初めて口を開いた。
「お嬢様」
「何かしら」
「この者、少なくとも人の反応を見ることには長けているようです」
「長けすぎていて気味が悪いですわ」
「否定はいたしません」
ひどい執事だな。
だが、その言葉には敵意だけじゃなく、観察者としての冷静さがあった。
バルトロはこの屋敷の空気をよく見ている。たぶん一番厄介なのは、この人かもしれない。
マルグリットは腕を組み、俺を睨んだまま言う。
「人の反応を見るのが得意だとして、それが何だと言うのです。お嬢様の疑いが晴れるわけではありません」
「晴れないな」
俺は素直に頷いた。
「でも、手がかりにはなる」
「何ですって?」
「少なくとも、舞踏会で全部が自然に起きたわけじゃない」
部屋の空気が変わる。
リリアーヌの揺れも、それを待っていたようにわずかに動いた。
俺は続ける。
「王子は、怒ってたけど、どっちかっていうと“予定通り進めること”の方に必死だった。側近は侍女が喋ろうとした瞬間に焦った。セシルは……」
そこで少し言葉を切る。
セシルのことは、まだ断定しない方がいい。
むしろ俺自身、何だったのか掴み切れていない。
「……セシルは?」
リリアーヌが問う。
「妙だった」
「曖昧ですわね」
「曖昧にしか言えない。怖がってるようには見える。でも、怖がり方が整いすぎてる」
「整いすぎている?」
「うまく言えないけど、“そう見えるべき感情”が最初から準備されてる感じだ」
マルグリットが眉をひそめる。
レオンはまったく納得していない顔だ。
だがリリアーヌだけは、すぐには否定しなかった。
彼女はゆっくりと指先でソファの肘掛けをなぞりながら言う。
「……わたくしも、あの方に違和感がなかったわけではありません」
「お嬢様」
バルトロが低く呼ぶ。
だがリリアーヌは止まらない。
「最初から、あまりにも“可哀想な聖女候補”に収まりが良すぎましたの」
そう。そこだ。
俺が感じた気持ち悪さは。
「周囲はあの方を見れば守りたくなる。話せば庇いたくなる。泣けば、わたくしが悪者に見える。そういう流れが、あまりに早く、あまりに綺麗にできすぎていました」
「じゃあ何で最初にもっと動かなかった?」
つい聞くと、リリアーヌの視線が刺さった。
「簡単に言ってくださいますわね」
「悪い」
「……動きましたわよ。それなりには」
彼女は少しだけ目を伏せる。
「ですが、証拠もないまま“何かおかしい”と訴えても、聞く耳を持つ者は少ない。わたくしはもともと物言いがきつい。そこへあの方の儚さが重なれば、どちらが信じられるかなど目に見えております」
その言葉に、部屋の空気がわずかに沈む。
俺は思わず黙った。
たしかにそうだ。
高飛車で強そうな女と、守ってあげたくなる可憐な少女。誰が見ても“物語”は決まりやすい。
「それでも」
リリアーヌは顔を上げた。
「本日の舞踏会で出された“証拠”は、いささか出来すぎでしたわ」
「ドレス破損、か」
「ええ」
彼女は眉をひそめた。
「わたくしがそこまで愚かなら、もっと早くに尻尾を出しています」
「言い方が独特だな」
「侮辱されておりますの?」
「いや、逆に納得した」
この人はたぶん、姑息なことをするより真正面から喧嘩を売るタイプだ。
性格はかなり面倒くさい。だが陰湿な小細工は似合わない。
俺がそう思っていると、ふと《乳眼》が何かを捉えた。
部屋の端。
茶器を下げようとしていた若い侍女の感情が、不自然に跳ねたのだ。
俺は反射的にそちらを見る。
侍女は慌てて視線を逸らした。
普通ならそれで終わる。
だが《乳眼》で見ると、彼女の胸元には明確な恐れと躊躇いが渦巻いていた。しかもその恐れは“俺に見られたこと”だけじゃない。“ここで何か言うべきか迷っている”揺れだ。
何だ?
俺がじっと見てしまったせいで、マルグリットが即座に反応した。
「貴様、どこを見て――」
「待て!」
俺は思わず立ち上がった。
レオンの剣の柄に手がかかる。
リリアーヌの眉も吊り上がる。
だがそんなことより先に、俺は若い侍女へ向き直っていた。
「今、何か知ってるだろ」
「え……」
侍女の顔が青ざめる。
「し、知る、とは……」
「舞踏会の件だよ。あんた、さっきからずっと喋るべきか迷ってる顔してる」
「顔、顔と――!」
マルグリットがキレかける。
だがリリアーヌが手で制した。
「……名前は」
侍女はびくっと肩を震わせる。
「ル、ルシェルでございます」
「ルシェル」
リリアーヌの声は静かだった。
「何を知っていますの」
「お、お嬢様、わたしは……」
ルシェルと呼ばれた侍女は、怯えきっていた。
それは俺への恐怖ではない。もっと別の種類の、後ろ暗さと、言えば何かが壊れることへの恐れ。
ここで《乳眼》を使うのは気が引ける。
引けるが、見えるものは見える。
彼女は、リリアーヌを裏切りたいわけじゃない。
でも何かを隠している。しかもそれは、自分のためだけじゃない。
「ルシェル」
今度はマルグリットが低く呼ぶ。
「答えなさい」
「わ、わたしは……」
言葉が詰まる。
部屋の中の全員が固唾を呑む。
そして彼女は、ついに絞り出すように言った。
「舞踏会の前、衣装室で……セシル様付きの方を、お見かけしました」
その瞬間、全員の視線が彼女に集まった。
「何ですって」
リリアーヌの声が鋭くなる。
ルシェルは両手を握りしめ、震えながら続ける。
「本来、あの時間に他家の方が入る理由はございません。ですが、セシル様付きの女官の方が……『お嬢様への贈り物を預かった』と仰って……」
「それをなぜ今まで黙っていましたの!」
レオンが怒鳴り、ルシェルはびくりと縮こまる。
俺は舌打ちしそうになった。そこ怒鳴る場面じゃないだろ。
だがリリアーヌはすぐにレオンを手で制し、ルシェルへ向き直る。
「落ち着きなさい。最後まで話して」
その声は、さっきまでよりずっと穏やかだった。
ああ、この人、本当にこういうときはちゃんと主なんだな。
ルシェルは涙目のまま頷く。
「わたし、変だと思いました。けれど、相手は聖女候補様付きの方で……しかもその後すぐに、控室で騒ぎが起きて……。あまりに大きな話になってしまって、わたしなんかが口を挟めば、余計に混乱すると思って……」
「……脅されましたの?」
バルトロが静かに問う。
ルシェルはぎくりとした。
その反応だけで十分だった。
《乳眼》でも同じ答えが出ている。明確な恐怖。しかも“自分が叱られる”程度のものじゃない。
「……はい」
小さく、小さく答える。
「昨日、王都で弟が……。見知らぬ男たちに、『余計なことを喋るな』と……」
「くそ」
思わず呟いた。
王子側か、側近か、それとも別の誰かか。
少なくとも、これは偶然の嫌がらせじゃない。証言を潰す動きが実際にある。
リリアーヌの感情が大きく揺れる。怒りだ。
だがその怒りは自分が陥れられたことより、いま目の前の侍女が脅されていたことへ向いていた。
「……最初から、こういうことでしたのね」
低い声。
部屋の空気がぴりつく。
マルグリットが険しい顔で言う。
「お嬢様。ルシェルの家族はすぐ保護すべきです」
「ええ、当然ですわ。バルトロ」
「承知いたしました」
執事は即座に一礼し、すぐに指示を出すため部屋を出ようとする。動きに一切無駄がない。できる男だ。
そしてその最中、レオンが俺を振り返った。
「……お前」
「何だよ」
「どうして分かった」
「だから、様子が」
「様子だけで、ここまで当てるか普通」
護衛騎士の目にはまだ警戒がある。
だがそれだけじゃない。明らかな戸惑いが混じっていた。
そうだろうな。
屋敷に入ってきた変態不審者が、侍女の証言を引きずり出したのだ。気味が悪くもなる。
マルグリットも、さっきまでの怒り一辺倒ではなくなっている。
完全には信用していない。だが、ただの邪魔者として切れなくなっている。
その中で、リリアーヌだけがしばらく黙っていた。
やがて彼女は、静かに俺を見る。
「あなた」
「ん?」
「……本当に、何者ですの」
さっきと同じ問い。
でも意味は少し違った。
今度のそれは、警戒だけじゃない。
理解できないものへの戸惑いと、使えるかもしれないという現実的な判断、そしてほんの少しの期待が混ざっている。
俺は頭をかいた。
「そう聞かれると困るんだよな」
「困るで済まさないでくださいまし」
「でも今言えるのは」
俺は正直に言った。
「少なくとも、あんたを雑に悪役にした連中よりは、あんたのことをちゃんと見てるつもりだ」
言った瞬間、部屋が妙に静かになった。
しまった。
少し格好つけすぎたかもしれない。
レオンは露骨に顔をしかめる。
マルグリットは「何を言っているのこの男は」という顔だ。
ルシェルは半泣きのままぽかんとしている。
そしてリリアーヌは――
「……最悪ですわね」
額に手を当てた。
「どうしてそう、言葉の選び方が危ういの」
「いいこと言ったつもりだったんだけど」
「それが一番危ういのですわ」
だが、叱る声の奥にある揺れは、完全な拒絶ではなかった。
むしろ少しだけ、熱が柔らかい。
そのとき、廊下の向こうで慌ただしい足音がした。
バルトロが戻ってくるには早い。別の誰かだ。
応接室の扉がノックされ、若い従者が顔を出す。
「お嬢様、大変です!」
「騒がしいわね」
「王城から使者が!」
部屋の空気が凍る。
「使者?」
「はい! 本日の件について、明朝までにヴァルモン家としての正式な見解を出すようにと……それと」
従者は一瞬だけ俺を見た。
嫌な予感がした。
「乱入者の男についても、身元と処遇を報告せよ、と」
ああ。
そう来るよな。
王子側が俺を放置するわけがない。
リリアーヌの目が鋭くなる。
《乳眼》で見ると、怒りと同時に計算が走っていた。どう動くべきかを考えている。
「……そう」
彼女は短く言った。
「ならなおさら、今夜のうちに整理しなくてはなりませんわね」
そして次の瞬間、彼女は俺へ向き直った。
「不審者――いえ、拓真」
初めて、名前で呼ばれた。
その事実に一瞬だけ思考が止まる。
だが彼女はそれどころではない顔をしていた。
「あなた、今夜からこの屋敷の客間に入れます」
「……客間?」
「ただし軟禁です。監視つき。逃げたら捕まえます」
「客扱いと軟禁が同時に来るの、なかなか新しいな」
「文句は結構」
リリアーヌは立ち上がる。
ドレスの裾が揺れ、金の髪が背中でさらりと流れた。
「あなたが本当に使えるのか、それともただの面倒な変態なのか、明日までに見極めます」
「評価の軸がひどい」
「ですが」
そこで彼女は一瞬だけ言葉を止めた。
「今の証言を引き出したのは事実ですわ。そこだけは、認めます」
その言葉に、部屋の空気がまた少し変わる。
マルグリットもレオンも不満そうではあるが、完全に反対はしなかった。
俺はゆっくり息を吐いた。
どうやら初日の“屋敷から即処刑”ルートは回避できたらしい。
危なかった。
本当に危なかった。
だが同時に、ひとつの確信もあった。
リリアーヌ・ヴァルモンは、やはり典型的な悪役令嬢じゃない。
強い。気高い。面倒くさい。プライドも高い。
でも、自分に仕える侍女が脅されていたと知って、怒りの向きがそこへ行く人間だ。
そんな人間を、雑に悪役で片づけていいわけがない。
俺がそう考えていると、リリアーヌがふいにこちらを見た。
「まだ何か?」
「いや」
「では何ですの、その顔」
「思ったより、あんた悪女じゃないなって」
また空気が止まった。
レオンが「やはり斬るべきでは」と呟き、マルグリットが額を押さえる。
ルシェルは泣きながらも少しだけ笑いそうな顔をした。
リリアーヌは数秒黙り込んだ後、冷えた声で言った。
「……今すぐ客間ではなく庭の池に沈めてもよろしくて?」
「よくない!」
「でしたら、余計な感想は胸の内だけにおしまいなさい」
胸の内。
その言葉に少しだけ引っかかりつつ、俺は両手を上げた。
「分かった。以後気をつける」
「絶対に気をつけませんわね、あなた」
「努力はする」
「努力で足りる気がしないのですけれど」
そう言いながらも、彼女の感情の揺れは、さっきより明らかに険しくなかった。
その夜。
王家からの圧力が迫る中で、俺は悪役令嬢の屋敷に軟禁されることになった。
そして、舞踏会の裏にあった“違和感”は、ただの勘違いではなく、確かな手触りを持った疑いへと変わり始めていた。
少なくともひとつ、もう見えている。
あの婚約破棄は、ただの痴話喧嘩なんかじゃない。
誰かが、丁寧に、周到に、リリアーヌを悪役へ仕立てようとしている。
問題は、その“誰か”がどこまで手を伸ばしているかだ。
応接室の扉の外では、王城からの使者がまだ待っているらしい。
俺の異世界生活三時間目は、どうやら一気に政治と陰謀の匂いを帯びてきたようだった。




