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第2話 変態、不敬罪寸前で悪役令嬢に拾われる

 牢屋というものは、もっとこう、じめじめしていて、藁が敷かれていて、隅でネズミが走っているものだと思っていた。


 だが、異世界の貴族社会における“王家預かりの一時拘束室”は、俺の想像よりだいぶ上等だった。


 石造りなのは同じだが、壁はきちんと磨かれているし、床も不潔ではない。鉄格子はあるが錆びていない。粗末とはいえ椅子もある。天井近くの小窓からは月明かりが細く差し込み、じめっとした臭いより、地下特有の冷たい空気の方が勝っていた。


 つまり、見た目ほど悲惨ではない。

 だからといって、拘束されて嬉しいわけではまったくないが。


「……最悪だろ、これ」


 俺は独り言をこぼし、壁にもたれた。


 さっきから状況を整理しようとしているのに、整理すればするほど意味不明だ。


 看板事故で死ぬ。

 白い空間で乳神と会う。

 《乳眼》とかいう、能力自体は便利そうなのに名称と発動条件が最悪すぎる加護をもらう。

 そのまま乙女ゲーム風異世界へ落下。

 気づけば舞踏会のど真ん中。

 婚約破棄イベントの最中に乱入。

 第一王子に喧嘩を売る。

 悪役令嬢を庇う。

 結果、地下牢行き。


 うん。

 箇条書きにするとさらにひどいな。


「初日でこれかよ……」


 俺は額を押さえた。


 せめて転生直後くらい、パンとスープと農村の朝日みたいな穏やかな導入があってもよかったんじゃないのか。何でいきなり権力闘争のど真ん中に投げ込むんだ。乳神の雑さに改めて腹が立ってきた。


 しかも《乳眼》だ。

 あれは、たしかに見えた。

 見えたから困る。


 リリアーヌの揺れ。王子の焦り。セシルの不自然さ。側近の露骨な動揺。全部、ただの勘よりはるかに明瞭だった。


 つまり能力自体は本物だ。


 そして本物だからこそ、なおさら厄介だった。


「これ、使い方間違えたらマジで人として終わるやつじゃねえか……」


 いや、間違えなくても傍目には終わってる気もする。

 さっきだってそうだ。俺は捜査のつもりで見ていたのに、側近に「どこを見ている」と突っ込まれた瞬間、会場中の視線が死ぬほど冷たくなった。


 分かってる。

 俺でもそう思う。

 事情を知らない第三者からすれば、断罪の場で令嬢の胸元ばかり見ていた不審者でしかない。


「……いや、実際見てたんだけど。目的が違うんだよ目的が」


 誰に言い訳してるんだ俺は。


 椅子に腰かけようとしたところで、廊下の向こうから足音がした。


 硬い靴音。二人か三人。衛兵だろうか。もう取調べでも始まるのか。せめて水くらいくれよと思いながら顔を上げると、足音は牢の前で止まり、鉄格子越しに人影が揺れた。


 最初に見えたのは女騎士の姿だった。すらりとした長身に軽装の甲冑、腰には剣。二人いる。表情は固い。


 そして、その後ろ。


 紅いドレスの裾が、月明かりを受けて静かに揺れた。


 金の髪。

 張った背筋。

 冷えた美貌。


 リリアーヌ・ヴァルモン本人だった。


「……は?」


 思わず間の抜けた声が出る。


 彼女は女騎士に向かって軽く顎を引いた。


「少しだけ、下がっていなさい」


「しかし、お嬢様」


「聞こえませんでしたの?」


 声は静かだったが、逆らわせない強さがあった。

 女騎士たちは一瞬ためらったものの、最終的には数歩下がって廊下の角へ移動する。完全に離れるわけではないが、少なくとも会話までは聞こえにくい距離だ。


 残されたのは、鉄格子を挟んで向かい合う俺と彼女だけだった。


 しばらく沈黙が落ちる。


 先に口を開いたのは、リリアーヌだった。


「ずいぶんと元気そうですわね、不審者」


「その呼び方で固定なのかよ」


「名前を存じ上げませんもの」


「……それはそうか」


 正論だった。

 俺は咳払いをひとつして、姿勢を正した。


「如月拓真」


「……キサラギ?」


「拓真は名前。キサラギが姓だ」


「変わった響きですわね。どこの家の者ですの?」


「えーと」


 詰んだ。


 戸籍がない。身分がない。家もない。転生直後にそんなもの用意されているわけがない。いや、こういうときテンプレなら“記憶を失った平民”とか“遠国から来た旅人”とかで誤魔化すんだろうけど、俺には異世界の地理知識がない。適当な国名を言って即バレしたら終わる。


 数秒黙った俺を、リリアーヌは冷たい目で見た。


「答えられませんの?」


「答えにくい事情がある」


「便利な言い回しですこと」


「嘘ではない」


「本当かどうかを判断する材料が、わたくしにはありませんわ」


「……まあ、そうだな」


 俺が肩をすくめると、リリアーヌは小さく息を吐いた。


「あなた、本当に何者なんですの」


 その問いは、さっきの舞踏会のときより少しだけ温度が低かった。

 怒っているというより、計っている。

 警戒しながらも、知ろうとしている。


 《乳眼》がうっすらと反応している。

 今の彼女には、敵意だけじゃなく、明確な疑問と――ほんの少しの期待が混ざっていた。


 俺はできるだけ真顔を作った。


「少なくとも、あんたの差し金じゃない見知らぬ男」


「それは舞踏会で聞きましたわ」


「あと、今のところあんたの味方をしてる男」


「そこが一番信用できませんのよ」


 即答だった。


 だが、切り捨てるような言い方のわりに、感情の揺れは完全な拒絶じゃない。むしろ「なぜそんなことをするのか理解できない」という戸惑いの色が強い。


 そりゃそうだ。

 俺だって逆の立場なら意味が分からない。


「……聞きたいことがある」


「どうぞ。もっとも、わたくしが答えるかどうかは別ですが」


「何でわざわざ来た?」


 率直に言うと、それが一番不思議だった。


 彼女は今、婚約破棄された当人だ。王家預かりになるとか言われていたし、立場は相当悪いはずだ。なのに、わざわざ地下の拘束室まで、俺みたいな意味不明な乱入者を見に来る理由がない。


 リリアーヌはほんの少しだけ目を細めた。


「確認ですわ」


「何を?」


「あなたが、本当にただの愚かな変質者なのか。それとも、もっと面倒な何かなのか」


「愚かな変質者ってひどいな」


「舞踏会の場でわたくしをあれだけ見ていれば、そうも言いたくなります」


「うっ」


 痛いところを突かれた。


 いや違うんだ。違わなくもないが違うんだ。

 だがここで「実は胸を見ると感情が分かる能力があって」なんて言ったら完全終了である。第一、信じてもらえる気がしない。


 俺が言葉に詰まると、リリアーヌはますます冷たく言った。


「黙りましたわね」


「……いや、弁解しようとしてた」


「ではお聞かせなさい」


「しても余計に最低だと思われる可能性が高い」


「現時点でもかなり最低寄りですわ」


「ですよね」


 ぐうの音も出ない。


 地下の小窓から差す月明かりが、鉄格子の影を床に落としていた。妙に静かだ。遠くで兵士の足音がする以外、何も聞こえない。


 この静けさの中で、誤魔化しは難しい。


 俺は腹を括った。

 全部は言えない。だが、何も言わないままでは絶対に信用されない。


「……あんた、やってないだろ」


 リリアーヌの表情がぴくりと動く。


 俺は続けた。


「茶会で嫌味を言ったとか、セシルと仲が悪いとか、そういうのはあったかもしれない。でも、脅迫文とか、ドレスに細工とか、そういう回りくどい真似はしてない」


「……」


「少なくとも、あんたはそういう顔してなかった」


 言ってから、またやってしまったと思った。

 “顔”という言い方も、彼女には充分に不快だろう。


 だが、リリアーヌはすぐには怒らなかった。


「顔、ですの」


「……変な言い方なのは分かってる。でも、分かるときがある」


「見れば分かる、と?」


「そうだ」


「人を見ただけで本質が分かるなんて、随分傲慢ですわね」


 鋭い。

 けれど、それも正しい。


 俺は少しだけ笑った。


「否定はできない」


「そこで開き直るのですか」


「ただ、少なくとも俺は、最初からあんたを“悪役令嬢だから黒”って決めつける連中よりはましだと思ってる」


 その瞬間。


 リリアーヌの揺れが、わずかに変わった。


 怒りと警戒の中に、微かな痛みが走る。

 それはたぶん、舞踏会で散々浴びた視線を思い出したからだ。


 彼女は目を伏せず、まっすぐ俺を見返したまま言った。


「……あなたは、何を見たのですの」


「え?」


「舞踏会で。あなたはわたくしを庇った。見ず知らずの相手を、あの場で。何を根拠に、そこまで言い切れましたの」


 そこを聞くか。


 聞くだろうな。

 普通なら一番重要なところだ。


 俺は鉄格子越しに彼女を見返した。

 ここで嘘を重ねるのはたぶん駄目だ。全部は言えないにしても、俺なりの本音は見せた方がいい。


「怒ってた」


「……は?」


「すげえ怒ってた。悔しそうだったし、腹立ってたし、たぶん殴れるなら何人か殴りたかったと思う」


「あなた、わたくしを何だと」


「でも、怯えてはいても、罪を隠してる感じじゃなかった」


 リリアーヌの瞳がわずかに揺れる。


「むしろ、“なんでこんな雑な筋書きに乗せられなきゃならないんだ”って顔だった」


「……」


「あと、たぶん誰かを庇ってるか、巻き込みたくないと思ってた」


 そこまで言ったところで、彼女の表情が一瞬だけ崩れた。


 本当に一瞬だけだ。

 だが、《乳眼》でなくても分かるくらい、確かに動いた。


「……何を」


 声が低くなる。


「何を根拠に、そんなこと」


「言っただろ。見れば何となく分かるときがある」


「ふざけないで」


 初めて、明確な怒気が乗った。


 リリアーヌは鉄格子に近づいた。

 距離が縮まる。紅いドレスの裾がわずかに揺れる。香りが届く。甘すぎず、きつすぎず、気高い印象に似合う落ち着いた花の匂いだった。


「わたくしは今夜、公衆の面前で婚約破棄され、悪女のように扱われ、家の名まで傷つけられましたのよ」


 声は強い。

 だが、その内側は傷だらけだ。


「そんな状況で、どこの誰とも知れぬ男に“見れば分かる”などと言われて、納得できると思って?」


「……納得しなくていい」


「何ですって?」


「納得しなくていい。でも、俺は見た」


 俺も立ち上がった。

 鉄格子越しに、真正面から彼女を見る。


「俺は、あの場であんただけが“悪役”じゃなかったって思った」


 沈黙。


 冷たい地下室の空気が、妙に重く感じられた。


 リリアーヌは俺を睨んでいる。

 睨んでいるのに、感情の揺れは完全に否定へ行っていない。むしろ、拒絶したいのにしきれない困惑が強い。


 やがて彼女は、苛立ちを押し隠すように息を吐いた。


「最悪ですわ」


「何が」


「そんな言い方をされると、怒りにくいではありませんの」


「怒ってはいるんだな」


「当然でしょう!」


 即答だった。

 だが、その瞬間にほんの少しだけ熱が柔らかくなる。

 ああ、やっぱりこの人、根っこが真面目なんだ。


「じゃあ一個聞くけど」


「まだありますの?」


「本当に何もやってないのか」


 リリアーヌは表情を引き締めた。


「何も、の定義によりますわね」


「セシルに嫌味を言ったとか、茶会でキツく当たったとか、そのへんは?」


「ありますわ」


 清々しいほどあっさり認めた。


 俺は思わず片眉を上げる。


「あるのかよ」


「ありますとも。わたくしはあの方が好きではありませんもの」


「そこははっきり言うんだな」


「嘘をつく意味がありませんわ。あの方は、あまりにも“守られる側”に収まりすぎている」


「……」


「誰もがあの方を見れば庇いたくなる。話す前から、泣かせてはいけないと思う。そういう空気を、最初から纏っている」


 それは、俺が《乳眼》で感じた違和感とかなり近かった。


 リリアーヌは続ける。


「だから気に入らなかったのです。ええ、認めますわ。わたくしはあの方に優しくしませんでした。距離も置きました。茶会でも冷たくしたことがあります」


「でも、脅迫とか細工はしてない」


「しておりません」


 即答。


 その揺れに濁りはない。

 これは本当だ。


「脅迫文など、あまりに稚拙ですわ。仮にわたくしが誰かを追い詰めるにしても、あんな安っぽい真似はしません」


「言い方が強いな」


「わたくしは性格がよろしくありませんもの」


「それ自分で言うのか」


「事実ですから」


 そこで、彼女はほんの少しだけ視線を逸らした。


「……ただ」


「ただ?」


「本日の件が、ここまで大きくなるとは思っていませんでした」


 声が低くなる。

 自嘲と疲労が混ざる。


「多少の中傷なら、いずれ収まると思っていたのです。学園内のくだらない派閥遊びだと。ですが……あの方の周囲にいる連中は、わたくしを悪者にする筋書きを、最初から随分丁寧に用意していたようですわね」


 やっぱりか。


 俺は腕を組んだ。


「舞踏会で止められた侍女、いたよな」


 リリアーヌの目が鋭くなる。


「見ていましたの?」


「見てた。あの眼鏡の側近、あいつが露骨に止めた」


「……わたくしも気づきました」


「だよな」


「本当は、あなたの乱入よりそちらの方がよほど重要ですわ」


「ひどいな」


「事実でしょう」


 事実だった。


 けれど、その“事実”の中に、少しだけ別の温度があるのが分かる。

 彼女は俺を邪魔なだけの存在としては見ていない。少なくとも今は。


「お嬢様」


 廊下の向こうから女騎士の声が飛んだ。


「そろそろ長くは……」


「分かっていますわ」


 リリアーヌは短く返し、それから再び俺を見る。


「もうひとつ聞きます」


「何だ」


「あなた、なぜあの場でわたくしを庇いましたの」


「さっき言っただろ。シロに見えたから」


「それだけで、王家の場に割って入る人間がどこにいますの」


「ここにいる」


「答えになっていません!」


 初めて少し声を荒げた。

 だがその反応が、妙に人間くさくて少し安心する。


 俺は頭をかいた。


「……嫌だったんだよ」


「何がですの」


「全員であんたを“分かりやすい悪役”にして、気持ちよく断罪してる空気が」


 リリアーヌの表情が静かに止まる。


 俺は続けた。


「本当に悪いことしたなら、それは裁かれればいい。でも、最初から筋書きありきで“あいつならやりそう”って決めつけるのは嫌いだ」


「……」


「あと、あんた」


「わたくし?」


「一人で全部飲み込んで立ってただろ」


 その瞬間、彼女の感情が明確に揺れた。


 痛いところを突いた。

 たぶん図星だ。


「見てて落ち着かなかった」


「……あなた、本当に失礼ですわね」


「自覚はある」


「初対面の女性に、一人で耐えているだなんて」


「違ったか?」


 リリアーヌは、返事をしなかった。


 できないのだろう。

 彼女の揺れがそれを語っていた。


 長い沈黙のあと、彼女はようやく口を開いた。


「あなた……本当に気味が悪いですわ」


「褒め言葉として受け取るには厳しいな」


「褒めておりません」


「だろうな」


「ですが」


 そこで彼女は少しだけ顎を引いた。

 凛とした顔。冷たい声。なのに感情の奥では、ほんの少しだけ覚悟を決めている。


「このままでは、あなたまでわたくしの共犯にされます」


「すでに結構されてる気がするけど」


「だからこそです。王子側は、おそらく“見知らぬ乱入者と悪役令嬢が内通していた”という形にしたがる」


「まあ、しそうだな」


「放っておけば、あなたはどこの誰とも知れぬまま、都合のいい小悪党として処理されるでしょう」


 さらっと怖いことを言う。


「処理って」


「比喩ではありませんわよ」


「うわあ……」


 王都の貴族社会、思ったより物騒だ。


 リリアーヌはドレスの裾を指先でつまみ、小さく整えた。

 その仕草ひとつとっても育ちの良さがにじむ。たぶん癖なのだろう。気持ちを整えるための動きだ。


「ですので」


 彼女ははっきりと言った。


「あなたを、ひとまずわたくしの監視下に置きます」


「……は?」


「耳が悪いのかしら。不審者」


「いや、意味が分からなくて聞き返した」


「分からないことがありますの?」


「いや全部だよ!」


 思わず声が大きくなる。


「何でそうなる!? 普通こういう流れって、“得体の知れない男は危険だから遠ざける”だろ!」


「ええ。そうすべきですわ」


「じゃあ何で!」


「あなたを野放しにした方が、もっと面倒な予感がするからです」


 即答だった。


 しかも、それなりに理屈として成立しているのが困る。


 リリアーヌはさらに淡々と続けた。


「それに、あなたはこの件について既に首を突っ込みすぎています。舞踏会で騒ぎ、侍女の異変にも気づき、王子側の側近へまで疑いの目を向けた。今さら“何も知りません”では済みませんわ」


「……」


「ならば、いっそわたくしの手元に置いた方が管理しやすい」


「管理って」


「監視です」


「言い直してもひどいな」


「あなた、信用に値する行動がほとんどありませんもの」


 うん、それはそう。


 だが、《乳眼》で見る限り、彼女の言っていることは表向き半分、本音半分だった。

 建前は監視。

 本音は――使えるかもしれない、だ。


 もちろん全面的に信じているわけじゃない。そんなわけがない。

 でも、舞踏会での俺の言葉が、彼女の中にほんの小さな引っかかりを残したのも事実だった。


「俺を連れて帰る気か?」


「拾う、と言い換えても構いませんわ」


「いやその言い方だと犬猫みたいなんだけど」


「不審者よりはましでしょう?」


「どっこいどっこいだと思う」


 リリアーヌは鼻で笑った。


 その笑いは小さく、短かった。

 だがさっき舞踏会で見た一瞬の笑みと同じ種類のものだった。


「……ひとつ、条件があります」


「条件?」


「わたくしの前で、勝手な正義感を振り回さないこと」


「それは努力目標でいいか?」


「だめです」


「即答だな」


「それから、わたくしのことをあまりじろじろ見ないこと」


「うっ」


 また刺さった。


 リリアーヌはじろりと俺を見た。


「言っておきますけれど、あなたの視線、かなり問題がありますわよ」


「それは……すまん」


「素直に謝られると調子が狂いますわね」


「いや、そこは俺が悪いし」


 実際、悪い。

 目的はどうあれ、本人に不快感を与えていたなら謝るしかない。


 だが彼女は少しだけ意外そうに目を瞬き、それから視線を逸らした。


「……まあ、よろしいですわ」


 その“よろしい”には、完全な許しではなく、一時保留に近い響きがあった。


「では、決まりです」


「待て待て。俺の意思は?」


「ありますの?」


「あるにはある」


「では聞きますけれど、今この場でわたくしの申し出を断って、あなたはどうするつもりですの」


「……」


「家は? 身分は? 金は? 知人は? ありませんわよね?」


「ぐ……」


「おまけに王家の場を乱した前科つきです。放り出されれば、半日も経たずにまた捕まりますわ」


 完璧に正論だった。


 異世界転生ものって、もっと主人公に優しくてもよくないか?

 普通は冒険者ギルドとか、親切な村人とか、最初の装備一式くらいあるだろ。何で俺は悪役令嬢の監視下に入るか野垂れ死ぬかの二択を迫られてるんだ。


 だが、考えるまでもなく答えは決まっていた。


「……分かった」


「聞こえませんでしたわ」


「分かったって。ひとまずあんたのところに行く」


「ひとまず、ですわよ」


「分かってるよ、ひとまずだ」


「よろしい」


 そのとき、廊下の奥から再び女騎士の気配が近づいた。


「お嬢様、時間です」


「ええ」


 リリアーヌは短く返し、最後に俺を見る。


 さっきまでより少しだけ、視線の温度が違った。

 氷みたいな冷たさの中に、ほんの少しだけ人間的な色が混じっている。


「拓真、と言いましたわね」


「……ああ」


「勘違いしないで。助けるわけではありません」


「知ってる。監視だろ」


「ええ。監視です」


「二回言ったな」


「大事なことですもの」


 彼女は身を翻した。

 紅いドレスの裾が揺れ、金の髪が月明かりを反射する。


 去り際、彼女は立ち止まり、振り返らないまま言った。


「ですが」


「?」


「舞踏会でのあの言葉……あれだけは、少しだけましでしたわ」


 それだけ言って、今度こそ歩き出す。


 女騎士たちが後に続き、足音が遠ざかる。地下の廊下に残るのは、石壁に反響する靴音の余韻だけだった。


 俺はしばらくその場で立ち尽くしていた。


「……少しだけ、か」


 思わず口元が緩む。


 いや、喜ぶな。

 あれは褒め言葉じゃない。たぶん最大限譲って“完全なゴミではない”くらいの評価だ。普通に考えれば低い。低いが、この状況ではだいぶ前進でもある。


 それにしても。


「悪役令嬢、思ったよりずっと面倒くさくて、思ったよりずっとまともだな……」


 俺がそう呟いたところで、牢の鍵が開く音がした。


 今度は男の衛兵だった。さっきの連中より年上で、口数が少なそうな顔をしている。


「出ろ」


「え、もう?」


「ヴァルモン公爵令嬢の要請だ。お前の身柄は、ひとまず公爵家預かりとなる」


「仕事早いな」


「余計なことを言うな」


 俺は鉄格子の外へ出た。

 両手首にかけられていた簡易拘束具はそのままだが、さっきより扱いは少しだけ雑じゃない。王家の牢から、公爵家預かりの不審者へランクアップしたらしい。まったく嬉しくないが。


 廊下を歩きながら、俺は衛兵に尋ねた。


「なあ」


「何だ」


「さっきの令嬢、普段からあんな感じなのか?」


「……あんな感じ、とは」


「強くて、冷たくて、でも完全には見捨てない感じ」


 衛兵はちらりと俺を見た。

 何だその質問は、という顔だ。


「余計な詮索はやめておけ」


「でもあの人、屋敷でも結構信頼されてそうだった」


「……」


「舞踏会でも、少なくとも本気で嫌ってるやつばかりじゃなかった」


 衛兵は少しだけ黙り、それからぼそりと言った。


「口は悪いが、筋は通すお方だ」


「やっぱり」


「それ以上は知らん」


 知ってるじゃねえか。


 だが、その一言だけでも十分だった。


 地下階段を上ると、冷たい空気が少し和らいだ。地上の廊下には明かりが灯り、夜会の喧騒はもう遠い。舞踏会そのものはおそらく終わりに向かっているのだろう。あるいは、俺とリリアーヌが消えたあとも、何事もなかったように続いているのかもしれない。


 そう思うと、少しだけ腹が立った。


 誰かの人生がひっくり返る瞬間を見物して、そのままワイン片手に夜を終える連中がいる。

 だが、まあいい。

 こっちにはこっちのやることがある。


 玄関口近くで、俺は再び彼女の姿を見た。


 リリアーヌは既に外套を羽織っていた。さっきまでの紅いドレスの上に深い紺のマントを重ねている。夜気の中でも背筋は崩れず、馬車の前に立つ姿は、婚約破棄された直後の女には見えないほど堂々としていた。


 こちらに気づくと、彼女は露骨に嫌そうな顔をした。


「……本当に連れてくるのですのね」


「そっちが言い出したんだろ」


「最後まで王家に押しつけられれば楽でしたのに」


「本音漏れてるぞ」


「漏らしておりますもの」


 ひどい。


 だが、そのやり取りの間にも、《乳眼》は彼女の内側にある別の揺れを拾っていた。

 疲労。緊張。家へ戻ることへの気まずさ。

 そして、これからどうなるのか分からない不安。


 それを表には一切出さないのだから大したものだ。


 馬車の扉が開けられる。

 衛兵が俺の拘束具を外し、その代わり女騎士が片側にぴたりとつく。逃げたら斬る気だな、これ。


「乗りなさい」


 リリアーヌが言う。


 俺は馬車のステップに足をかけ、ふと振り返った。王城の夜空には月が浮かび、白い石造りの塔が静かに光っている。ほんの数十分前まで、俺は日本の高校生だった。今は異世界の王城から悪役令嬢に連行される不審者だ。


 人生って本当に何があるか分からない。


 車内に入ると、向かいの席にリリアーヌが座った。

 女騎士は外。二人きりだ。


 馬車がゆっくりと動き出す。


 最初は無言だった。

 だが沈黙に耐えられなくなったのは、たぶん俺の方だった。


「なあ」


「何ですの」


「ひとつだけ言っとく」


「不穏ですわね」


「俺、あんたの敵じゃない」


 リリアーヌは窓の外を見たまま、淡々と返す。


「知っていますわ」


「え?」


「少なくとも現時点では、敵のやり口にしては不器用すぎますもの」


「フォローなのかそれ」


「いいえ、事実です」


 月光が窓から差し込み、彼女の横顔を照らす。

 強い顔だ。きれいだ。だが近くで見るほど、張り詰めているのが分かる。


 彼女は小さく息を吐いた。


「ですが、味方だともまだ思っておりません」


「そこはまあ、だろうな」


「ええ。ですから証明なさい」


「何を」


「わたくしがシロだというのでしょう?」


 リリアーヌが初めて真正面から俺を見る。


「なら、それを証明してみせなさい。変態紳士気取りの不審者さん」


 挑発的な言い方だった。

 だが、その奥には確かに願いがあった。


 信じたい。

 でも信じるのは怖い。

 だから試す。


 そういう揺れだ。


 俺は自然と口元を上げていた。


「変態紳士“気取り”じゃない。目指してるんだよ、ちゃんと」


「どこを目指しているのか本当に分かりませんわね」


「俺もたまに分からなくなる」


「呆れますわ」


 リリアーヌはそう言って、ほんの少しだけ笑った。

 今度は舞踏会のときより、もう少しはっきりと。


 馬車は夜の王都を進んでいく。

 石畳の揺れが、身体に規則正しく伝わる。


 婚約破棄された悪役令嬢。

 身分不明の転生者。

 最悪の第一印象から始まった、妙な同盟。


 だがたぶん、ここからだ。


 俺は窓の外の王都を見ながら、静かに息を吐いた。


 ひとつだけ、はっきりしていることがある。


 俺はもう、この件から逃げられない。

 そしてたぶん――逃げる気も、もうあまりなかった。

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