第1話 その胸は、嘘をついていない
どうやら、ろくでもない異世界生活の幕開けらしい。
そんな感想が頭をよぎった直後、俺は大理石の床に手をついたまま、思いきりむせた。
「げほっ、ごほっ……っ!」
痛い。背中も肘も尻も痛い。異世界転生というのはもっとこう、ふわっと光に包まれて、気づいたら草原とか神殿とか、そういう優しい導入じゃないのか。なぜ俺は豪奢な大広間の真ん中近くに雑に投げ出されているのか。世界観の都合にしても説明が足りない。
周囲がざわついていた。
「な、何者だ」
「どこから現れたのだ」
「不審者か!?」
「舞踏会の最中に……?」
絹の衣擦れ、香水の甘い匂い、磨き上げられた床に反射するシャンデリアの光。見渡せば、そこは絵に描いたような貴族の大広間だった。壁は白と金で飾られ、天井は高く、巨大な窓には夜の闇が広がっている。その中央で、色鮮やかな礼装に身を包んだ男女が、まるで芝居の観客のように一点を見つめていた。
その視線の先。
高い壇上の近くで、ひとりの少女が立っていた。
淡い金髪を美しく結い上げ、深い紅のドレスを纏い、背筋をまっすぐに伸ばしている。顔立ちは整っているのに、表情は鋭い。可愛いというより気高い。華やかというより凛としている。いかにも「お高いお嬢様」という印象だが、今その周囲にあるのは羨望ではなく、明確な敵意と好奇の混じった空気だった。
そしてその正面には、青い礼装に身を包んだ若い男。
整った顔、金の刺繍が施された上着、場に慣れきった立ち姿。こいつがさっき叫んでいた第一王子だろう。
「リリアーヌ・ヴァルモン」
王子は、まるで劇場の主役を気取るように右手を差し出し、その先を少女に向けた。
「貴様は聖女候補セシル・エヴァレットに対し、度重なる嫌がらせ、侮辱、脅迫、そして本日の舞踏会における危害の企てまで行った。そのような女を、王家の婚約者として認めることはできん。よってこの場で、貴様との婚約を破棄する!」
会場のあちこちから、わざとらしいどよめきが上がる。
「まあ……!」
「やはり」
「噂は本当でしたのね」
「聖女候補様にあれほどのことを……」
おいおい。
テンプレだ。思っていた以上にテンプレだ。
俺は頭を押さえた。いや、その前に状況を整理しろ。ここは乳神が言っていた乙女ゲーム風異世界。そして今まさに目の前で、婚約破棄イベントが進行している。しかも俺の位置は観客席ですらない。ほぼ乱入者だ。
最悪のタイミングじゃねえか。
「衛兵! その不審者を捕らえよ!」
あ、やっぱりそうなるよな。
王子の声で、入口付近にいた鎧姿の男たちが慌ててこちらへ向かってくる。俺は反射的に立ち上がろうとして、豪華すぎる床に足を滑らせ、危うくもう一度転びかけた。
「ちょ、待て待て待て! 話せば分かる!」
「分かるわけがなかろう!」
そりゃそうだ。突然大広間の床に現れた見知らぬ男が「話せば分かる」と言っても説得力はゼロである。俺だって逆の立場なら捕まえる。
だが、その瞬間。
壇上の近くにいた少女――リリアーヌ・ヴァルモンが、ほんのわずかに俺の方を見た。
それだけで、妙な感覚が走った。
目の奥が熱い。視界の焦点が、意志と関係なく吸い寄せられる。胸の奥がざわつき、頭の中に、あの白い空間で見た金色の紋様がちらついた。
まさか。
「……うそだろ」
来た。
来やがった。《乳眼》だ。
視界がほんの少し変わる。色が増えたわけでも、輪郭が強調されたわけでもない。だが“見え方”が違った。服の上からでも、その人物の感情の揺れが、熱の濃淡みたいなものとして伝わってくる。
最初に目に入ったのは、リリアーヌだった。
彼女の胸元には、激しい波があった。怒り。悔しさ。屈辱。傷ついた自尊心。そして――踏みとどまる強さ。怖がっていないわけじゃない。だがそれ以上に、「ここで折れたくない」という意地が強い。追い詰められた人間特有の混乱はあるのに、決定的な後ろめたさの濁りがない。
少なくとも、“悪事を暴かれた人間”の揺れじゃなかった。
次に王子を見る。
こいつは……妙だ。
表向きは堂々としている。だが内側には焦りがある。怒りというより苛立ち。しかもその苛立ちはリリアーヌ個人への感情だけじゃない。何かを予定通り進めなければという、妙に事務的な圧が混じっている。
さらに、王子の隣。
ふわりとした淡い色のドレスに身を包んだ、小柄で可憐な少女がいた。栗色の髪、守ってあげたくなるような儚い顔立ち。こいつが聖女候補セシルか。
そして、見た瞬間に俺は眉をひそめた。
読みにくい。
いや、揺れはある。だが不自然だ。感情そのものが薄いんじゃない。むしろ逆に、表に出すべき感情がきれいに整いすぎている。怯え、悲しみ、か弱さ――そう見えるように作られた波形。人間の感情って、こんな教科書みたいに並ぶか?
ぞわりと背筋が粟立った。
さらにその周囲にいる取り巻き令嬢や側近たちを見ると、露骨だった。勝ち誇り、優越感、面白がり、そして「ここで空気を合わせなければ」という打算。会場全体が、最初から筋書きの決まった舞台みたいな空気で固まっている。
何だこれ。
リリアーヌだけが、あまりに孤立していた。
「……おい」
思わず声が漏れた。
衛兵がすぐ目の前まで来ている。なのに、そのことがどうでもよくなるくらい、壇上に立つあの少女の空気が気になった。
彼女はたぶん、嫌なやつだ。口も悪いだろう。高慢だろう。性格に難はあるかもしれない。だが、それとこれとは別だ。
この場に流れているのは、正義の断罪じゃない。
もっと嫌なものだ。
“全員でひとりを悪役に仕立てて気持ちよくなっている空気”だ。
俺は、それが嫌いだった。
ものすごく嫌いだった。
「ひかえろ!」
衛兵が腕を掴もうとした瞬間、俺はその手を振りほどき、ほとんど反射で叫んでいた。
「待て! その令嬢、多分シロだ!」
一瞬、空間が死んだ。
音楽も、ざわめきも、衣擦れも止まったように感じた。
誰もがこっちを見る。
最悪だ。
知ってる。俺も今、自分でやらかしたのは分かっている。
「……何だと?」
王子が眉を吊り上げる。
俺はごくりと喉を鳴らした。いや待て、ここで引いたら終わる。何で終わるのかは分からないが終わる気がする。プロローグで乳神にあれだけ格好つけておいて、開幕数分で日和るのはダサい。
だから、俺は一歩前に出た。
「その人、少なくとも“全部思い通りにいかなくて焦ってる悪女”の顔はしてねえ」
「顔?」
「……いや、えーと、雰囲気! 空気だよ!」
危ない。今《乳眼》って言うわけにはいかない。絶対言えない。いや言ったところで信じられないだろうけど、信じられたら信じられたで終わる。
だが王子は、露骨に不快そうな顔をした。
「どこの誰かも知れぬ不審者が、王家の場で口を挟むな」
「不審者なのは認めるけど、だからって間違ってるとは限らないだろ!」
「十分間違っている!」
会場のあちこちから失笑が漏れる。
「何を言い出すのかと思えば」
「失礼な男」
「下賤の者はこれだから」
いや、うるせえ。
俺が今どれだけ必死で“胸を見て判断した”って本音を飲み込んでると思ってるんだ。
王子の隣にいたセシルが、おずおずと一歩前へ出た。か細い声。涙声。誰が聞いても庇護欲を刺激するような響き。
「も、もうよろしいのです、殿下……。わたしのために、これ以上騒ぎを大きくしなくても……」
そう言いながら彼女はリリアーヌの方を怯えたように見た。
だが、その揺れはやっぱり妙だった。整いすぎている。恐怖が記号みたいで、生っぽさが足りない。
逆に、リリアーヌはぴくりとも動かなかった。
いや、正確には動いている。胸の奥では感情が激しく揺れている。だが表情に出さないよう、必死に押し込めている。強い。強いが、そのぶん見ていて息苦しい。
王子は俺を睨んだ。
「その女が無実だと申すか」
「少なくとも、あんたらが今やってる“全員で決めつけて石を投げる”みたいなやり方は、だいぶ臭う」
「臭う、だと?」
「やり口が、だよ」
やばい。ちょっと口が回り始めた。緊張すると変なところで強気になるのは俺の悪い癖だ。杉田がいたらたぶん「拓真、それ以上はやめとけ」と袖を引いてくれるところだが、今は誰もいない。
王子の側近らしい男が前へ出る。細身で眼鏡をかけた、いかにも神経質そうな青年だ。
「殿下。この男、明らかに令嬢の差し金でしょう。舞踏会の最中に突如現れ、根拠もなく庇い立てするなど不自然すぎる」
「不自然なのはそっちだろ。どこの世界に、婚約破棄の場で都合よく証言と空気が全部揃うんだよ」
「貴様……!」
会場が再びざわつく。
リリアーヌが、初めてはっきりと口を開いた。冷えた声だった。よく通る。芯がある。たぶん普段からこうやって人を黙らせてきた声だ。
「……わたくしは、この者を知りませんわ」
その一言で、また空気が変わる。
俺はそちらを見た。
リリアーヌはまっすぐ前を向いたまま続けた。
「少なくとも、わたくしが差し向けた者ではありません。そこははっきり申し上げます」
周囲からは「やはり」「見苦しい切り捨てですわね」といった囁きが漏れる。
だが、俺には分かった。
この人、嘘はついていない。
本当に俺を知らないし、本当に差し向けてもいない。
けれど同時に、“こんなわけの分からない乱入者を巻き込みたくない”という意志もある。
何だよそれ。
自分が断罪されてる最中に、知らない男の心配してんのか。
乳神の言葉が頭をよぎる。
――彼女は“ひとりで耐えすぎる”。
くそ。
たしかにそういう顔だ。
「聞いたか、不審者」
王子が勝ち誇ったように言う。
「リリアーヌ嬢本人すら、お前を知らぬと言っている。これ以上の発言は無意味だ」
「いや、だからそれとこれとは――」
「衛兵、今度こそ捕らえよ!」
四方から衛兵が迫る。さすがにまずい。俺は一歩下がったが、後ろは観客、横は柱、逃げ道がない。
そのときだった。
「……殿下」
リリアーヌが再び口を開く。
今度は少しだけ低く、だが先ほどより鋭い声だった。
「ひとつだけ、お尋ねしてもよろしいですか」
王子が苛立ったように眉を動かす。
「まだ何かあるのか」
「この者は無礼です。場を乱しました。ですが、それだけでわたくしの罪の証明にはなりませんわ」
「何?」
「婚約破棄なさるのは勝手です。断罪なさるのもお好きになさればよろしい。ですが、せめて罪状と証拠くらいは、最後まではっきりお示しになってはいかが?」
見事だった。
感情に任せて叫ぶのではなく、きっちりと“場の正しさ”を問い直している。周囲もその言葉には少しだけ揺れた。あまりに筋が通っているからだ。
王子は一瞬言葉に詰まり、それを誤魔化すように顎を上げた。
「証拠なら既に十分だ! セシルに対する暴言、茶会での排斥、脅迫文、そして今夜の控室で起きたドレス破損事件――」
「ドレス破損?」
思わず反応してしまう。
セシルが肩を震わせ、いかにも辛そうに俯く。
「わ、わたしのドレスが……鋭いもので切られていて……もし着ていたら、肌を傷つけていたかもしれなくて……」
それを聞いた令嬢たちが一斉に息を呑む。
だが《乳眼》で見る限り、その反応の中には“驚き”より“この展開を待っていました”に近い揺れが混ざっている連中がいる。
仕込みかよ。
しかもリリアーヌを見ると、明らかに困惑が強い。怒りより先に「そんなことまで出してきますの?」という反応だ。少なくとも彼女がやった顔じゃない。
頭の中で点がつながりかける。
茶会。脅迫文。ドレス破損。
嫌がらせが全部“いかにも高飛車な悪役令嬢がやりそうなこと”で揃いすぎている。
雑だ。
筋書きが、雑すぎる。
俺は気づけば、ほとんど叫ぶように言っていた。
「その人じゃない!」
会場中の視線がまた刺さる。
もういい。こうなったら最後まで行く。
「少なくとも、その令嬢は“やり返してやった”って顔してない! むしろ何でそこまで話が揃ってるのか分かってない顔だ!」
「顔、顔とうるさいな!」
王子が怒鳴る。
「貴様に何が分かる!」
「分かるね!」
売り言葉に買い言葉だった。
「人が嘘ついてるときと、悔しくて飲み込んでるときくらい、見れば分かる!」
「どこを見て言っている!?」
ぎくりとした。
言ったのは眼鏡の側近だった。鋭い。嫌なところだけ鋭い。
「ど、どこって……全体の雰囲気を……」
「さきほどから妙に令嬢の方ばかり見ていたな」
うわ。
終わった。
いや《乳眼》の仕様上仕方ないんだけど、傍目には完全に終わってる。
会場がざわざわし始める。
「まあ、最低」
「こんな場で」
「信じられませんわ」
「やはり下賤の男は……」
違う。
違うんだ。
いや違わなくはないのか? 見てたのは事実だし。だが目的が違う。目的が!
しかし、その地獄みたいな空気の中で、思いがけず小さな声がした。
「……ふふ」
笑い声だった。
俺はそちらを向いた。
リリアーヌが、ほんの少しだけ口元を緩めていた。
いや、本当に少しだけだ。笑ったというにはあまりにも一瞬。だが確かに、彼女は一度だけ可笑しそうに息を漏らした。
《乳眼》で見る感情も、一瞬だけ変わっていた。
怒りと緊張の中に、呆れと、ほんのわずかな意外さが差し込んでいる。
たぶん彼女にとって、今この場で「自分の味方をする見知らぬ変人」という存在があまりに予想外だったのだろう。
その一瞬を、王子は見逃したらしい。
「リリアーヌ! この期に及んでまだ強がるか!」
「強がってなどおりませんわ」
リリアーヌは冷ややかに答えた。
「ただ、殿下の断罪劇に、妙な道化が乱入しただけですもの」
おい道化。
いや、否定はできないけど。
「ですが」
彼女はそこでわずかに目を細めた。
「その道化の言葉に、ひとつだけ同意します。わたくしは、やっていない」
空気が張る。
「セシル様を好いておりませんのは事実です。あの方の周囲に漂う甘ったるい庇護欲の空気も、正直好みではありません。ですが、だからといって姑息な真似をするほど暇ではありませんわ」
「リリアーヌ様……っ」
セシルが潤んだ目で後ずさる。
周囲は「ああ、なんてこと」と盛り上がる。
だがその反応もまた、どこか出来すぎていた。
王子は怒りで顔を紅潮させた。
「まだそんな減らず口を!」
「減らず口で結構。ですが、証拠があるというなら最後までお出しなさいませ。まさか、皆の前ではっきりと示せぬ程度のものを“決定的”とおっしゃったわけではありますまい?」
おお。
強い。
この人、めちゃくちゃ強い。
会場の数人が気まずそうに視線を逸らした。たぶんまともな頭をしている連中ほど、「確かに」と思ったのだろう。
王子は完全に引くに引けなくなっていた。
こうなるともう、正義の顔をした意地だ。
「……よかろう! ならばなおさら、この場を乱した不審者と共に処分を待つがいい!」
「は?」
思わず間抜けな声が出た。
「衛兵! その男を拘束しろ! リリアーヌ・ヴァルモンも別室へ下がらせる! 本件は改めて王家預かりとする!」
うわ、雑に来た。
議論で勝てないから権力で押し切るパターンだ。知ってる。現代でもあるやつだ。
衛兵たちが今度こそ本気で俺を取り囲む。俺は逃げようにも逃げられず、あっさり両腕を取られた。
「痛っ、分かった、分かったって! 引っ張るな!」
「黙れ!」
「いや黙るけど!」
反対側では、リリアーヌにも女性使用人と女騎士が近づいている。彼女は抵抗しなかった。顎を上げ、最後まで姿勢を崩さず、堂々と立っている。
その気高さが、逆に胸に刺さった。
誰も味方がいない場所で、こんなふうに立てるのか。
いや、立つしかなかったのかもしれない。そうやってずっとひとりで耐えてきたのかもしれない。
衛兵に引かれながら、俺はたまらず叫んだ。
「おい!」
リリアーヌがわずかにこちらを向く。
「……何ですの、不審者」
「俺はまだ、あんたがシロだって思ってるからな!」
我ながら馬鹿みたいな台詞だった。
もっと気の利いたことが言えなかったのか。名前も知らない、立場もない、今この瞬間に捕まっていく男が、何を格好つけているのか。
だが、彼女は一瞬だけ目を見開き――
それから、ほんの少しだけ、冷たい表情を緩めた。
「そう」
その声は静かだった。
「では、せいぜい後悔なさいませ。わたくしの味方をすると、ろくなことになりませんわ」
言い捨てるようでいて、どこか自嘲が混じっていた。
その揺れもまた、《乳眼》には見えてしまう。
強がりだ。
本当は、少しだけ救われてるくせに。
くそ。
やっぱり放っておけない。
俺がそう思った瞬間、会場の入口近くで誰かが走ってきた。
「お待ちください!」
若い侍女だった。顔を青くしている。息を切らし、手には何か布の切れ端のようなものを握っていた。
「セシル様の控室の件で、新たに――」
「黙れ!」
眼鏡の側近が鋭く怒鳴る。
侍女はびくりと震え、言葉を呑み込んだ。
だがその一瞬で十分だった。
《乳眼》が捉えた。
侍女の胸元には、怯えと使命感が激しくぶつかっている。そして側近の方には、露骨な焦り。
あいつだ。
少なくとも、何かを隠している。
「今の見たか!?」
俺は衛兵に拘束されたまま叫んだ。
「あの側近、何で侍女を止めるんだよ! 証拠があるなら聞けばいいだろ!」
「無礼者!」
「無礼で結構だよ! でも怪しいのそっちじゃねえか!」
会場は再び騒然となる。
王子は明らかに苛立っていたが、完全には押し切れない空気になってきた。ほんの少しだが、最初より確実に流れが揺れている。
それでも結論は変わらなかった。
「……その侍女も含め、全員別室へ。これ以上この場を乱すな」
王子の命令で、ついに舞踏会の空気は完全に壊れた。
客人たちはざわめき、互いに顔を見合わせ、ひそひそと囁き合う。
俺はそのまま衛兵に引きずられ、大広間の外へ連行されていく。
去り際、最後にもう一度だけ振り返った。
リリアーヌ・ヴァルモン。
婚約破棄された悪役令嬢。
高慢そうで、口が悪くて、絶対面倒くさい女。
でも――
その胸は、嘘をついていなかった。
廊下に出た瞬間、重い扉が背後で閉まる。
シャンデリアの光も、夜会の音楽も、全部遮断された。
「歩け!」
「歩いてるって!」
乱暴に腕を引かれながら、俺は内心で毒づいた。
乳神。
お前、これのどこが“行ってこい”で済む話だ。
初手から拘束だぞ。
最悪の第一印象どころか、ほぼ犯罪者扱いだぞ。
だが同時に、妙な熱もあった。
さっきの侍女。側近の反応。リリアーヌの揺れ。セシルの不自然な整い方。全部が繋がってはいないが、少なくともひとつだけはっきりしている。
あれは正しい断罪じゃない。
だったら、ここで終わるわけにはいかなかった。
衛兵に押し込まれるように石造りの階段を下りながら、俺は小さく息を吐く。
「……面倒くせえ」
そしてすぐに、訂正した。
「でも、嫌いじゃない」
むしろ、こういう理不尽に首を突っ込むために、俺はあんな胡散臭い神に拾われたのかもしれない。
やがて俺は、地下へと続く薄暗い通路に連れていかれた。
背後では、別方向から別の足音が聞こえる。
女騎士たちに囲まれた、ひとつ分だけ軽い靴音。
たぶん、彼女だ。
知らない世界。知らない身分。知らない人間関係。
だが俺はもう、最初の一歩を踏み込んでしまったらしい。
その先に待っているのが、救済か、面倒ごとか、あるいはその両方かはまだ分からない。
ただひとつだけ、確かなことがある。
婚約破棄されたあの悪役令嬢は、少なくともこのまま雑に終わらせていい女じゃない。
地下の扉がきしんで開く。
冷たい空気が流れ込む。
俺の異世界生活一日目は、どうやら牢屋スタートらしかった。
――そしてその数分後、俺はその悪役令嬢本人と、最悪の形で再会することになる。




