第10話 守ると決めた夜、変態はちゃんと格好つける
旧生徒会室を出たとき、俺の中には奇妙な高揚感があった。
もちろん油断していたわけじゃない。
脅迫文の偽造らしき下書きと、リリアーヌ本人の筆跡との差。
エレナの証言。
ロイドとセシル付き女官の接触を示す新しい線。
それらはまだ“決定打”ではない。
だが、ようやく冤罪が印象ではなく細工でできていた可能性を、ちゃんと物として掴み始めた感触がある。
だからこそ、気が緩んでいたのかもしれない。
「顔に出てますわよ」
廊下を歩きながら、ミレイユが冷たく言った。
「何が」
「少し浮かれている顔です」
「浮かれてはない」
「浮かれております」
「お前、たまにリリアーヌみたいなこと言うな」
「不本意ですわね」
そう言いながらも、彼女の方も少しだけ足取りが軽い。
今日の収穫が大きかったのは事実だ。
放課後に近い時間帯で、校舎内の人の流れは少しずつ変わっていた。
教室へ戻る者、寮へ向かう者、部活動めいた集まりへ急ぐ者。
学園という場所は、事件の匂いがあっても日常の顔をやめない。
その日常の中を、俺たちはなるべく目立たないように歩いていた。
「屋敷へ戻ったら、まず筆跡の比較をリリアーヌへ見せる」
ミレイユが言う。
「そのあとエレナの証言を書き起こし、ロイドの動きを洗い直しますわ」
「ああ」
「それから――」
彼女は少しだけ周囲を見回した。
「あなたのその顔も引き締めなさい」
「まだ言うか」
「大事です」
その会話の直後だった。
階段の踊り場に差しかかったところで、上階から駆け下りてくる足音がした。
荒い。
急いでいる。
しかも、一人じゃない。
反射的に顔を上げた瞬間、嫌な予感がした。
《乳眼》が、何も見ていないのに先にざわつく。
強い感情が近づいてくる。
焦りじゃない。
もっと鋭いもの――敵意だ。
「ミレイユ、下がれ!」
叫ぶより先に体が動いた。
階段の上から、黒い影が飛び込んできた。
顔は布で隠している。学生ではない。動きが迷いなく、一直線にミレイユへ向かっていた。
手には棒状のもの。棍棒か、短い警棒か。
狙いは明らかだ。脅しではない。倒す気で来ている。
「きゃっ――!」
ミレイユが息を呑む。
俺は彼女の肩を掴んで引き寄せ、そのまま自分の体を割り込ませた。
鈍い衝撃が脇腹から背中へ走る。
「っ、ぐ……!」
重い。
息が詰まる。
たぶん一撃目は完全には入っていない。だが、防ぎきれたわけでもない。
その痛みを理解する前に、二撃目が来る。
「この……!」
俺は咄嗟に相手の腕を掴んだ。
前世で格闘技経験があるわけじゃない。だが体格差と勢いの方向だけは読める。真正面から押し込まず、相手の腕を逸らして壁側へ流す。
犯人の体がぐらつく。
その隙にミレイユを突き飛ばすように後ろへ逃がした。
「走れ!」
「でも――」
「いいから!」
俺が怒鳴った瞬間、もう一人の影が階段上から姿を現した。
二人目。
やっぱり複数か。
まずい。
一人ならどうにか誤魔化せても、二人相手は厳しい。
しかもここは学園の階段。狭い。
一人目が体勢を立て直し、低く舌打ちする。
顔は見えない。
だが《乳眼》で感じる感情ははっきりしていた。
殺意ではない。
もっと実務的な悪意だ。
“口を止めるために痛めつける”側の感情。
俺は背中でミレイユを庇ったまま、一歩下がる。
「お前ら、誰に頼まれた」
答えはない。
代わりに、一人目がまた踏み込んできた。
今度は横薙ぎ。
俺は腕で受け、鈍い痛みに顔をしかめながらも体当たり気味に距離を潰す。狭い階段で棍棒みたいな得物を振り回されるより、密着した方がまだましだ。
相手が一瞬ひるんだところで、俺は肩からぶつかった。
ごつん、と鈍い音。
犯人の背が手すりへ当たる。
「ちっ……!」
だが二人目が回り込んでくる。
俺は半歩遅れた。
「拓真!」
ミレイユの声。
その瞬間、二人目の腕が大きく振り上がる。
避けきれないと分かった。
だから歯を食いしばるしかなかった。
――が。
その一撃は来なかった。
代わりに、階段の上から鋭い女の声が響く。
「何をしているの!」
同時に、花瓶が飛んだ。
信じられないが、本当に花瓶だった。
上階の踊り場から、通りかかったらしい女子生徒がとっさに飾り花瓶を投げつけたのだ。狙いは外れたが、犯人たちの動きは確実に止まった。
「人を呼んで!」
さらに別の声が重なる。
周囲の教室からも、驚いた気配が広がる。
犯人たちは明らかに舌打ちし、一瞬だけ迷い、そして階段横の非常通路へ飛び込むように逃げた。
「待て!」
反射で追おうとして、脇腹がずきりと痛んだ。
呼吸が詰まる。
「拓真!」
今度はミレイユが、こちらを支えるように腕を取る。
俺は壁へ片手をつきながら、どうにか踏みとどまった。
「……っ、だい、じょうぶ」
「大丈夫な顔ではありませんわ!」
「ミレイユの方は」
「わたくしは平気です!」
強い声だった。
だがその感情は激しく揺れている。
恐怖。怒り。罪悪感。
俺を巻き込んだと思っている色もある。
階段の上では、さっき花瓶を投げた女子生徒が青ざめていた。
廊下の向こうから教師や生徒が駆けつけてくる気配もする。
まずい。
ここで騒ぎが大きくなれば、表向きどう説明するかが面倒になる。
だが、そんなことを考える余裕はすぐに飛んだ。
痛い。
思った以上に痛い。
腕で受けた衝撃と、脇腹に食らった最初の一撃が効いている。骨までいってはいないと思うが、たぶん青あざは確定だ。
「……くそ」
小さく吐く。
ミレイユが真っ青な顔で俺を見る。
「どうして庇ったのです」
「そりゃ……」
答えようとして、息が痛んだ。
そのまま苦笑いになる。
「目の前で殴られそうになってるやつがいたら、庇うだろ」
「馬鹿……!」
普段の彼女からは想像しづらい声だった。
本気で動揺している。
そこへ、教師らしき中年男が駆け込んできた。
「何事です!」
「襲撃ですわ!」
ミレイユが即座に答える。
「顔を隠した者が二名、階段上から――」
その説明を聞きながら、俺は壁にもたれ、呼吸を整えようとした。
だが頭の中では、ひとつのことがはっきりしていた。
向こうは本気だ。
証人を潰し、口を塞ぎ、必要なら殴ってでも動きを止める。
婚約破棄の後始末としては、あまりに必死すぎる。
つまり、それだけ隠したいものがある。
結局、学園から屋敷へ戻るころには、日がかなり傾いていた。
襲撃の件は教師と警備に報告されたが、犯人の顔は隠れており、追跡も失敗。
しかも俺は“外部から来た雑務補佐”という微妙な立場なので、長々と公的な説明の場に残される前に、ミレイユがうまく話をまとめてくれた。
その代わり、ヴァルモン家へ戻った瞬間に大騒ぎだった。
「何をしてきたのです!!」
玄関先でマルグリットに怒鳴られた。
初めてかもしれない。
この人が完全に声量を上げたのは。
「いや、俺がしたっていうか、されたっていうか……」
「そういう問題ではありません!」
侍女長の後ろではレオンまで顔色を変えている。
バルトロですら表情が硬い。
そして、その一番奥。
階段の途中まで駆け下りてきたらしいリリアーヌが立っていた。
その顔を見た瞬間、俺は何を言うべきか少し迷った。
怒っている。
心配している。
驚いている。
そして何より、自分の予想よりずっと強く動揺している。
「……拓真」
声が低い。
でも震えてはいない。
必死に押さえているだけだ。
「軽傷だ」
俺が言うと、彼女はつかつかと階段を下り、真正面まで来た。
「それを軽傷と呼ぶ人間がどこにいますの」
「いや、血は出てないし」
「血が出ていなければ平気だとでも?」
言いながら、彼女の視線が俺の腕と脇腹へ行く。
上着の下が少し乱れているだけで、見た目は派手ではない。
だが《乳眼》で見るまでもなく、彼女は相当怒っていた。
向こうに、だ。
俺にではなく。
ミレイユが一歩前に出る。
「リリアーヌ」
「何ですの」
「先に言っておくけれど、庇われたのはわたくしです」
その一言で、空気がまた少し変わった。
マルグリットもレオンも言葉を失い、バルトロだけがさらに眉を寄せる。
「学園の階段で、顔を隠した者が二人。わたくしを狙ってきました。拓真が割って入らなければ、まともに一撃を受けていたのはわたくしです」
静かな報告だった。
だが重い。
リリアーヌは数秒黙り、それから短く言う。
「……医師を」
「すでに呼んでおります」
バルトロが答える。
「客間を温め、手当ての準備も」
「ありがとう」
さすがに執事の動きが早い。
「立っていられますの?」
リリアーヌが俺に問う。
「まあ、ギリギリ」
「ギリギリなら立っていないでくださいまし」
そう言った彼女は、当然のように俺の片腕を取った。
支えるつもりらしい。
「え」
「何ですの」
「いや、自分で歩ける」
「歩けるかどうかを決めるのは今のあなたではありません」
「独裁だな」
「公爵令嬢ですもの」
その返しに、玄関先にいた全員が一瞬だけ沈黙した。
たぶん“今それをやるのか”と思ったのだろう。
だが、そのやり取りが入ったおかげで少しだけ空気がほどけたのも事実だった。
客間へ運び込まれ、医師に診せた結果、骨に異常はないとのことだった。
打撲と強い腫れ。安静。冷やすこと。無茶をしないこと。
全部、もっともだ。
医師と侍女たちが出ていき、部屋に残ったのは俺とリリアーヌだけだった。
窓の外はもう夕暮れで、薄い金色の光がカーテン越しに差している。
客間の空気は静かだった。
静かすぎて、さっきまでの騒ぎが遠い。
ベッドの端に座った俺へ、リリアーヌが椅子を引いて向かい合う。
表情はまだ硬い。
「……改めて聞きます」
「何だ」
「どうして、そこまでしましたの」
ミレイユにも似たことを聞かれた。
でも、リリアーヌの問いは少し違う。
もっと近い。
もっと、感情の入った問いだ。
「どうしてって」
「あなたは、わたくしのために学園へ行った。そこで、わたくしの代わりに巻き込まれた。しかもミレイユまで庇った」
「別に、あんたの代わりっていうか」
「拓真」
低い声で名前を呼ばれる。
ごまかすな、という意味だ。
俺は一度だけ息を吐いた。
「……見えてたから」
「何がですの」
「相手が、本気で止めに来てるってこと」
拳を軽く握ると、脇腹がじわりと痛む。
だが、言葉は止まらなかった。
「ここで引いたら、向こうの思い通りになると思った」
「……」
「あと、ミレイユが目の前で殴られそうになってた」
「それは分かっています」
「なら、庇うだろ」
リリアーヌはしばらく黙った。
感情が揺れている。
怒り、悔しさ、心配。
その中に、はっきりと別の熱が混じっていた。
ありがたさ。
そして、それを認める照れ。
やがて彼女は小さく目を伏せた。
「本当に、馬鹿ですわね」
「ひどいな」
「だってそうでしょう。ご自身の立場だって、まだ不安定なのに」
「それはそうだけど」
「もっと打算的に振る舞うこともできたはずです」
「できたかもしれない」
「なのに、しない」
「……しないな」
正直に答えると、彼女は苦笑した。
いつもの皮肉ではなく、困ったような笑いだった。
「分かりませんわ」
「何が」
「どうしてそんなふうに動けるのか」
「俺にも分からない」
「そこで開き直るのですか」
「いや、本当に分からないんだよ」
俺は天井を少し見てから、言葉を探す。
「でも、たぶん」
「?」
「雑に傷つけられるのが嫌いなんだと思う」
リリアーヌの目がゆっくりこちらへ向く。
「人でも、言葉でも、好きなものでも。何でもそうだけど、雑に扱われるのが嫌いだ」
「……」
「だから、見てられなかった」
短い沈黙。
夕方の光が、部屋の中を少しずつ薄くしていく。
リリアーヌは、まっすぐ俺を見ていた。
その感情の揺れは、もう隠しきれていない。
心配と、救われた感じと、どう扱えばいいか分からない戸惑い。
「……拓真」
「ん」
「ありがとう」
それは、小さいがはっきりした声だった。
俺は少しだけ目を見開く。
まさかこんなに真っ直ぐ来るとは思わなかった。
「どういたしまして」
としか返せない。
変な冗談を言う気も起きなかった。
すると彼女は少しだけ視線を逸らし、わずかに頬を赤くした。
「勘違いしないで。礼を言うのは当然だからです」
「分かってる」
「あなたが役に立ったことも、認めます」
「それも分かってる」
「……今日は素直ですわね」
「今ちょっと痛いからな」
「そのようですわね」
そこで、リリアーヌは立ち上がった。
俺は話が終わったのかと思ったが、そうではなかった。
彼女は部屋の隅の水差しと布を手に取り、戻ってくる。
何をする気かと見ていると、椅子をもっと近くへ寄せ、濡らした布を差し出した。
「冷やします」
「いや、自分でできる」
「脇腹ですのよ?」
「……それはまあ」
「腕も腫れています」
「……」
「じっとしていなさい」
有無を言わせぬ声だった。
俺は大人しく従うしかなかった。
上着を少し開き、打ち身のある脇腹へ布が当てられる。冷たい。かなり冷たい。
「っ」
「痛い?」
「冷たい」
「冷やしているのですもの」
当然だった。
だが、それ以上に問題なのは距離である。
近い。
昨夜の路地裏ほどではないが、十分近い。
しかも今のリリアーヌは、看病に集中しているせいで普段より無防備だ。髪が少し頬へかかり、伏せた睫毛が近い。指先の動きが思ったより丁寧で、そのたびに妙に意識してしまう。
《乳眼》が反応しかけて、俺は必死に別のことを考えた。
石。
壁。
会計帳簿。
ロイドの顔。
「……何ですの」
リリアーヌがふと顔を上げる。
「え?」
「急に妙な顔をして」
「いや、何でも」
「嘘ですわね」
「いやほんと、今はちょっと、集中力の置き場に困ってるだけで」
「日本語が怪しいですわよ」
「大丈夫だ。倫理はまだ死んでない」
「何の話ですの?」
「聞かない方がいい」
「余計に気になります」
困る。
これ以上深掘りされると俺の理性が先に死ぬ。
しかし幸い、リリアーヌはそこで追及をやめ、また布を押し当てた。
「……でも」
「ん?」
「ミレイユも無事でよかった」
「ああ」
「彼女が狙われたということは、やはり向こうも焦っている」
「証拠に近づいたからだろうな」
「ええ」
彼女の表情が引き締まる。
「筆跡の違い、エレナの証言、そして今日の襲撃」
「かなり揃ってきた」
「ですが同時に、こちらも悠長にしていられませんわ」
「分かってる」
リリアーヌは冷たい布を持ったまま、少し考え込む。
「……学園内で、こちらに協力した者が狙われる可能性があります」
「エレナも危ないか」
「ええ。ミレイユも、ルシェルも」
「だったら先に守る手を打たないと」
「そうですわね」
そこで彼女は、また俺を見る。
「あなた、明日も動けますの?」
「軽傷だって医師が言ったろ」
「医師は“安静に”とも言いましたわ」
「でも止まれない」
「……そうでしょうね」
その返答には、半分呆れ、半分諦めがあった。
完全に理解している顔でもある。
彼女はゆっくりと布を外し、新しい冷たいものに取り替える。
「では、こちらも止まりません」
「おう」
「次は守りながら進みます」
「それがいい」
「絶対に、向こうの思い通りにはさせません」
その声に、火が戻っていた。
婚約破棄された令嬢。
悪役に仕立てられた少女。
でも今ここにいるのは、ただ傷ついたままうずくまる女じゃない。
反撃する人間だ。
「……拓真」
「ん」
「あなた、今変なことを考えていませんわよね」
「急だな!?」
「顔ですわ」
「いや、今は普通に“格好いいな”って」
言ってから、しまったと思った。
だがリリアーヌは数秒固まり、それから耳まで赤くして俺を睨んだ。
「……本当に」
「ごめん」
「そういうところですわよ!」
叱られた。
だが、その声にはさっきまでの重さはなかった。
たぶん、少しだけ救われているのは俺の方も同じだ。
痛みはある。
事件はまだ終わらない。
向こうは明確に本気だ。
それでも、この部屋でこうして言葉を交わしていると、不思議と“まだやれる”と思えた。
看病を終えたリリアーヌが立ち上がる。
夕暮れの光はもうほとんど消え、部屋にはランプの明かりだけが残っていた。
「今日は休みなさい」
「命令か」
「ええ。今度は本当に」
「了解」
「素直で結構です」
扉の前まで行った彼女は、そこで一度だけ振り返る。
「……明日は、もっと忙しくなりますわよ」
「だろうな」
「ですから、ちゃんと回復しておきなさい」
「努力する」
「それから」
「まだあるのか」
「今日は」
ほんの少しだけ間を置いて、彼女は言った。
「ちゃんと格好よかったですわ」
それだけ言い残して、扉が閉まる。
俺はしばらくベッドの上で固まっていた。
「……ずるいだろ、それは」
小さく呟く。
脇腹は痛い。
腕も重い。
でも、それ以上に、胸の方が妙に落ち着かなかった。
事件は一段、危険な場所へ入った。
証拠に近づけば、向こうは暴力で潰しに来る。
もうただの婚約破棄の後始末じゃない。
それでも俺は、たぶんもう引けない。
あの悪役令嬢が、さっきみたいな顔で礼を言う限り。
そして、ちゃんと格好よかったなんて、不意打ちみたいに言う限り。




