第9話 悪役令嬢の筆跡は、こんなに卑怯じゃない
翌日の午後、俺は学園の旧生徒会室で、ひどく真面目な顔をして机の上の紙束を睨んでいた。
端から見れば、臨時雑務係か何かが書類整理をしているだけに見えるだろう。
実際、表向きはそれで通っている。
だが実態は、婚約破棄と断罪の舞台裏を探る地味極まりない捜査の真っ最中だ。
「……こういうの、もっとこう、派手に証拠が見つかるもんじゃないのか」
思わずこぼすと、向かいで棚の引き出しを漁っていたミレイユが冷たく返す。
「何を期待していますの」
「血塗られた手紙とか、見るからに怪しい契約書とか」
「安っぽい推理小説ですわね」
「異世界の事件なんだから多少そういうのあってもいいだろ」
「ありません」
ばっさりだった。
学園内での俺の立場は、昨日より少しだけ自然になっていた。
リリアーヌの名を表へ出さず、ミレイユの手伝いとして資料室や旧生徒会室、事務室周辺の整理に出入りする。その中で、舞踏会準備の名簿、貸出記録、雑務の振り分け表、廃棄予定の草稿などを拾い集めていた。
正面から「脅迫文の偽造を調べてます」なんて言うわけにはいかない。
だから地味に、地道に、関係ありそうな紙を見ていくしかない。
そして今、俺たちの前には大量の書類があった。
生徒会の控え、舞踏会用の席次草案、招待状見本、連絡メモ、備品表、筆記練習の書き損じ、令嬢たちが残したお茶会名簿の断片。
これ全部、本当に必要なのかと聞きたくなる量だが、ミレイユは一切迷いがない。
「……お前、よく平気だな」
「何がですの」
「この量」
「書記でしたもの」
それだけで説明がつくらしい。
たしかに、この手の人間は紙の山を見ても怯まない。
俺は改めて一枚の紙を取り上げた。
昨日、学園の倉庫棚から見つけた“破棄予定の書類束”の中に混じっていたものだ。内容は短い。上質な紙に、整った文字で数行。
『これ以上、殿下へ近づかないでくださいませ』
『あなたのような方がふさわしいと思っておいで?』
『身の程を知りなさい』
露骨すぎる。
いかにも“高慢な令嬢が弱い少女を脅すために書いた言葉”だ。
そしてだからこそ、怪しい。
「これ、本当に雑だよな」
「ええ」
ミレイユも同意する。
「内容だけ見れば“それらしい”のです。けれど、それだけですわ」
「リリアーヌっぽい?」
「いいえ、まるで違います」
彼女は俺の手から紙を取り、インクの流れや文字の形をじっと見た。
「これは、“高飛車な女ならこんな字を書くはず”という雑な想像ですわ」
「字だけでそこまで分かるのか」
「分かります。少なくとも、わたくしはあの子の字を何年も見てきましたもの」
そう言われればそうか。
書記だったミレイユなら、令嬢同士の回覧や生徒会関係の書類で、リリアーヌの筆跡を見る機会も多かっただろう。
俺は身を乗り出した。
「じゃあ本物が要るな」
「ええ。比較対象が必要です」
「屋敷にあるか?」
「あるでしょうけれど、学園に残っているものの方が自然です。ここで見つけられれば強い」
そこで、旧生徒会室の扉がノックされた。
ミレイユが即座に書類束を整え、怪しい紙を普通の資料の下へ滑り込ませる。
動きが鮮やかすぎる。
「どうぞ」
入ってきたのは女子生徒二人だった。
生徒会の下級役員らしく、抱えているのは帳簿と羽根ペン。
「あの、ミレイユ様。備品整理の件で……」
「ええ、少し待って。今、確認しますわ」
表情が切り替わる。
ついさっきまで“事件の匂いを嗅ぐ女”だったのに、一瞬で優雅な先輩令嬢の顔になった。
その間、俺は書類を抱えて雑務係っぽく立っているしかない。
こういうとき、自分の存在がとても中途半端で助かる。
誰も俺へ深く話しかけない代わりに、完全に無視もできない。便利な立場だ。
女子生徒たちが去ると、ミレイユはすぐに元の低い声へ戻った。
「急ぎますわ」
「何か心当たりあるのか」
「あります」
彼女は棚の最上段へ手を伸ばし、古い革表紙の綴り帳を引き抜いた。
埃が少し舞う。
「生徒会の過去議事録です。令嬢会の申請書控えも一部挟まっているはず」
ページをめくる。
細かい字がびっしりだ。
俺なら三行で眠くなる。
だがミレイユは迷わず紙の束を抜き出した。
「ありましたわ」
そこには、数ヶ月前の学園内催事に関する申請書が何枚か綴じられていた。
その中に、リリアーヌ・ヴァルモンの署名入りの提出書類がある。
俺はそれを受け取った。
見る。
そして、すぐ分かった。
「……全然違うな」
「でしょう?」
脅迫文の文字は、綺麗ではあるが“飾った綺麗さ”だ。
一画一画がわざとらしく、尖りを強調している。高飛車さを演出するために、字までそれっぽくした感じ。
対してリリアーヌ本人の字は、端正だが妙な癖があった。
はねるべきところを少し短く止める。
横線に無駄がない。
字が綺麗というより、意志が強い。
何より、“見せるため”じゃなく“必要だからこう書く”という感じがする。
「本物の方が、ずっと容赦ない字だな」
思わず出た感想に、ミレイユがじろりと見る。
「褒めているのか貶しているのか分かりませんわ」
「いや、これ、卑怯な手紙書く字じゃないって意味」
「……まあ、そこは同意しますわ」
彼女は二枚を並べて机に広げた。
「見て。まず“し”の払い。脅迫文は柔らかすぎる。あの子はもっと速く、短く切る」
「ほんとだ」
「それから“な”の結びも違う。脅迫文は可愛らしさが混じりすぎています」
「リリアーヌに可愛らしさはない、と」
「少なくとも字には出ませんわね」
「本人に聞かれたら怒るぞ」
「怒るでしょうね。でも事実ですわ」
そこへさらに一枚、別の申請書が出てくる。
リリアーヌが学園祭準備のために提出したものらしい。
比べれば比べるほど、違いは明白だった。
「これなら、筆跡に詳しくない相手でも分かるかもしれない」
「ええ。少なくとも、“同じ人が書いた”とは言いづらいですわ」
「じゃあ、かなり大きいな」
「大きいです」
ミレイユは静かに言う。
「脅迫文が偽物だと示せれば、舞踏会の断罪の根拠の一つが崩れます」
その瞬間、俺の背筋にぞわりと熱が走った。
ようやく、“感覚”ではなく“物”になったのだ。
リリアーヌの冤罪を支えていた柱の一本に、明確なひびが入る。
だが、同時に別の疑問も浮かぶ。
「……これ、誰が用意したんだろうな」
「ええ」
ミレイユの顔も硬くなる。
「単に字が似ていればよいという程度ではなく、“高飛車な令嬢ならこう書きそう”という雑な悪意が混ざっています」
「リリアーヌをよく知らない人間か」
「あるいは、知っていても“周囲が信じやすい像”を優先した人間」
どちらにせよ、悪質だ。
俺が二枚の紙を見比べていると、不意に《乳眼》が何かを拾った。
「……ん?」
「どうしましたの」
旧生徒会室の外、廊下側。
閉まった扉の向こうに、誰か立っている。
気配は微弱だ。
だが感情の揺れがある。
好奇心。焦り。少しの怯え。
扉の隙間からこちらを窺っている感じだ。
「誰かいる」
ミレイユの目が細くなる。
「気配?」
「たぶん」
彼女は即座に机上の脅迫文を裏返し、申請書類を上へ重ねた。
その手際のよさに感心する暇もなく、扉がほんのわずかに動いた。
「入ってよろしいかしら」
若い女の声だ。
ミレイユが何事もなかったように返す。
「どうぞ」
入ってきたのは、薄紫の制服風ドレスを着た令嬢だった。
栗色の髪をゆるく巻き、華やかというより愛想のよい美人といった雰囲気。
だが《乳眼》で見ると、今の彼女はかなり緊張している。
「……エレナ」
ミレイユが名を呼ぶ。
知り合いらしい。
「ごきげんよう。少しお話が」
「何の用ですの?」
ミレイユの声は柔らかいが、油断はない。
エレナと呼ばれた令嬢は、俺を見て一瞬だけ戸惑った。
だがすぐに気を取り直し、ミレイユへ視線を戻す。
「昨日から、あなたがいろいろ調べていると聞いて」
「噂が早いこと」
「学園ですもの」
その返しには苦いものがあった。
エレナは扉を閉め、少し近づく。
感情の揺れは複雑だ。恐れ、罪悪感、ためらい。
だが敵意は薄い。
「わたくし……舞踏会のとき、何も言えなかったの」
ミレイユの目がわずかに動く。
「何について?」
「リリアーヌ様のこと」
その名が出た瞬間、空気が変わる。
俺は黙ったまま、彼女の感情を見る。
強い後悔だ。作りではない。
「わたくし、あの方が怖かったのは事実よ。言葉もきついし、いつも真っ直ぐで、近づきやすい方ではなかった」
「ええ」
「でも……脅迫文みたいな、ああいう陰湿な真似をする方だとは思っていなかった」
そこまで言って、エレナは喉を詰まらせるように息を吸った。
「なのに、あの場ではもう、皆がそういう顔をしていたでしょう? “やっぱり”って」
「……」
「だから、違和感があっても言えなかったの」
その気持ちは分かる。
空気ができあがったあとに逆らうのは難しい。
まして学園の令嬢社会だ。ちょっとした言葉が、その後の立場を左右する。
ミレイユはしばらく黙っていたが、やがて静かに尋ねた。
「今、それを言いに来たのは、どうして?」
エレナの揺れが強くなる。
そしてそこで、俺には別の色が見えた。
彼女は何か知っている。
ただの後悔だけじゃない。
“見た”か、“気づいた”何かがある。
俺は思わず口を挟んでいた。
「……お前、脅迫文そのものは見てないだろ」
エレナがびくっとする。
「え」
「でも、それっぽいものを誰かが書いてたか、持ってるのは見た」
完全に図星だった。
ミレイユが横目で俺を見る。
やり方はともかく、これが俺の役目だ。
エレナは動揺を隠しきれず、椅子へ座り込むように腰を下ろした。
「どうして……」
「何となく」
「その“何となく”本当に嫌ですわね」
ミレイユの冷たいツッコミが飛ぶ。
だが今はそれどころではない。
「誰が持ってた」
俺が低く聞くと、エレナは唇を噛んだ。
「わたくし……はっきり見たわけではないの。でも、舞踏会の二日前、裁縫室の裏手で……セシル様付きの女官と、ロイド様が何か話していて」
「ロイド」
昨日、中庭でミレイユへ牽制をかけてきた生徒会副補佐だ。
「そのとき、紙を渡していたの。封をしていない紙。ロイド様が“これで十分でしょう”って」
「……」
「わたくし、その場では深く考えなかったの。でも昨日の断罪を見て、急に気になって……」
ミレイユの表情が一気に引き締まる。
「なぜ昨日のうちに言わなかったのです」
「怖かったのよ!」
エレナが思わず声を上げる。
「だって、セシル様の周りにいる方たち、今みんなぴりぴりしているもの。下手に口を出せば、今度はわたくしが何を言われるか……」
それも本音だ。
怯えが濃い。
この子はたぶん、完全に善人でも勇気の人でもない。普通の令嬢だ。だからこそ、今この場で話していること自体に価値がある。
ミレイユは少しだけ眉を下げた。
「……そう」
それだけ言って、責めるのをやめた。
正しい判断だ。
俺は机上の本物の筆跡と偽の脅迫文を見比べながら言う。
「ロイドが文面作りに関わってた可能性が出たな」
「ええ」
「女官だけじゃない。学園側にも、ちゃんと手が伸びてる」
「ええ」
エレナはようやく、俺たちが何をしていたかを察したらしい。
机の上の紙を見て目を見開く。
「……それ」
「比べていましたの」
ミレイユが言う。
「リリアーヌの本当の筆跡と、脅迫文らしき文面を」
エレナが二枚を見比べ、そして小さく息を呑む。
「……全然違う」
「でしょう?」
「こんなの、少し見れば分かるじゃない」
「少し見れば、ですわ」
ミレイユの言い方は厳しかった。
「ですが舞踏会の場では、皆そこまで見ようとしなかった。見なくても、“リリアーヌ様ならありそう”で済んでしまったから」
それが、一番きつい真実だった。
悪意ある偽造も悪い。
だが、それが通ってしまう空気もまた、同じくらい厄介だ。
エレナは紙から目を離せないまま、ぽつりと呟く。
「……わたくし、あの方のことを嫌っていたわ」
「でしょうね」
ミレイユはあっさり答える。
「わたくしも、好いていたわけではありませんもの」
「でも」
エレナの声が揺れる。
「嫌いだからって、何をされても当然みたいに思っていたのかもしれない」
その言葉は重かった。
俺は黙ってそれを聞いた。
こういう後悔は、たぶん誰かに強く責められるよりずっと効く。
ミレイユは少し沈黙してから言う。
「今からでも遅くはありません」
エレナが顔を上げる。
「本当に?」
「証言する覚悟があるなら」
「……」
「もちろん、危険もありますわ」
そこはごまかさない。
それが彼女らしい。
エレナの感情が大きく揺れる。怖い。迷う。けれど、さっきよりも逃げたい色が薄くなっている。
代わりに、後悔を減らしたい気持ちが前に出てきた。
やがて彼女は、小さくだが確かに頷いた。
「……できることなら」
「なら、今はまだ表に出なくていい」
ミレイユは言う。
「まずは覚えていることを、細かく書き出しなさい。日時、場所、見た人間、交わした言葉の断片。曖昧でもいい。後で辻褄を見るための材料になります」
「分かったわ」
エレナは少しだけ強い顔になった。
完全な味方ではないかもしれない。
だが、少なくとももう“黙って流されるだけの令嬢”ではなさそうだった。
彼女が去ったあと、旧生徒会室にはしばらく沈黙が残った。
俺は椅子の背にもたれ、長く息を吐く。
「……すげえな」
「何がですの」
「一個ほつれると、ちゃんと別の糸が見えてくる」
「ええ」
ミレイユは机上の紙を丁寧に重ねながら頷いた。
「それが本来の証拠ですわ。いきなりすべてを語るものではなく、小さな違和感が繋がっていくもの」
「でも、その繋ぎ目を見つけるのが難しい」
「そうですわね」
そこで彼女は少しだけこちらを見た。
「あなたのその、気味の悪い勘も役に立っているのは認めます」
「褒め方!」
「本音ですもの」
「こっちのヒロイン候補はみんな褒め方が下手なのか……?」
「何か言いました?」
「いや何でも」
危ない危ない。
口は災いの元だ。
だが、心の中でははっきりしていた。
今回の手応えは大きい。
偽の脅迫文。
リリアーヌ本人の筆跡。
ロイドと女官の接触を見た証言。
少しずつだが、“悪役令嬢の冤罪”は印象論から物証へ変わり始めている。
旧生徒会室の窓から午後の光が差し込む。
机上の紙が白く光った。
「……リリアーヌ、これ見たらどういう顔するかな」
何気なく漏れた言葉に、ミレイユが少しだけ目を細めた。
「嬉しいでしょうね」
「うん」
「でも、たぶんそれを最初には出しませんわ」
「何で?」
「あの子ですもの」
ミレイユは苦笑する。
「まず“だから申し上げましたでしょう”みたいな顔をするはずです」
「ああー……めっちゃ想像つく」
俺たちは少しだけ笑った。
その笑いのあと、ミレイユは真顔に戻る。
「ただ」
「ん?」
「証拠が見え始めたということは、向こうも焦ります」
「……そうだな」
「ロイドの名前が出た以上、学園側の誰かがこちらの動きを嗅ぎつければ、次はもっと露骨に潰しに来るかもしれません」
その可能性は高い。
証人が増え、物証が出始めれば、向こうも黙ってはいない。
俺は机上の脅迫文を見下ろした。
雑な悪意。
そして、それでも通ってしまった“物語”。
だが、物語は書き換えられる。
少なくとも今は、そう思えた。
「戻るか」
「ええ」
ミレイユは筆跡資料を丁寧にまとめ、布包みに入れる。
脅迫文の下書きらしき紙も、隠すようにその中へ収めた。
「今日の成果は大きいですわ」
「ああ」
「ですが、まだ終わりではありません」
「当然だな」
立ち上がり、旧生徒会室の扉へ向かう。
廊下の向こうでは、午後の学園がまだ何事もない顔で動いている。
だがその下で、確かに綻びが増えていた。
悪役令嬢の筆跡は、こんなに卑怯じゃない。
その当たり前を、ようやく“証拠”として言えるところまで来たのだ。
次に必要なのは、この綻びを公の場でも崩せる形へ持っていくこと。
そしてその前に、きっと向こうも何かしてくる。
俺は扉を開けながら、小さく息を吐いた。
地味だ。
地味だが、こういう一枚が、たぶん一番効く。




