プロローグ 乳神、天より来たりて余計な加護を授ける
世の中には、どうにも譲れないものがある。
たとえば正義。たとえば友情。たとえば夢。そういう、少年漫画の主人公みたいな立派なものを掲げる人間は多い。
だが俺――如月拓真が生涯を通して、いや生涯を通す前に死んだので厳密には十七年と少しの人生を通して、誰よりも真剣に、誰よりも一途に、そして誰よりも誤解されながら愛してきたものは、もっと具体的で、もっと柔らかく、もっと人類史に多大なる影響を与えてきた存在だった。
おっぱいである。
言っておくが、ここで引いたやつは浅い。
おっぱい好きと聞いて、すぐに「どうせスケベなだけだろ」と決めつける者がいる。そういう者たちは、おっぱいをただの欲望の対象に落としている時点で、すでに誠実さを欠いている。おっぱいとは単なる部位ではない。造形であり、個性であり、重力との対話であり、服飾文化との共存であり、ときに人の自尊心を支え、ときに人の悩みの種にもなりうる、極めて繊細な存在である。
つまり、敬意が必要なのだ。
俺は幼い頃から、その敬意だけは本物だった。
小学生の頃、テレビで流れたバラエティ番組の「胸を盛る下着特集」を見て、「盛るって何だよ、本人が楽しいならいいけど、苦しくないのか」と母親に真顔で問いかけて、家族を微妙な空気にしたことがある。
中学の修学旅行では、男子連中が女子の胸の大きさランキングなどという最低な遊びをしていたので、「お前ら、数値化するな。そこにはそれぞれの生活があるだろうが」と怒って距離を置かれた。
高校に入ってからは、購買で巨乳キャラを前面に押し出した雑誌の煽り文句を見て、「過激に煽ればいいと思うなよ。本人の魅力は胸だけじゃないだろ」と独り言を言って、通りすがりの女子に「きも……でも何か言ってることは最低でもなくて逆に困る」と評された。
そう。俺は変態だった。
だが同時に、変態であることに誰より真面目でもあった。
断じて触りたいわけではない。断じて無断でどうこうしたいわけではない。俺が大事にしているのは、鑑賞眼と理解、そして相手の尊厳だ。見るときは節度を持って。想像するときは敬意を持って。言葉にするときは最大限の慎重さを――まあ、その慎重さがたまに足りずにクラスメイトから距離を取られるのだが。
放課後、帰り道。俺は駅前のベンチに座って、コンビニで買ったあんぱんをかじりながら、向かいの大型ビジョンに映る化粧品広告を眺めていた。
「最近の広告、何でもかんでも露出で押せばいいと思ってないか……いや、その服は似合ってるけど。似合ってるけど、それとこれとは別問題なんだよな……」
隣にいた同級生の杉田が、心底面倒くさそうに俺を見る。
「拓真、お前ほんとそういうのだけは熱量おかしいよな」
「そういうのじゃない。“そういうの”って一括りにするな。これは思想だ」
「おっぱいに思想とかあるの怖すぎるだろ」
「ある。少なくとも俺にはある」
「言い切るなよ」
杉田はスポーツドリンクを飲みながら呆れていたが、俺は真剣だった。いつだってそうだ。俺が真剣になればなるほど、なぜか周囲は一歩引く。世の中とは難しい。
そのときだった。
ギギギ、と嫌な金属音が頭上で鳴った。
反射的に見上げる。駅前ビルの二階部分に取りつけられていた大きな看板が、片側だけ外れ、今にも落ちかけていた。下には、スマホに気を取られたまま立ち止まっている若い女性がいる。イヤホンをしていて、周囲の騒ぎにも気づいていない。
「危ない!」
杉田が叫ぶより早く、俺の足が動いていた。
考えるより先に走っていた。誰かを助けよう、という立派な精神が最初にあったかと言われると、たぶん少し違う。もっと単純だった。目の前で、何の落ち度もない人間が雑に傷つけられるのが嫌だった。人が傷つくのは嫌だ。まして、こんな理不尽はなおさら嫌だった。
俺は女性の肩を掴み、強引に押し出した。
彼女がよろめきながらも転がるように歩道の外へ逃れたのを確認する。
その次の瞬間。
世界が、妙に静かになった。
衝撃は一瞬だったはずだ。だが、体感ではずいぶん長く、変なことを考える余裕まであった。
あ、これ、俺の頭に直撃したな。
痛いとか、熱いとか、そういう感覚より先に、妙な納得があった。人生って、案外あっけないんだなとか。あんぱん、半分しか食ってないのにもったいなかったなとか。あと杉田、たぶん後で泣くかもな、あいつわりと情に厚いしとか。
そして最後に、どうでもいいくせにどうでもよくないことを思った。
助けた人、無事だったよな。
その確認だけをしたかったが、視界は暗く閉じていく。
闇が降りる。
落ちる。
深く、深く――
「うむ。死んだな」
「軽っ!」
目を開けた瞬間、俺は全力でツッコんでいた。
そこは白かった。天国というには安っぽく、病院というには清潔すぎる、何もない白い空間。床も天井も壁も曖昧で、ただ白がどこまでも続いている。
その中心に、ひとりの女が立っていた。
いや、立っているという表現が正しいのか分からない。ふわふわと宙に浮くようでもあり、モデルみたいに堂々とポーズを決めているようでもある。年齢不詳。美人。神々しい。だが何より先に言わせてもらう。
胸元の主張がすごかった。
布はある。あるにはある。だが「それ本当に役目を果たしているのか?」と問い詰めたくなるくらい、仕事量が少ない。神々しい装束のくせに、どう見ても設計思想が偏っている。神聖さと過剰さが同居していて、目のやり場に困るどころか、目のやり場を作ったやつを問いただしたくなるレベルだった。
女は腕を組み、うんうんとうなずいた。
「初手の観察、実によい。視線に迷いがない」
「そりゃ視界に入ってくるだろ! 何なんだその格好!」
「神である」
「答えになってない!」
「よし。元気もあるな。では自己紹介しよう。わらわは乳神。古来より人々の豊穣、慈愛、包容、そしていろいろな意味での夢を司る高位存在である」
「字面がすでに怪しい!」
「何が怪しい。神名は正確に発音せよ。にゅうしん、である」
自信満々だった。
俺は額を押さえた。押さえようとして、自分の体が透けていることに気づく。え、何これ。死んでるから? いや待て、死んだのか俺。さっきの看板で。
「……マジで死んだのか、俺」
「死んだな」
「そんなあっさり……」
「だが安心せよ。そなたの死は無駄ではない。ひとりの命を救った。善行である。しかも死の間際まで、己の欲望より他者の無事を優先した」
「欲望って何だよ」
「おっぱいを見るより人命を取ったではないか」
「そこを比較対象にするな!」
乳神はなぜか満足げに笑った。妙に整った顔立ちで、悔しいが綺麗だった。綺麗なのに言ってることがだいぶ変だ。
「如月拓真。そなたの生前は、実に興味深かった」
「やめろ、死後の面談で人生を査定するな。恥ずかしいだろ」
「おっぱいを好む者など数多い。だが、そなたのように“雑に扱われること”へ怒る者は少ない」
「……」
「ただ大きければよいと騒ぐ者。数で語る者。所有物のように口にする者。そういう者らとは違い、そなたは一貫して“敬意”を語っていた」
「それは……まあ、そうだが」
「誠実である」
その一言だけ、不思議と真面目な響きがあった。
俺は少しだけ口を閉じた。ふざけた空間で、ふざけた格好の神が、妙に核心を突いてくる。気まずい。何だこれ。死後にまで理解者が現れるとは思ってなかった。
乳神はすっと近づき、俺の顔を覗き込む。
「だから決めた」
「嫌な予感しかしない言い方やめろ」
「そなたを転生させる」
「もっと嫌な予感しかしない」
「しかも、ただの転生ではない。乙女ゲーム風異世界への転生である」
「なんで限定がそんなピンポイントなんだよ!」
「面白いからだ」
「神がその理由で世界弄るなよ!」
だが乳神はまるで悪びれない。どころか、むしろ「何か問題でも?」という顔をしていた。絶対あるだろ問題。
「聞け、拓真。そなたが行く世界は、見目麗しき貴族たち、華やかな学園、きらびやかな夜会、そして愛と裏切りと陰謀が渦巻く舞台。乙女ゲーム的世界観といえば分かりやすいか」
「ざっくりしてるな……」
「その世界では近く、大きな理不尽が起きる」
「理不尽」
「ひとりの少女が、悪役として断罪される」
空気が、少しだけ変わった。
それまで軽い調子だった乳神の声が、ほんの少し低くなる。俺は自然と神の言葉を聞いていた。
「少女は高慢に見えるだろう。きつい物言いをするだろう。嫌われもするだろう。だが、それだけで悪とされるにはあまりに不当だ」
「……それを、俺が何とかしろって?」
「うむ」
「なんで俺なんだよ。もっとこう、正義感強い勇者とか、頭の切れる名探偵とかいるだろ」
「いるかもしれん。だが、そなたにしか見抜けぬものがある」
乳神が片手を上げる。すると白い空間に波紋のような光が広がり、その中心に金色の紋様が浮かんだ。目の形にも見えるし、花のようにも見える、不思議な模様だった。
「ゆえに授けよう。加護《乳眼》を」
嫌な単語が聞こえた気がした。
「待て」
「胸を見れば、その者の感情の揺れ、嘘の気配、無理に作った表情の歪み、人に見せぬ本音の濁りまで、ある程度見抜ける」
「待て待て待て」
「ただし、誠実なおっぱい好きにしか扱えぬ」
「最後で全部台無しだよ!」
俺は本気で抗議した。
「なんでそんなピンポイントなんだよ! もっとこう、真実の目とか、鑑定眼とか、それっぽい名前あるだろ! 何でよりによって乳眼なんだ!」
「本質を言い表しておる」
「ストレートすぎる!」
「よいではないか。能力は実用的だぞ。人の嘘を見抜き、悪意を察し、恋心すら感じ取れるかもしれぬ」
「かもしれぬってなんだよ不安しかないわ!」
「細かな運用は現地で慣れよ」
「雑!」
乳神は胸を張った。そのせいで視線が困る。困るが、目を逸らすと負けた気がして悔しい。いや何にだ。
「そもそも、それって完全に変態扱いされるやつじゃねえか……」
「安心せよ。そなたは元々その素質がある」
「安心材料が一個もない!」
「だが、ただの変態では終わらぬ。そなたがその眼で救うのは、肉体ではない。心であり、誇りであり、名誉である」
「……」
「胸を見ることが目的ではない。見ることで、人を雑に断じる世界へ抗うのだ」
まただ。
この神は、ふざけているようで、ときどき変にまっすぐなことを言う。
俺は黙り込んだ。
自分が信じてきたものを、ここまで正面から言葉にされたことはない。いや、別に誰かに理解してほしくて生きてきたわけじゃない。そんな大層なもんじゃない。ただ、自分の中で譲れなかっただけだ。
好きなものを雑に扱うな。
人を見た目だけで決めつけるな。
そこに本人の事情も、痛みも、誇りもある。
もし本当に、そんな理不尽で苦しむ誰かがいるなら。
その誰かを助けられる力があるなら。
「……その少女は、悪いことをしてないのか」
「まったくしていない、とは言わぬ」
「は?」
「性格に難はある。口も悪い。可愛げも足りぬ。誤解されやすい。喧嘩も売る」
「だいぶあるな難」
「だが、断罪されるほどの悪ではない」
乳神はきっぱりと言った。
「そして何より、彼女は“ひとりで耐えすぎる”」
その一言だけ、なぜだか耳に残った。
ひとりで耐えすぎる。
そういうやつはいる。何でもないふりをして、平気な顔をして、誰にも頼らず、最後にまとめて損をするやつ。俺はそういう人間が昔から苦手だった。見ていると落ち着かない。放っておけなくなる。
「……もし行った先で、やっぱ無理だったら?」
「そなたが無理と思っても、物語は進む」
「嫌な言い方だな」
「だが、そなたがいることで変わることもある。そなたは世界を救う勇者ではない」
乳神は、少しだけ笑みを和らげた。
「お前が救うべきは、世界ではない。ひとりの少女だ」
言葉が落ちる。
白い空間に、静かに響く。
それはやけに真面目で、冗談に聞こえなかった。
俺は長く息を吐いた。死んだことへの実感も、これから異世界に行くという現実味のなさも、まだうまく飲み込めていない。だが、ひとつだけは分かる。
この神は、俺に断る暇を与える気がない。
「最後に確認だ」
「うむ」
「その《乳眼》って、ほんとに胸を見ないとダメなのか」
「ダメである」
「最悪だ……」
「ただし、見方に敬意があれば問題ない」
「問題大ありだろ」
「そして、そなたが救うべき少女は、おそらく最初、そなたを心底軽蔑する」
「先行き暗すぎるだろ」
「よいではないか。恋愛とは、だいたいそういうものだ」
「まだ恋愛するって決まったわけじゃねえし!」
「決まっておらぬのか?」
「知らん!」
乳神はからからと笑った。絶対面白がっている。神が人間の人生をコンテンツ扱いするんじゃない。
だが、その笑い声と同時に、俺の足元に光の輪が広がっていく。うわ、来た。これ絶対もう送る流れだ。心の準備とかないのか。
「ちょ、待て、もうちょっと説明を――」
「現地で学べ」
「雑だなあ!」
「案ずるな。そなたはきっと、最悪の第一印象から始める」
「フォローになってねえ!」
「だがその後、少しずつ信じてもらえるだろう」
光が強くなる。体が軽くなる。いや、軽いというより、引っ張られる。下へ、あるいは前へ。空間そのものが傾いているみたいだった。
俺は思わず叫んだ。
「せめて言っとくけどな! 俺は変態だけど、最低じゃないからな!」
乳神は楽しそうに目を細める。
「知っておる。ゆえに選んだ」
「あとその能力名、やっぱダサいから考え直――」
「行ってこい、《乳眼》の使い手よ」
「うわあああああっ!?」
白が砕ける。
光が落ちる。
世界が反転する。
次の瞬間、俺の背中に硬い感触が走った。何かの床に叩きつけられたらしい。痛い。死んだあとでも痛いのかよ異世界。
耳に、ざわめきが飛び込んでくる。
人の声。音楽。グラスの触れ合う高い音。絹の擦れる気配。香水の匂い。豪華すぎる空気。眩しいほどの光。
目を開けた。
最初に見えたのは、巨大なシャンデリアだった。宝石みたいな光が無数にぶら下がり、きらきらと大広間を照らしている。天井は高く、柱は白く、壁には金の装飾が這っている。どう見ても日本の駅前ではない。どう見ても庶民の生活圏でもない。
そして、その豪奢な空間の中心で。
冷ややかな断罪の声が、よく通る響きで鳴っていた。
「リリアーヌ・ヴァルモン! 貴様との婚約は、この場をもって破棄する!」
息を呑む人々の気配。
壇上に立つ、華やかな衣装の青年。王子様みたいな顔。というかたぶん本当に王子だろう。その先には、一人の少女がいた。
淡い金髪。張りつめた背筋。鋭い目。豪奢なドレスに身を包みながら、まるで処刑台に立つ騎士みたいに、ひどく誇り高く立っている。
だが、彼女を取り巻く空気は明らかに敵意だ。
悪役令嬢。
断罪。
婚約破棄。
さっき乳神が言っていた単語が、頭の中で一気につながる。
「……おいおい」
冗談みたいな転生の末に、目の前には冗談みたいに典型的な場面が広がっていた。
しかもその中心にいる少女は、どう見ても――
ひとりで耐えすぎる顔をしていた。
俺は床に手をつきながら、ゆっくりと身を起こした。
どうやら、ろくでもない異世界生活の幕開けらしい。




