【証拠はいらない】前向きになれない自分を責めてしまう
相談者は、三十代半ばの女性だった。
服装は整っている。
受け答えも丁寧だ。
ただ――最初から最後まで、どこか申し訳なさそうだった。
「……前向きになれなくて」
それが、最初の言葉だった。
「どういう意味だ」
「落ち込んでるわけでもないんです」
「何かあったわけでもない」
「でも?」
「前向きに考えなきゃ、って思うのに」
「できない自分を」
「ずっと責めてしまって」
俺は、メモを取らなかった。
「誰に、責められてる」
「……自分です」
「周りは?」
「周りは」
「そんなに無理しなくていいって」
「言ってくれます」
「でも?」
「それでも」
「前向きじゃない私は」
「ダメなんじゃないかって」
少し間があった。
「世の中」
「前向きな人の方が」
「正しい気がして」
来たな、と思った。
「聞くぞ」
彼女は、小さくうなずく。
「前向きじゃないと」
「何が起きる」
「……何も起きません」
「仕事は?」
「してます」
「生活は?」
「できてます」
「じゃあ」
「困ってるのは」
「……評価です」
「誰の?」
「自分の」
俺は、椅子にもたれた。
「前向きってのはな」
「状態だ」
彼女が、顔を上げる。
「性格でも」
「価値でもない」
「……状態?」
「今日は雨だ」
「それと同じ」
「晴れの日も」
「曇りの日もある」
「人間も」
「それだけだ」
彼女は、言葉を探している顔をしていた。
「でも」
「立ち止まってる気がして」
「立ち止まってるな」
即答だった。
彼女が、驚く。
「でもな」
少しだけ、間を置く。
「立ち止まることに」
「いいも」
「悪いもない」
「進んでいる時も」
「止まってる時も」
「人間は」
「ただ」
「生きてるだけだ」
彼女の肩が、わずかに下がった。
「前向きじゃない自分を」
「責めてた理由は?」
「……置いていかれる気がして」
「誰に?」
「……分かりません」
「分からない相手の基準で」
「自分を裁くな」
彼女は、目を伏せた。
「なあ」
俺は、静かに続ける。
「前向きでも」
「後ろ向きでも」
「存在としての価値は」
「一切、変わらない」
「人間は」
「そこにいるだけで」
「もう完成してる」
長い沈黙。
「……証拠」
「いりませんでした」
「ああ」
「前向きじゃなくても」
「生きてていいって」
「もう、分かってたみたいです」
立ち上がるとき、彼女は少しだけ姿勢を正した。
ドアが閉まる。
しばらくして、相棒が言う。
「前向きじゃなくても、いいんだね」
「ああ」
「生きてるだけで」
「人は、もう足りてる」
静かになる。
前を向いてもいい。
後ろを向いてもいい。
止まっていても、
迷っていても、
人間は――
ただ存在しているだけで、
もう十分だ。
それが分かっているなら――
もう、証拠はいらない。




