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ガラスの音で眠る街

作者: 霜月 風凪
掲載日:2025/12/21

 朝の光は、いつもより少しだけ薄かった。


 港に面した坂道を下ると、海は鉛色に沈んでいて、波の先だけが白く砕けていた。町は起きているのに、声を出さない。シャッターの半分下りた商店、新聞配達の自転車、遠くの工事音。それらは確かに存在しているのに、耳に届く前にガラス越しに遮られているみたいだった。


 私はその静けさに、慣れていた。


 音を失ってから、世界は透明になった。痛みも怒りも、直接触れられなくなった代わりに、全部が薄い膜に包まれた。安心と引き換えに、手応えをなくした感じ。


 坂の途中に、古いガラス工房がある。 かつては観光客で賑わったらしいけれど、今は年に数回、イベントの時だけ火が入る。窓越しに見える作業台の上には、色の抜けた道具が並び、空気だけが時間を覚えていた。


 私はそこで立ち止まり、ポケットの中の小さな欠片を指でなぞった。 海色のガラス。割れた瓶の底。


 それが、彼と出会う合図だった。



 ---




 彼は工房の前で、鍵を落とした。


 金属が地面に触れる瞬間、私はそれを見た。音は聞こえない。でも、落下の速さと、彼の肩の動きで、分かる。彼は慌ててしゃがみ、指先で鍵を掴もうとして、少しだけ躊躇した。


「……あ」


 声が漏れたのが見えた。


 私は一歩近づいて、鍵を拾い、差し出した。彼は顔を上げ、目が合う。その瞬間、言葉が止まった。


 彼の目は、ひどく疲れていた。 眠れていない人の目。何かを言いかけて、何度も飲み込んできた人の目。


 彼は口を開き、閉じ、最後に短く頭を下げた。


 ありがとう、と言ったのだと思う。


 私は軽く会釈して、通り過ぎようとした。ここで終わり。それがいつものやり方だった。人と人は、朝の角で交差して、何事もなかったように離れていく。


「待って」


 彼の唇が、そう動いた。


 私は振り返る。彼は工房の扉を指さし、胸に手を当て、ゆっくりと言葉を形にした。


「……ここ、今日、開けます」


 開ける、という動作を、両手で示す。


 私は一瞬、迷ってから、首を傾げた。


 彼は理解したらしく、ポケットからスマートフォンを出し、メモアプリを開いて、画面をこちらに向けた。


 《よかったら、中、見ます?》


 私はその文字を読み、工房の曇った窓を見る。


 ガラスの向こうで、時間が息をしている。


 頷くと、彼は少しだけ笑った。笑顔は不器用で、でも、確かに温度があった。


 その朝、私は久しぶりに、世界の中に足を踏み入れた気がした。



 ---


 私は靴底で坂道の小石を蹴りながら、工房の中へ入った。


 扉が閉まる瞬間、外の光が細く切れて、室内の空気がひとつにまとまる。匂いがあった。熱と埃と、かすかな塩気。昔の時間が、ここではまだ呼吸を続けている。


 彼は電灯を点け、奥の作業台まで案内する。ガラスの欠片がトレイに分けられ、色ごとに並べられていた。青、緑、透明、そして微かに紫がかったもの。どれも完璧ではなく、端が欠けていたり、気泡を抱えていたりする。


 私はそれを見て、胸の奥が静かに締まるのを感じた。


 彼は紙とペンを取り出し、少し迷ってから書いた。


 《音、聞こえないんですか》


 私は一瞬だけ目を伏せ、頷いた。


 《事故です》


 それだけ書いて返す。説明は、必要ない。


 彼は紙を受け取り、長く息を吐いた。その仕草が、なぜだかとても人間らしくて、私は目を離せなくなる。


 《僕も》


 そう書いてから、彼はペンを止めた。


 《失ったものがある》


 それ以上は続かなかった。


 沈黙が落ちる。でも、居心地の悪い沈黙ではない。ガラスが冷えていく時間のような、静かで、避けられないもの。


 彼は作業台の下から、小さなラジオを取り出した。電源は入っていない。代わりに、ガラスの棒を二本、手に取る。


 カン、とぶつける。


 私は音を聞けないはずなのに、その瞬間、胸の奥が微かに震えた。


 振動。


 空気の揺れ。


 彼は何度か強さを変え、リズムを作る。私はその動きを目で追いながら、自然と呼吸を合わせていた。


 伝わる。


 音は、耳だけのものじゃない。


 彼は気づいたように私を見る。私は小さく笑って、胸に手を当て、親指を立てた。


 《わかる》


 その日から、私は工房に通うようになった。


 朝だったり、夕方だったり、決まった時間はない。ただ、町の空気が重くなりすぎる前に、坂を下りる。


 彼はいつもそこにいて、何も聞かない。必要以上の言葉もない。ただ、欠けたガラスを磨き、火を入れ、形を整える。


 私はそばで、それを見ていた。


 ある日、彼が失敗作を手渡してきた。歪んだ小さな器。底が少し傾いている。


 《捨てるやつ》


 そう書かれていた。


 私は首を振り、両手で受け取る。


 《きれい》


 彼は驚いた顔をしてから、困ったように笑った。


 それが、私たちの距離が、ほんの少し縮んだ瞬間だった。


 それからの時間は、驚くほど静かに積み重なった。


 彼は名前を名乗らなかった。私も聞かなかった。名前は音と一緒で、なくても困らないと、どこかで思っていた。必要なのは、そこにいるという事実だけ。


 工房の奥には古い帳簿があって、日付と、簡単なメモが並んでいる。誰が来たか、何を作ったか、売れたか、売れなかったか。字は代々違う癖を持っていて、時間の層が紙の上に重なっていた。


 彼はその帳簿を指でなぞり、ある一頁で止まった。


 《ここ》


 書かれていたのは、十年前の日付。イベント、とだけ。


 私はその数字を見て、胸の奥がきしむのを感じた。十年前。その年の夏、私は音を失った。


 偶然だ、と自分に言い聞かせる。でも、町は狭い。記憶は、同じ場所に折り重なる。


 外では、風が強くなっていた。窓が微かに震える。その揺れを、私は掌で感じ取る。


 彼はゆっくりとペンを取り、言葉を選ぶように書いた。


 《あの日、火を入れてた》


 続きが、なかなか来ない。


 《事故があった》


 私は視線を落とした。紙の白が、やけに眩しい。


 《人が、怪我をした》


 私は、深く息を吸った。音は聞こえない。でも、胸の中で、あの時の衝撃が再生される。


 夏祭り。屋台の光。人の波。ガラスの展示。


 割れる。


 眩しさ。


 私は無意識に、耳を塞ぐ仕草をしていた。


 彼はそれに気づき、慌ててペンを置いた。首を振り、何度も、謝るように。


 《ごめん》


 私は首を横に振る。


 《同じ》


 そう書いた。


 彼は目を見開き、それから、静かに理解した顔になる。


 《あなたも》


 私は頷く。


 そこから先は、言葉が要らなかった。私たちは同じ時間の破片を、それぞれ別の場所で拾い集めてきたのだ。


 彼は、あの日、ガラスの破片で手を切った。深くはなかったが、血が止まらず、救急車を呼んだ。大事にはならなかった。でも、その直後、工房は閉められた。責任問題。安全基準。町の空気。


 彼は、言葉を失った。


 正確には、話せなくなったわけではない。ただ、声を出すことが、怖くなった。


 私は、音を失った。


 正確には、完全に聞こえないわけではない。ただ、世界が遠くなった。


 似ている。


 欠け方が。


 その日、私は初めて、彼の名前を紙に書いた。


 《あなたの名前》


 彼は少し考えてから、書いた。


 《蒼》


 青。


 ガラスの色。


 私は自分の名前を書いた。


 《凪》


 静かな海。


 彼は、微かに笑った。


 それから、町に冬が来た。


 観光客は減り、工房はますます静かになる。私は相変わらず通った。蒼は、ガラスを吹き続けた。


 ある夜、灯台の光が強く瞬いた日、蒼は一つの作品を完成させた。


 小さな風鈴。


 私は首を傾げる。


 《聞こえない》


 蒼は頷いた。


 《でも、感じる》


 彼は、風鈴を私の手に乗せ、そっと揺らした。


 微かな振動が、指先から腕へ、胸へと伝わる。


 私は、泣いた。


 音のない涙だった。


 それは悲しみだけの涙じゃなかった。


 私は、久しぶりに世界と接続できた気がした。耳ではなく、皮膚で、骨で、心臓で。音は、形を変えて、まだここにある。


 蒼は何も言わなかった。ただ、少し距離を保ったまま、作業台に背を預けていた。その距離が、優しかった。


 翌日から、工房の入口に小さな風鈴が吊るされた。


 観光用ではない。値札もない。ただ、誰かが通ると、わずかに揺れる。


 町の人は気づかない。気づいても、すぐに忘れる。でも、私は分かった。風鈴が鳴るたび、床が震え、空気が動く。その変化は、確かにここにあった。


 冬が深まる頃、町内会の人が工房を訪ねてきた。


 《春祭り、またやらないか》


 蒼は、その文字を読んで、しばらく動かなかった。


 十年前と同じ話。


 私は蒼の手を見る。指先には、細かい傷が残っている。ガラスと生きてきた証。


 《無理しなくていい》


 そう書いて差し出すと、蒼は首を振った。


 《逃げたままは、嫌だ》


 文字が、少し震えていた。


 準備は、静かに進んだ。


 派手な展示はしない。大きな音も出さない。ただ、触れて分かるものを作る。持つと重さが違う。揺らすと、振動が伝わる。


 蒼は、私の意見をよく聞いた。私は、彼の沈黙を信じた。


 祭りの前夜、私は夢を見た。


 割れる音。


 悲鳴。


 白い光。


 目を覚ますと、呼吸が乱れていた。耳を塞ぐ。意味はないのに。


 スマートフォンに、蒼からのメモが届いていた。


 《起きてたら、来て》


 工房の灯りが、夜の坂道に滲んでいた。


 中に入ると、蒼は一つの箱を差し出した。


 中には、あの日、私が拾った海色のガラスで作られた小さなペンダントがあった。


 《返す》


 私は首を振る。


 《もらう》


 蒼は、ゆっくりと頷いた。


 《明日、僕、話す》


 私は息を止めた。


 《全部じゃない》


 《でも、逃げない》


 私は、胸に手を当て、深く頷いた。


 祭りの日。


 春の光が、町に戻ってきた。


 工房の前には、人が集まった。子ども、年寄り、知らない顔。懐かしい匂い。


 蒼は前に立ち、マイクを握った。


 一瞬、目を閉じる。


 それから、声を出した。


 震えていた。でも、消えなかった。


 《十年前、ここで事故がありました》


 私は、地面を通して、その声の震えを感じていた。


 《怖い思いをさせた人がいます》


 私。


 《守れなかった》


 蒼は、深く頭を下げた。


 その時、風が吹いた。


 入口の風鈴が、大きく揺れた。


 私は、聞こえないはずの音を、確かに感じた。


 胸が、震えた。


 涙が、落ちた。


 それは、ちゃんと、前に進む音だった。


 祭りは、大きな拍手も歓声もなく終わった。


 それでよかった。


 人々は展示を触り、重さを確かめ、揺らして、首を傾げて、静かに笑った。誰も急がない。音に支配されない時間が、町に流れていた。


 片付けが終わった夕方、工房には私と蒼だけが残った。


 窓の外で、海が光っている。夕凪。世界が、少しだけ休む時間。


 蒼は、長く息を吐き、作業台に腰を下ろした。


 《怖かった》


 そう書いて、苦笑する。


 《でも》


 《消えなかった》


 私は、その言葉を何度も読み返した。


 《消えなかった》


 それは、希望だった。


 私は、ポケットから補聴器を取り出した。ずっと使っていなかったもの。付けても、音は歪み、疲れるだけだった。


 でも、その日は違った。


 私は、蒼を見る。


 《試す》


 耳に装着する。スイッチを入れる。


 ざらり、と世界が戻ってきた。


 波の音ではない。声でもない。ただ、空気が擦れる感触。足音の残像。


 そして、風鈴。


 不完全な音。


 私は、思わず笑った。


 蒼は、目を丸くして、こちらを見る。


 《聞こえる?》


 私は首を横に振る。


 《感じる》


 蒼は、少し考えてから、頷いた。


 《それで、いい》


 その夜、私は工房に泊まった。


 床に布団を敷き、天井を見上げる。ガラスの匂い。火の残り香。


 眠る直前、蒼が小さく声を出した。


「……凪」


 掠れた声。


 私は、胸が詰まって、返事ができなかった。


 朝、目を覚ますと、工房はいつも通り静かだった。


 でも、何かが違う。


 私は、それが自分だと気づくまで、少し時間がかかった。


 私は、逃げる準備をしていなかった。


 それから数ヶ月。


 工房は、週に一度だけ開く場所になった。観光のためではない。町の人が、触れて、感じるための場所。


 子どもたちは、ガラスを鳴らそうとして、首を傾げる。年寄りは、懐かしいと言って、目を細める。


 蒼は、必要な時だけ話す。


 私は、必要な時だけ聞こうとする。


 完璧じゃない。でも、続いている。


 ある日、私は病院に行った。


 検査の結果は、変わらなかった。


 《劇的な回復は、難しい》


 医師の口元が、そう動いた。


 私は、頷いた。


 帰り道、坂の上から町を見下ろす。


 風が吹く。


 風鈴が揺れる。


 私は、聞こえない。


 でも、知っている。


 夜、蒼にそれを伝えると、彼は少しだけ黙った。


 《残念?》


 私は首を振る。


 《違う》


 《これでいい》


 蒼は、しばらく私を見てから、ゆっくりと声を出した。


「……一緒に」


「……続ける?」


 私は、笑った。


 補聴器を外し、胸に手を当てる。


「うん」


 小さな声だった。でも、確かに、私はそう言った。


 春の終わり、工房の前に、新しい風鈴が増えた。


 名前は、付けない。


 音も、完璧じゃない。


 でも、夜になると、町はその振動で眠る。


 ガラスの音で眠る街。


 それは、失ったものの代わりに、見つけた世界の名前だった。

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