ガラスの音で眠る街
朝の光は、いつもより少しだけ薄かった。
港に面した坂道を下ると、海は鉛色に沈んでいて、波の先だけが白く砕けていた。町は起きているのに、声を出さない。シャッターの半分下りた商店、新聞配達の自転車、遠くの工事音。それらは確かに存在しているのに、耳に届く前にガラス越しに遮られているみたいだった。
私はその静けさに、慣れていた。
音を失ってから、世界は透明になった。痛みも怒りも、直接触れられなくなった代わりに、全部が薄い膜に包まれた。安心と引き換えに、手応えをなくした感じ。
坂の途中に、古いガラス工房がある。 かつては観光客で賑わったらしいけれど、今は年に数回、イベントの時だけ火が入る。窓越しに見える作業台の上には、色の抜けた道具が並び、空気だけが時間を覚えていた。
私はそこで立ち止まり、ポケットの中の小さな欠片を指でなぞった。 海色のガラス。割れた瓶の底。
それが、彼と出会う合図だった。
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彼は工房の前で、鍵を落とした。
金属が地面に触れる瞬間、私はそれを見た。音は聞こえない。でも、落下の速さと、彼の肩の動きで、分かる。彼は慌ててしゃがみ、指先で鍵を掴もうとして、少しだけ躊躇した。
「……あ」
声が漏れたのが見えた。
私は一歩近づいて、鍵を拾い、差し出した。彼は顔を上げ、目が合う。その瞬間、言葉が止まった。
彼の目は、ひどく疲れていた。 眠れていない人の目。何かを言いかけて、何度も飲み込んできた人の目。
彼は口を開き、閉じ、最後に短く頭を下げた。
ありがとう、と言ったのだと思う。
私は軽く会釈して、通り過ぎようとした。ここで終わり。それがいつものやり方だった。人と人は、朝の角で交差して、何事もなかったように離れていく。
「待って」
彼の唇が、そう動いた。
私は振り返る。彼は工房の扉を指さし、胸に手を当て、ゆっくりと言葉を形にした。
「……ここ、今日、開けます」
開ける、という動作を、両手で示す。
私は一瞬、迷ってから、首を傾げた。
彼は理解したらしく、ポケットからスマートフォンを出し、メモアプリを開いて、画面をこちらに向けた。
《よかったら、中、見ます?》
私はその文字を読み、工房の曇った窓を見る。
ガラスの向こうで、時間が息をしている。
頷くと、彼は少しだけ笑った。笑顔は不器用で、でも、確かに温度があった。
その朝、私は久しぶりに、世界の中に足を踏み入れた気がした。
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私は靴底で坂道の小石を蹴りながら、工房の中へ入った。
扉が閉まる瞬間、外の光が細く切れて、室内の空気がひとつにまとまる。匂いがあった。熱と埃と、かすかな塩気。昔の時間が、ここではまだ呼吸を続けている。
彼は電灯を点け、奥の作業台まで案内する。ガラスの欠片がトレイに分けられ、色ごとに並べられていた。青、緑、透明、そして微かに紫がかったもの。どれも完璧ではなく、端が欠けていたり、気泡を抱えていたりする。
私はそれを見て、胸の奥が静かに締まるのを感じた。
彼は紙とペンを取り出し、少し迷ってから書いた。
《音、聞こえないんですか》
私は一瞬だけ目を伏せ、頷いた。
《事故です》
それだけ書いて返す。説明は、必要ない。
彼は紙を受け取り、長く息を吐いた。その仕草が、なぜだかとても人間らしくて、私は目を離せなくなる。
《僕も》
そう書いてから、彼はペンを止めた。
《失ったものがある》
それ以上は続かなかった。
沈黙が落ちる。でも、居心地の悪い沈黙ではない。ガラスが冷えていく時間のような、静かで、避けられないもの。
彼は作業台の下から、小さなラジオを取り出した。電源は入っていない。代わりに、ガラスの棒を二本、手に取る。
カン、とぶつける。
私は音を聞けないはずなのに、その瞬間、胸の奥が微かに震えた。
振動。
空気の揺れ。
彼は何度か強さを変え、リズムを作る。私はその動きを目で追いながら、自然と呼吸を合わせていた。
伝わる。
音は、耳だけのものじゃない。
彼は気づいたように私を見る。私は小さく笑って、胸に手を当て、親指を立てた。
《わかる》
その日から、私は工房に通うようになった。
朝だったり、夕方だったり、決まった時間はない。ただ、町の空気が重くなりすぎる前に、坂を下りる。
彼はいつもそこにいて、何も聞かない。必要以上の言葉もない。ただ、欠けたガラスを磨き、火を入れ、形を整える。
私はそばで、それを見ていた。
ある日、彼が失敗作を手渡してきた。歪んだ小さな器。底が少し傾いている。
《捨てるやつ》
そう書かれていた。
私は首を振り、両手で受け取る。
《きれい》
彼は驚いた顔をしてから、困ったように笑った。
それが、私たちの距離が、ほんの少し縮んだ瞬間だった。
それからの時間は、驚くほど静かに積み重なった。
彼は名前を名乗らなかった。私も聞かなかった。名前は音と一緒で、なくても困らないと、どこかで思っていた。必要なのは、そこにいるという事実だけ。
工房の奥には古い帳簿があって、日付と、簡単なメモが並んでいる。誰が来たか、何を作ったか、売れたか、売れなかったか。字は代々違う癖を持っていて、時間の層が紙の上に重なっていた。
彼はその帳簿を指でなぞり、ある一頁で止まった。
《ここ》
書かれていたのは、十年前の日付。イベント、とだけ。
私はその数字を見て、胸の奥がきしむのを感じた。十年前。その年の夏、私は音を失った。
偶然だ、と自分に言い聞かせる。でも、町は狭い。記憶は、同じ場所に折り重なる。
外では、風が強くなっていた。窓が微かに震える。その揺れを、私は掌で感じ取る。
彼はゆっくりとペンを取り、言葉を選ぶように書いた。
《あの日、火を入れてた》
続きが、なかなか来ない。
《事故があった》
私は視線を落とした。紙の白が、やけに眩しい。
《人が、怪我をした》
私は、深く息を吸った。音は聞こえない。でも、胸の中で、あの時の衝撃が再生される。
夏祭り。屋台の光。人の波。ガラスの展示。
割れる。
眩しさ。
私は無意識に、耳を塞ぐ仕草をしていた。
彼はそれに気づき、慌ててペンを置いた。首を振り、何度も、謝るように。
《ごめん》
私は首を横に振る。
《同じ》
そう書いた。
彼は目を見開き、それから、静かに理解した顔になる。
《あなたも》
私は頷く。
そこから先は、言葉が要らなかった。私たちは同じ時間の破片を、それぞれ別の場所で拾い集めてきたのだ。
彼は、あの日、ガラスの破片で手を切った。深くはなかったが、血が止まらず、救急車を呼んだ。大事にはならなかった。でも、その直後、工房は閉められた。責任問題。安全基準。町の空気。
彼は、言葉を失った。
正確には、話せなくなったわけではない。ただ、声を出すことが、怖くなった。
私は、音を失った。
正確には、完全に聞こえないわけではない。ただ、世界が遠くなった。
似ている。
欠け方が。
その日、私は初めて、彼の名前を紙に書いた。
《あなたの名前》
彼は少し考えてから、書いた。
《蒼》
青。
ガラスの色。
私は自分の名前を書いた。
《凪》
静かな海。
彼は、微かに笑った。
それから、町に冬が来た。
観光客は減り、工房はますます静かになる。私は相変わらず通った。蒼は、ガラスを吹き続けた。
ある夜、灯台の光が強く瞬いた日、蒼は一つの作品を完成させた。
小さな風鈴。
私は首を傾げる。
《聞こえない》
蒼は頷いた。
《でも、感じる》
彼は、風鈴を私の手に乗せ、そっと揺らした。
微かな振動が、指先から腕へ、胸へと伝わる。
私は、泣いた。
音のない涙だった。
それは悲しみだけの涙じゃなかった。
私は、久しぶりに世界と接続できた気がした。耳ではなく、皮膚で、骨で、心臓で。音は、形を変えて、まだここにある。
蒼は何も言わなかった。ただ、少し距離を保ったまま、作業台に背を預けていた。その距離が、優しかった。
翌日から、工房の入口に小さな風鈴が吊るされた。
観光用ではない。値札もない。ただ、誰かが通ると、わずかに揺れる。
町の人は気づかない。気づいても、すぐに忘れる。でも、私は分かった。風鈴が鳴るたび、床が震え、空気が動く。その変化は、確かにここにあった。
冬が深まる頃、町内会の人が工房を訪ねてきた。
《春祭り、またやらないか》
蒼は、その文字を読んで、しばらく動かなかった。
十年前と同じ話。
私は蒼の手を見る。指先には、細かい傷が残っている。ガラスと生きてきた証。
《無理しなくていい》
そう書いて差し出すと、蒼は首を振った。
《逃げたままは、嫌だ》
文字が、少し震えていた。
準備は、静かに進んだ。
派手な展示はしない。大きな音も出さない。ただ、触れて分かるものを作る。持つと重さが違う。揺らすと、振動が伝わる。
蒼は、私の意見をよく聞いた。私は、彼の沈黙を信じた。
祭りの前夜、私は夢を見た。
割れる音。
悲鳴。
白い光。
目を覚ますと、呼吸が乱れていた。耳を塞ぐ。意味はないのに。
スマートフォンに、蒼からのメモが届いていた。
《起きてたら、来て》
工房の灯りが、夜の坂道に滲んでいた。
中に入ると、蒼は一つの箱を差し出した。
中には、あの日、私が拾った海色のガラスで作られた小さなペンダントがあった。
《返す》
私は首を振る。
《もらう》
蒼は、ゆっくりと頷いた。
《明日、僕、話す》
私は息を止めた。
《全部じゃない》
《でも、逃げない》
私は、胸に手を当て、深く頷いた。
祭りの日。
春の光が、町に戻ってきた。
工房の前には、人が集まった。子ども、年寄り、知らない顔。懐かしい匂い。
蒼は前に立ち、マイクを握った。
一瞬、目を閉じる。
それから、声を出した。
震えていた。でも、消えなかった。
《十年前、ここで事故がありました》
私は、地面を通して、その声の震えを感じていた。
《怖い思いをさせた人がいます》
私。
《守れなかった》
蒼は、深く頭を下げた。
その時、風が吹いた。
入口の風鈴が、大きく揺れた。
私は、聞こえないはずの音を、確かに感じた。
胸が、震えた。
涙が、落ちた。
それは、ちゃんと、前に進む音だった。
祭りは、大きな拍手も歓声もなく終わった。
それでよかった。
人々は展示を触り、重さを確かめ、揺らして、首を傾げて、静かに笑った。誰も急がない。音に支配されない時間が、町に流れていた。
片付けが終わった夕方、工房には私と蒼だけが残った。
窓の外で、海が光っている。夕凪。世界が、少しだけ休む時間。
蒼は、長く息を吐き、作業台に腰を下ろした。
《怖かった》
そう書いて、苦笑する。
《でも》
《消えなかった》
私は、その言葉を何度も読み返した。
《消えなかった》
それは、希望だった。
私は、ポケットから補聴器を取り出した。ずっと使っていなかったもの。付けても、音は歪み、疲れるだけだった。
でも、その日は違った。
私は、蒼を見る。
《試す》
耳に装着する。スイッチを入れる。
ざらり、と世界が戻ってきた。
波の音ではない。声でもない。ただ、空気が擦れる感触。足音の残像。
そして、風鈴。
不完全な音。
私は、思わず笑った。
蒼は、目を丸くして、こちらを見る。
《聞こえる?》
私は首を横に振る。
《感じる》
蒼は、少し考えてから、頷いた。
《それで、いい》
その夜、私は工房に泊まった。
床に布団を敷き、天井を見上げる。ガラスの匂い。火の残り香。
眠る直前、蒼が小さく声を出した。
「……凪」
掠れた声。
私は、胸が詰まって、返事ができなかった。
朝、目を覚ますと、工房はいつも通り静かだった。
でも、何かが違う。
私は、それが自分だと気づくまで、少し時間がかかった。
私は、逃げる準備をしていなかった。
それから数ヶ月。
工房は、週に一度だけ開く場所になった。観光のためではない。町の人が、触れて、感じるための場所。
子どもたちは、ガラスを鳴らそうとして、首を傾げる。年寄りは、懐かしいと言って、目を細める。
蒼は、必要な時だけ話す。
私は、必要な時だけ聞こうとする。
完璧じゃない。でも、続いている。
ある日、私は病院に行った。
検査の結果は、変わらなかった。
《劇的な回復は、難しい》
医師の口元が、そう動いた。
私は、頷いた。
帰り道、坂の上から町を見下ろす。
風が吹く。
風鈴が揺れる。
私は、聞こえない。
でも、知っている。
夜、蒼にそれを伝えると、彼は少しだけ黙った。
《残念?》
私は首を振る。
《違う》
《これでいい》
蒼は、しばらく私を見てから、ゆっくりと声を出した。
「……一緒に」
「……続ける?」
私は、笑った。
補聴器を外し、胸に手を当てる。
「うん」
小さな声だった。でも、確かに、私はそう言った。
春の終わり、工房の前に、新しい風鈴が増えた。
名前は、付けない。
音も、完璧じゃない。
でも、夜になると、町はその振動で眠る。
ガラスの音で眠る街。
それは、失ったものの代わりに、見つけた世界の名前だった。




