かわいこちゃん
彼女のことを、わたしは「かわいこちゃん」と呼んでいる。もちろん勝手に。
駅のホームで初めて見かけた日、彼女はカバンの紐を必死に直していた。細くて白い指で、なかなかうまくいかなくて、何度もやり直していた。
まるで生まれたての小動物のように不器用で、どうしようもなく放っておけなかった。
あのとき既に、わたしの人生の半分くらいが彼女の影になった。
誰に否定されようとも、わたしの中で彼女はかわいこちゃんなのだ。世界でたったひとり、わたしだけの。
彼女は決まって19時27分の電車で帰る。毎日同じ車両、同じドア。スマホも見ずに、吊り革を握っている。
それが、いい。
日々に飽き飽きしているようで、それでも必死に耐えているような横顔がいい。
この社会に適応するためにギリギリの折り合いをつけて生きている人間の、あの疲れ切った目。
共鳴した。わたしと一緒だった。もうそれだけで、運命だと感じた。
かわいこちゃんの住んでいるアパートは、駅から7分のところにある。歩幅は平均より少し狭い。信号の前では必ず立ち止まる。
彼女が部屋に入るのを見届けるまで、わたしの一日は終わらない。
部屋の灯りがつく。その光を見るたびに、無事に帰れたことに安心する。
彼女がこの世界に存在している、それだけで今日が終わってもいいと思えるのだ。
わたしの中にあるまともな部分は、彼女の生活の明かりだけでぎりぎり保たれていた。
思えば、ずっとそうだった。
わたしのような人間には、誰かと一緒に並んで歩くような未来なんてない。
けれど、隠れるようにそっと、彼女の生活を守ることならできた。
ある晩、彼女の帰りが遅かった。
19時27分の電車には乗っていなかった。20時を過ぎても戻らなかった。
風の強い夜で、信号が鳴るたびに胸がざわついた。
アパートの前で立ち尽くしていた。あの部屋の灯りがつくのをただ待っていた。
そして、彼女は帰ってきた。
隣を歩いていたのは、男だった。
見たことのないコート。見たことのない靴音。
そして、あの笑い声。
わたしが一度も聞いたことのないような、楽しそうな声を、彼女は男に向けていた。
裏切られた。
わたしの中の、全部が、静かに、確実に壊れた。
かわいこちゃんは、わたしのものではなかった。
最初から。最後まで。
彼女は笑っていた。わたしには向けられたことのない顔で、知らない男の隣で。
部屋の灯りがついた。
いつものように、「よかった」とは思わなかった。
むしろ、世界が終わった気がした。
それから、数日が経った。
わたしはだんだん、食事をとらなくなった。
彼女の部屋の前に立つ時間が長くなった。
昼も夜も、区別がつかなくなった。
何をしていても、かわいこちゃんの笑い声が耳にこびりついて、離れなかった。
わたしは段々と、まともではなくなっていった。
先日、合鍵を作った。もちろん、正規の方法ではない。
でも、必要だったのだ。
いずれ、彼女はわたしを必要とするはずだ。
世界に疲れきって、愛想笑いもできなくなって、あの男にも捨てられて、誰も彼女を知らなくなったとき。
わたしだけが、すべてを知っていたと気づいたとき。
そうなったとき、やっと彼女はわたしを見てくれるだろう。
その瞬間のために、生きている。
だから、今日は下見だ。
今夜は入らない。まだ。
でも、わたしはもうすぐあの部屋の中にいる。
きっと、彼女よりも先に。