第58章: アリラ、初めての勝利と闇の入口
第58話へようこそ!
今回は、アリラの日常的な訓練の様子を中心に描いています。
しかし、汗と痛みの向こう側に、何かが少しずつ動き始めているのかもしれません。
「耐えること」と「応えること」。その境界線を、誰かが越える時――
成長の痛みと、静かな変化を描いた一話です。
それでは、本編をお楽しみください!
【アリラ】は全力で拳を繰り出した。しかし【タニア】は難なくそれをかわし、肋骨にフックを打ち込んだ。痛みが、ガラスに入ったひびが広がるように、全身へと走った。
彼女は床に崩れ落ち、脇腹を押さえながら息を整えようとした。
タニアは静かな軽蔑を浮かべて彼女を見下ろしていた。彼女はすでに《オルビサル》聖学院で「茨」の位にあった。一方アリラは、まだ「芽生え」。それもやっとの段階だった。勝てるはずもなかった。
訓練の前に付き合ってくれるとタニアが申し出た時は、親切に思えた。だが今は――違った。もしかしたら、ただ殴る相手が欲しかっただけかもしれない。
けれど、そんなことはどうでもよかった。
ここで生き残り、追いつくためには、どんな機会でも逃してはならなかった。たとえ、どれほど痛くても。
他の子たちは、すでに遥か先に進んでいた。訓練の道を示す七つの階位――芽生え、若葉、茨、開花、果実、樹、そして最上位の《オルビサルの高み》。その中で、彼女だけが最下層にとどまっていた。
道のりは長い。でも――きっと辿り着く。
ジムはほとんど無人だった。高窓から朝の光が差し込み、《砦》の尖塔の影が床に長く伸びていた。それらはまるで、空を引き裂こうとする骸骨の指のように見えた。
【タニア】「もう終わり?」
退屈そうな声だった。
アリラは首を振り、足元のふらつきを抑えながら立ち上がった。胸は焼けつくように痛み、足は震えていた。それでも――今は引けなかった。
【アリラ】「まだ誰も来てない。……時間、あるでしょ?」
タニアの顔は見なかった。見る必要もなかった。いつか――あの顔から、あの嫌味な笑みを消してやる。
それが今日でないとしても。いつか、必ず。
タニアは顔にかかった金髪のカールを吹き払い、完璧なアーチを描く眉を少し上げた。
【タニア】「ほんとにぃ? ……自分が何言ってるかわかってる?」
アリラはグローブを構え、構えを取った。さっきの一撃は思った以上に効いていた。防具をつけていても、骨まで響くほどだった。タニアはまだ「開花」に達していないのに、まるで現実離れした強さを持っていた。
「ワーデンのお気に入り」という枠を超えたいのなら、自分を限界以上に押し上げなければならなかった。
タニアに認められたいだけじゃなかった。廃墟と化した過去の生活から救い出してくれたイザベルにも。そして、無関心を装いながらも彼女を守ってくれたデレクにも。
でも、もしここで通用しなければ、外の世界で何ができるというのか?
彼女はタニアをまっすぐに見つめた。
【アリラ】「わかってる。……今度こそ、倒すから。」
声は、思ったよりもずっと落ち着いていた。
タニアは鼻で笑ったように口角を上げた。
【タニア】「へぇ。本気でそんなこと思ってるんだ。ワーデンに続いてキャシュナーまで、こんな中身空っぽの子に構ってるなんて……ほんと、時間の無駄ね。」
顔に熱がこみ上げた。殴りたかった。その衝動が、今はっきりとあった。
アリラは右フックをタニアの頬に狙って振りぬいたが、タニアは軽く頭を傾けてそれを避け、腹部に素早くジャブを返した。
アリラはそれを防ぎ、すかさず反撃。しかし拳は空を切るばかりだった。
まるで幽霊のような動きだった。ただ避けているだけじゃない。アリラの動きをすべて見透かしているようだった。
なぜこんなにも読まれる? なぜ……?
顔面に拳が飛んできた。反射的にガードを上げ、なんとか受け止めた。続いて左右から連打。軽く、鋭く、容赦ない連打。
タニアは突破しようとしているわけじゃない。確実に削ってきている。猫が獲物で遊ぶように。
腕には鈍い衝撃が走り、筋肉は悲鳴を上げていた。肋骨の痛みは鋭さを増し、彼女は反射的に拳を振るうが――その前に、タニアはもういなかった。
予測不能な動きを……そうしなければ、いつまでも当たらない。
タニアはさらに詰め寄ってくる。あの余裕の笑みを浮かべたまま。
――なら、返してやる。
アリラは左にフェイントを入れ、重心を右に切り替える。そして渾身の一撃を放った。
拳が、タニアの顔に命中した。雷鳴のような衝撃音がジム内に響き渡った。
アリラの腕には震えるような衝撃が走った。
タニアは回転しながら床に倒れ、顔を打ちつけた。
アリラは息を切らしながら、その場に立ち尽くした。
本当に――当てた?
自分の拳を見つめた。まるで凶器でも握っているかのように。
鼓動が耳の奥で雷のように響いていた。
わたし……やっちゃった? まずい……あの人、殺しに来るかも。
床に倒れたまま、タニアはアリラをにらみつけていた。息は荒く、目には怒りが浮かんでいた。
もう、笑みはなかった。代わりにあったのは、怒りにゆがんだ顔だった。
【タニア】「……やってくれたわね。キャシュナーでも、これからの私を止められないわよ。」
彼女は床を蹴って立ち上がる。顔は真っ赤に染まり、怒りに燃えていた。
アリラはガードを上げた。喉は乾ききっていた。あれはまぐれ。分かっていた。それでも――どうして一発でも、こんなに怒られる?
タニアが突進してくる。目は憤怒に染まっていた。
――その時。
【ブリークモア】「やめなさい。」
鞭のような鋭い声がジムに響き渡った。
ふたりは一斉に動きを止め、その声の主を見た。
【クローディン・ブリークモア】教官が、こちらに向かって歩いてくる。鋭い目をした顔には、容赦のない厳しさがにじんでいた。背筋は棒のように伸びていた。
彼女はふたりの前で立ち止まり、手を背中で組んだまま冷たく言った。
【ブリークモア】「訓練開始まで、あと十分。私は、あなたたちが万全の状態で臨むことを望んでいます。消耗していては意味がありません。」
【アリラ&タニア】「はい、教官。」
教官の視線がアリラに向いた。
【ブリークモア】「アリラ。以前より、動きが読まれにくくなった。進歩を認めます。ただし――同じ手が、同じ相手に二度通じると思ってはなりません。経験ある者なら尚更です。」
【アリラ】「……は、はいっ!」
【ブリークモア】「タニア。」
【ブリークモア】「あなたは「芽生え」に倒されました。昇格したばかりの新米に、です。あなたは、今日の訓練後、私と追加訓練を受けてもらいます。」
【タニア】「えっ……そ、そんな……! たまたま当たっただけで――」
【ブリークモア】「違います。」
【ブリークモア】「それは、あなたが彼女を完全に見くびり、考えることをやめたから。何をしても届かないと決めつけ、「自分は無敵だ」と――そう思い込みましたね?」
【ブリークモア】「無敵の戦士などいません。無力な敵も存在しません。《アセンダント》であろうと、それを忘れた者は、皆……墓の下です。」
【ブリークモア】「今日、あなたには「格下」への敬意を、私が直接教えましょう。いいですね?」
【タニア】「……はい、教官。」
【ブリークモア】「よろしい。」
【アリラ】「教官……!」
【ブリークモア】「何か?」
【アリラ】「私も……残って、訓練を……追加で、お願いできますか。」
【ブリークモア】「理由は?」
【アリラ】「鍛える必要があると思っています。まだ、足りないところが多いので。」
【ブリークモア】「……よろしい。」
【アリラ】「ありがとうございます……!」
他の訓練生たちがジムに入ってきた。アリラとタニアの間を見比べる目が、ちらほらと注がれた。
【ブリークモア】「では始めましょう。訓練の時間です。」
青と赤のクリスタルが、天井の上でかすかに輝いていた。
アリラは目を閉じ、魔法のシャワーの温かな水に身を委ねた。訓練の汗と疲れが、ゆっくりと洗い流されていく。
ここに来てから得たものの中で、これが一番だった。
これを――シャワーと呼ぶらしい。
村にいた頃、入浴といえばぬるい水を張った木の桶が限界だった。しかも、それは「運が良い日」の話。時には寄生虫までくっついてくる始末だった。
この澄んだ温かい水の流れは、《オルビサル》から与えられた祝福のようだった。いや、実際にそうなのだろう。ここは《オルビサル》の《砦》にある新米訓練所なのだから。《神の力》は水に、建物に、空気にさえも満ちていた。
こんな場所に住むなんて、夢にも思わなかった。両親も、おばあちゃんも、きっと――誇りに思ってくれるはずだった。
アリラは喉の奥が詰まりそうになりながらも、涙をぐっと堪えた。
でも、弱さに浸る余裕はなかった。悲しみに浸る時間もない。この機会を無駄にするわけにはいかなかった。
どんなことがあっても、この場所で生き抜く。
彼女はいつも他の訓練生たちが終わるのを待って、一人残ってシャワーを浴びるようにしていた。それが、唯一自分に許したささやかな贅沢だった。
他の子たちは、彼女が「遠慮して」譲っていると思っていた。それで構わない。そう思わせておけばいい。
名残惜しそうに手を伸ばし、水を止めた。木製のシャワー室から出ると、廊下から雑巾で床をこする音がかすかに聞こえてきた。
トマスだ。まるで、魂にこびりついた罪を拭い去ろうとしているかのようだった。
彼が何かの罰で掃除をしていることは聞いていた。でも、理由はわからなかった。ただ、彼の背中には世界の重みがのしかかっているように見えた。
あのジャングルの中で――ロスメアへ向かう道中――彼はアリラを一瞥すらしなかった。目に映っていたのは、ただワーデンだけだった。
けれど今は、時々アリラのことをちらりと見ていることがある。そして、目が合うと必ず慌ててそらし、何事もなかったように振る舞う。不思議な子だ。
アリラはタオルで体を拭きながら、そっとシャワー室を出た。スパーリングで全身が痛んでいた。どの一歩も、「まだ足りない」と語りかけてくるようだった。
けれど、水のぬくもりがまだ肌に残っていた。その温かさが、ほんの少しだけ彼女の痛みを和らげてくれていた。
黒い濡れ髪をタオルで包み、指で水気をしぼっていく。
思考は、あの人――デレク……キャシュナーへと戻っていた。
あの日のあの怒り。予想外だった。アリラにとっては、数ある訓練の一つにすぎなかったのに。
でも、彼にとっては――何か裏切りのように思えたのかもしれない。
それに、あの言葉。
「本当は一人じゃない」って――?
喉に何かが詰まった。けれど、彼女は飲み込んだ。
そんなはずない。かつては、誰かがいてくれた。でも、もう村はない。家族もいない。あの生活は終わった。
これが、今の現実。
一人。それが当然。頼れるのは自分だけ。
彼女は袖で涙を拭い、床にできた小さな水たまりを見つめた。魔法灯の揺れる光が、そこに映っていた。
あの日、空から落ちてきた《球体》が、彼女の過去の生活を永遠に打ち砕いた。
「《オルビサル》の御心だ」――みんな、そう言っていた。何度も。繰り返し。繰り返し。
……デレクだけは、違った。あれは神なんかじゃない、ただの災いだと、何度も言っていた。
そして――アリラは、そんな彼の言葉を信じたくなっていた。
だって、彼はキャシュナーなのだから。信じるべきは、彼の言葉なのではないか。
彼女は深く息を吸い、かぶりを振った。
今は、そんなことを考えている場合じゃない。
もしこんなことを口に出せば、ブリークモア教官は何と言うだろう。
そのとき、遠くで音がした。ジムから、重たい音。まだトマスが作業しているの? 転んだのかもしれない。様子を見に行こう。
アリラはタオルを整え、ジムへと向かった。
角を曲がったその瞬間――
彼女の足が止まった。
ジムの入口前に、黒い影が立っていた。廊下の淡い光を背に、煙のように揺らめいていた。その形は不自然で、異様だった。
喉の奥で、濁った低いうなり声が響いた。空洞の中でねじれるような声だった。
アリラが後ずさろうとしたその瞬間――
空気が凍りついた。
温もりが、部屋から一気に奪われていく。
魔法灯が点滅し、そして――すべてが闇に沈んだ。
叫び声を上げようとした。でも、声は出なかった。
何かをする間もなく、暗闇が彼女を飲み込んだ。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
アリラの拳がついに届いた瞬間。
けれど、その勝利は甘くも短く――
彼女の前に現れた“黒い影”は、何を意味するのか?
次回、事態は一気に急転します。
どうかアリラの運命を、これからも見守ってください。
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