07『二つ目』
07『二つ目』
穂花ちゃんと映画に行く約束をした金曜日の放課後。
僕は、早々に学校を出て、県内でも指折りに栄えている繁華街にやってきていた。地上十数階建ての駅ビル構内は、同上の学生や仕事帰りの社会人で溢れていて、彼らの進む流れに沿って、出口へと向かう。
今の時間は、集団下校をしている小学生も多く、かっちりとした制服に、ネクタイを締めた格好を見ると、あまりにも月並みに都会だなぁという感想が漏れた。
明日からは休日なので、これから一層混雑してきそうだ。
商店街の飲み屋街では、会社の親睦会と称した飲み会も盛んに行われるのかもしれない。
僕も大学生になったり、社会人になれば、そういった集まりに誘われることもあるんだろう。まだ気の早い想像ではあるけど、仮に実現したらと思うと、若干の面倒臭さを感じてしまう。
求められて騒ぐのはあまり得意じゃないし、騒がしい場所は疲れそうだし、なるべく巻き込まれないように注意しないと。
まぁ、今からそんな未来を考えたって仕方ない。
枯れ気味の思考は一旦片付けて、整備された歩道を歩く。
幅の広いアーケードには、百貨店や飲食店が所狭しと立ち並んでいて、学生の殆どはファストフード店に吸い込まれていた。
「ここに来るのも結構久しぶりだなぁ」
部活をしていた頃は、部活が休みの日に友達と遊びに来たりしていたけど、三年生に進級してからはそれもめっきりなくなって。
僕は大学受験のための勉強を。友人達は残り少ない部活動に精魂を注いでいる。
後悔が残らないように努力していたら、他事に現を抜かしている余裕もない。
僕の本番は来年だけど、時間に余裕があるとは思えなかった。
積み重ねなきゃいけないことはまだまだ足りない。でも、だからと言って気を張り過ぎると身体を壊してしまうし、最近は中間考査もあって勉強時間も増えていたから、今日ぐらいは息抜きしても罰は当たらないだろう。
折角、穂花ちゃんが誘ってくれたのに、勉強があるなんて理由で断れない。
僕の方から友達になろうと言ったのに、テスト期間に入った忙しさで何もできずにいたから、誘ってくれた時は本当に嬉しかった。
友達として。家族として。仲良くなる機会になるといいな。
映画を映画館で観るのも、かなり久しぶりだから。それも楽しみだ。
実際に映画館を訪れるとなると最早数年振りになる筈だけど、それもあって今日は期待感の方が大きい。大画面で流れる映像を想像したら、ワクワクしてきた。
ただ、心配事が一つ。
「えっと。何処に行けばいいんだっけ?」
穂花ちゃんとの待ち合わせは映画館と決まっている。
何ならその場所を指定したのも僕なのだが、商店街のどこに映画館があって、どの通りを進めば辿り着けるのかは正直全然分かってない。
何度か映画館の前を通ったことはあるけれど、記憶には靄がかかっている。
いつも誰かに付いていくことが多くて、僕が先頭に立とうとすると何故か毎回止められていたので、この辺の地理は未だに覚えられていなかった。
たがしかし、正確な場所は分からなくても、映画館自体が目立つ外観をしていたことだけは覚えている。立地場所も大きな通りに面していたような気がするし、アーケード下を練り歩いていれば、その内目的地に到着する筈だ。
「まぁまぁまぁ。迷子になったら。その時誰かに聞けばいいしな」
恐れることは何もない。
周囲を見渡しながら、それらしき建造物を探しつつ、歩を進める。
夕飯を取るには少し早い時間ということもあって、人が集まっているのは喫茶店やケーキバイキングなどの軽食が食べられるお店で。
ショーウィンドウから店内を見ると、テーブル席に座った女子高生のグループが、苺のショートケーキを頬張り、恍惚とした表情を浮かべている。
学校で酷使した脳みそに甘いクリームは効果覿面だろう。
僕も今、中間考査以上に脳味噌を働かせているから甘い物を恵んで欲しい。
穂花ちゃんも以前パンケーキが好きだと言っていたし、学校終わりにこういったお店に立ち寄ったりしているのだろうか。彼女が通う高校は商店街からそう遠くないらしいので、この辺りは僕なんかよりもずっと詳しいのかもしれない。
今更になって、集合場所を駅前にしなかったことが悔やまれる。
そんな憂いを抱えて歩いていると、横断歩道のある十字路に差し掛かった。
「ふむ……」
前方にはオフィスビルが乱立しているため、この先に進んでも映画館のような娯楽施設はなさそうだ。そうなると右か左かの二択になる訳だが、どっちの通りにも特に見覚えがない。半年足らずで店舗の総入れ替えがあったのか?
右を見て、左を見て。もう一回右を見る。
「よし。右だな」
何故なら右側の通りの方が人の往来が多い気がするから。
それ以外に根拠はない。
横断歩道を渡って進路を右へ。
方角で言うと東西南北のどれになるのかは、商店街を風雨から守るアーケードが天井になって、太陽が見えないので分からない。
太陽さえ視認出来れば、東と西くらいなら判断できるのだが。
右折してからしばらく直進を続け、何処まで行けども映画館らしき建造物は見えてこない。郵便局の前を通り過ぎ、百貨店を超え、長い通路を半分近く進んだところで、徐々に不安な感情が芽生え始めた。
いよいよ先程の二択を間違えたのかと頭を捻らせていると、
「すいません。そこの学生さん」
唐突に僕の後ろから低く、落ち着いた声音が聞こえてくる。
距離の近さから話しかけられていると思って振り返ると、目の前に六十代ぐらいのお婆さんが立っていた。
「道をお聞きしたいんですけれど」
朗らかな笑みを湛えた、物腰の柔らかいその人は道に迷っているらしい。
奇しくも僕と同じような状況ではあるけれど、だからと言ってお婆さんの目的地が分からないとも限らない。
「えっと、何処に行きたいんでしょう?」
「市役所に用事がありまして。そこまで行きたいのですが」
「ぅ……。し、市役所ですか」
力になれるかもしれないと思って尋ねてみたものの、僕は無力。
中学生の時に、校外学習で訪れたことはあるのだが、記憶には微塵も残っていなかった。
「すいません。分からなくて。お力になれそうにないです……」
「そうですか……。いえいえ。あなたが謝る必要はないですよ」
「交番とかで聞いてもらった方がいいかもしれません」
「分かりました。では、交番の場所を教えていただけますか?」
「えーっと、確か商店街の中にあったとは思うんですけど……」
どうしよう。提案したはいいものの、これ以上引っ張り出せるモノがない。
これも知らないと言ってしまったら流石に引かれてしまいそうだけど、自分可愛さに嘘を吐く訳にもいかず、言い知れない罪悪感に苛まれながら、もう一度頭を下げようとして、
「誠太くん?」
又しても、後ろ側から声を掛けられた。
最近になって聞き慣れた透明感のある声。
僕が振り向くよりも先に隣りに並んだ少女は、制服姿の穂花ちゃんだった。
彼女は既に映画館で待っているだろうと思っていたから、こんなタイミングで出くわすとは思いもしなくて、素直に驚いてしまう。
「穂花ちゃん……!」
「何かあったの?」
彼女もこの状況を呑み込めていない様子で、僕とお婆さんの顔を見比べていた。
「いや。この方に道を聞かれたんだけど、答えてあげられなくて」
「そうなんだ……。何処に行きたいんですか?」
「市役所だって。分かる?」
「うん。分かるよ。私が説明しよっか」
「えっ」
頷いた穂花ちゃんは簡単に言って、お婆さんに向き直る。
身振り手振りも交えて道案内をする彼女は、あまりに流暢で。
僕には何を言っているのかよく分からなかったけど、お婆さんは理解できたらしく、うんうんとしきりに頷いている。
「……その十字路を西に向かって貰えれば、市役所の前に出ると思います」
「ご丁寧にありがとう。おかげさまで閉館までに着けそうです」
「い、いえいえ。道中お気をつけて」
お礼を言われた穂花ちゃんが、恐縮しながら頭を下げる。
その慎ましい姿ににこっと笑った女性は、その笑顔を僕にも向けてくれた。
「あなたも、ありがとうね」
「え? いや、僕は何も……」
「一緒に考えてくれて嬉しかった。優しい人に声を掛けてよかったです」
優しい口調で言われたら否定することもできなくて。
僕がむず痒い感覚に襲われている間に、恭しくお辞儀をしたお婆さんは、穂花ちゃんに教えられた道を進み、その背中はすぐに人波に隠れて見えなくなった。
「……はぁ。穂花ちゃんが来てくれて助かったよ」
「誠太くんが深刻そうな顔で知らない人と話してるから何かあったのかと」
「あはは。案内が全然できなくてさ。マジで困ってた」
「市役所なんて行く機会ないもんね。いきなり聞かれたら出てこないよ」
「う、うん……。そうだよね……」
「私も学校が市役所の近くになかったら答えられなかったと思う」
特に意図はないと思われるが、彼女の言葉が胸に刺さって痛い。
さっきの説明を横から聞いていても、市役所の位置を思い出すことはできなかったのだが、そのことについては秘密にしておこう。
恥ずかし過ぎて、冗談に昇華するには時間が掛かる。
「分からなくても、一緒に悩んであげてたことが偉い!」
そんな浅ましい僕を、純粋な心で讃えようとしてくれる穂花ちゃん。
気まで遣わせて、何だか息が苦しい。
「僕は頭を抱えてただけだからなぁ……」
「でも、道を調べてあげたりしていたんでしょ?」
「……え? してないけど……」
「あれ……? じゃ、どうして。誠太くんはこんな所にいるの?」
「なんでって。映画館で待ち合わせしようって話だったじゃん?」
何でも何も、ここにいる理由は目的地に向かっている途中だったからだ。
実際、穂花ちゃんも通り掛かった訳だし、先程の二択は間違っていなかったんだと密かに安心していたのだが、彼女は何故か困ったように眉根を下げていく。
「……あのね。誠太くん」
「うん……。うん?」
「映画館は真逆だよ」
「……そうかぁ。実はそんな気もしてたんだよね」
「せ、誠太くん?」
「いやいや。違う違う。商店街に来るのが凄く久しぶりだからさ」
「そ、そっか……。そうだよね……?」
子供を諭すような口調と、明らかに不信感の込められた視線。
根拠のないパッションだけでここまで来たことが露見したら、兄としての信用問題に関わりかねない。咄嗟に苦し紛れに言い訳を並べて、平静を装ってみるけど、穂花ちゃんは追及の構えをしていて、見逃してくれそうにない。
「忘れちゃってたってことだもんね?」
「うーん。まぁまぁまぁ。そう言うことになるのかな」
「携帯の地図アプリに頼ったりはしなかったんだ」
「……偶には自分の感覚に任せてみるのもいいかなって」
「へぇ……。誠太くんって。もしかして方向音痴?」
「うぐっ」
いきなりぶん殴られて変な声が漏れる。
そんな急な詰め方は心臓に悪いので止めて欲しい。
「ま、まさか……。二択を間違えただけで。ね?」
「二択?」
「右に行くか。左に行くか。あれは完全にフィフティフィフティな選択だった」
「地図で確認したら、そんな賭けしなくてよかったと思うよ?」
「……地図って。ごちゃごちゃしてて分かり辛くない?」
「それは、読めないってこと?」
「まぁ……。そうとも言う」
「あ。白状したっ!」
「でも! 方向音痴とかではない。断じてっ」
「……その謎の自信。ちょっと怖い」
「確かになぁ……」
こんなにも理詰めで攻められると、ふざけた言い訳も通用しない。
おかしなことを宣う奴だと思われたら本気で不味いので、観念して腹を括る。
「バレてしまったか。穂花ちゃんは探偵になれるよ」
「ほとんど誠太くんが墓穴を掘ってたような気もするけど……」
「地図の読み方も分からない兄貴だけど、幻滅しないでくれるかい?」
「そ、それくらいで誠太くんの印象が変わったりしないよ?」
「そうか……。穂花ちゃんが優しくてよかった。天使だったりする?」
「へっ!? な、なに。急に……?」
「僕の友達はおまえが先頭歩くと迷子になるって忖度なしに言ってくるからさ」
「あー……。既に前科があったんだね……」
普段よりもワントーン低い声で何かを悟る穂花ちゃん。
何とも言えない表情で踵を返した彼女は、進行方向に人差し指を向けた。
「映画館はこっちなので。私についてきてくださいね」
「あ、すいません……。お願いします」
その笑顔は、接客業の営業スマイルみたいで、普段よりも心が遠くに感じるのは気のせいだろうか。気のせいだったらいいなぁ。
彼女に従って、歩いてきた道を引き返す。
そこで、ふと、彼女の手に学生鞄とは違う紙袋が持たれていることに気付いた。
「どこか寄ってたの?」
青山高校は授業時間が長いので下校時間が他校に比べて少し遅く、電車に乗って商店街にやってくるまでにも時間が掛かる。
その間の暇を潰すために、彼女は何処かで時間を潰していたんだと、そんな質問を投げかけてみたら、穂花ちゃんはぎこちなく振り返って、恥ずかしそうにはにかんだ。
「……映画の前にアニメショップでグッズを物色してました」
「おぉー。気合十分だね」
紙袋の中には、本日の戦利品が入っているらしい。
良い物が買えたみたいで、穂花ちゃんはほくほくしている。
「本当は映画のグッズ買うために見るだけのつもりだったけど。買っちゃった」
「ありゃ。お財布的には大丈夫そう?」
「大丈夫。覚悟はしてるから……っ」
「覚悟か。ははは。欲しい物を我慢するのは辛いもんね」
例え金欠になったとしても手に入れたい。
それだけ好きを前面に出している彼女は新鮮で、新しい一面を知れたことに頬が緩む。よし。もし手持ちが足りなかったら僕が出してあげよう。
金ならある。一昨年、去年と貯めたバイト代がたんまりと。
妹の欲しがる物を買ってあげるのは良いお兄さんの指標に違いない。
これは先程の落ち目を挽回する絶好のチャンスだ。
「ふふっ」
そんな狡賢い考えを思いついて唸っていると、不意に穂花ちゃんが笑った。
「ど、どした……?」
脳内の計画は洩れていない筈で、どうしたのかと彼女の背中に視線を向けると、上向きの口角を指で抑えた穂花ちゃんが肩越しに僕を振り返った。
その表情はとてつもなく楽しそうで、耐えきれないといった様子で、また笑う。
「ごめんなさい。さっきのが面白くって」
「さっきのって。僕が方向音痴だって話?」
「うん。誠太くんでも出来ないことがあるんだね」
「そりゃ、僕だって人間だからね。地図読めなくて道に迷うことくらいあるよ」
「うふふっ」
「……すげぇ喜んでるなぁ」
僕の子供みたいな欠点は、相当に味がするようで喜び方がとんでもない。
我慢できずに肩まで揺らす彼女はこの二か月間で見たことがなくて、非常に可愛らしくはあるけれど、こちらとしては絶妙に微妙な気持ちになってくる。
「えっと、馬鹿にしていらっしゃる?」
「ううん。そんなことないよ?」
「えー。ほんとかなぁー」
「本当です。これは。嬉し笑いだから」
「う、嬉し笑い?」
その独特な言い回しの意味を、瞬時に理解することはできなくて首を傾げる。
言葉だけでは言い表せていない心模様。
その答えは、全身で振り返った彼女自身が教えてくれた。
「また、新しい誠太くんのことを知れたから」
スカートを翻して、肩に掛かる黒髪を靡かせた少女は、何の憂いもなく笑う。
透明で、眩しい。太陽みたいな笑顔を引き出せたのが僕の滑稽さなら、子供染みた短所も捨てたものではないのかもしれない。
「……」
何か言葉を返そうとして、会話と呼ぶには不自然な間が生まれる。
適当な相槌を打てなかったのは、きっと、彼女に見惚れていたから。
同じ思考をしていたことに、恥ずかしくなってしまったから。
「……そっか」
仲良くなっていくことを喜んでくれる。
その笑顔は、正面からでは受け止められないくらいに可愛かった。