51『PM 3:32』
51『PM 3:32』
「……『貴方に贈る愛の詩』」
程なくして到着した映画館は、一階に雑貨屋を併設する小洒落たビルの中にあって、販売機で発券されたチケットを穂花が僕に手渡してくれる。
その小さな紙に記されていたタイトルは、明らかにラブロマンス的な雰囲気を漂わせており、手続きを間違えているんじゃないかと確認したら、全く持って何の手違いもなく、このタイトルで合っているとのことだった。
僕らは東京に旅行に来て、実写の恋愛映画を観るらしい。
「えっと……。この座席は?」
しかも、ペアシートに腰掛けて。
「広い座席の方がいいかなと思って」
「広すぎて足まで伸ばせそうだね……」
「快適でしょ? ほら。誠太は奥側に座ってよ」
普段通りの口調で僕の背中をぐいぐい押す穂花。
僕の肩に手を掛けて、左側の座席に押し込んだ彼女も隣接したシートに腰を下ろし、手鏡を取り出して身嗜みを確認している。
僕等の間にひじ掛け等の隔たりは一切存在しないけど、ペアシートを囲うような仕切りは作られているので、多くの観客を収容できる映画館の中であっても、周囲の目を気にしなくて済む、プライベートな空間が形成されていた。
特別な座席は、スクリーンも目の高さにあって、シートに体重をかけると適度な反発を返してくれる。
そこに上乗せされる暗がりな照明。
演出される非日常感。
このプレミアムな雰囲気は、容易く味わえるものではないだろう。
だから、落ち着けと言われても一息吐けるような状況ではなくて。
スクリーンに流れている映像も、殆ど流し見しているような状態で。
「誠太。誠太」
「な、なに?」
そうやって落ち着きなく視線を彷徨わせていると、耳元で名前を囁かれて、全身が総毛立つ。反射的に身体を端っこに寄せて身を引くけれど、そこにはほんの少しのスペースも余っておらず、こんなに狭い筈はないって右隣に顔を向けたら、穂花の右側に、もう一人分座れそうな空間が残されていた。
明らかに偏りのある着席位置に物申したいことはあるが、彼女の顔が目の前にあると、否が応にも身体が緊張して呼吸が詰まる。
穂花のおでこを出した可憐な容姿は、暗がりの中であっても、はっきりと認識できるくらいにキラキラしていて、直視するには心臓が持たない。
「携帯。マナーモードにした?」
「……まだ」
「鳴らすと、他のお客さんの迷惑になっちゃうよ?」
「……そうだね」
何故そうも平然としていられるのか……。
何だか今の穂花は、いつにも増して肝が据わっていて、彼女が落ち着きを見せる分だけ、僕の動揺は激しくなっていく。特殊な空気感の中で、普段よりも彼女のことを過剰に意識していることを自覚してしまう。
ただ、教えてくれたことは至極常識的なことであり、上映中のマナーはきちんと守らなければならないので、手早く携帯を取り出して、すぐに電源を落とした。
「……穂花」
「ん?」
気が付くと人も多くなり、上映開始の時間も迫っている。
その前に声量を抑えて彼女を呼べば、穂花は聞こえ辛かったのか更に近付いてきて、鼻先にバニラの香りが広がっていく。
「……こ、ほん」
出来るだけ意識しないように意識して、一先ず呼吸を整える。
近付いてもらう意図はなかったのだが、結果的に身動きの取れない体勢になってしまい、身動ぎもしないように固まっていたら、僕の腕に柔らかい感触が触れた。
「誠太?」
「い、いやっ……、映画のことでさ。このチョイスはどうしたのかなって」
言いたいことは少なくないけど、まずは映画のジャンルについて尋ねる。
明らかに他意を感じる選択の意味を問いかければ、彼女は艶やかに微笑んだ。
「前に少女漫画にハマってるって言ったでしょ?」
「穂花が風邪引いた時に言ってたね」
「そう。誠太の風邪が移った時」
「記憶の改ざんはやめよっか?」
「あれ。違ったっけ? でも、あの頃読んでた漫画の実写映画なの」
「な、なるほど。そういうことか……」
僕が思っていた程、縁もゆかりもない訳ではなかったらしい。
ただ、そういった理由があったのだとしても、旅行中にそれを観る理由にはならないだろう。きっと、地元にある映画館にも放映されている筈だ。
だから、今。この瞬間に、この映画を観る理由は他にもあって。
僕は、それをきちんと受け取らなくちゃいけない。
「ほら。もう始まっちゃうから。私語はダメだよ?」
僕の思考を遮って、唇の前に人差し指を立てる穂花。
言葉の直後に館内の照明が落ち、大きなスクリーンに学校の校舎が映し出された。
『貴方に贈る愛の詩』
その内容は、とある学校で巻き起こる女子高生とその担任教師の恋物語で。
立場も年齢も異なる二人のすれ違いや葛藤。
二人を引き離そうと立ちはだかる大人達との衝突。
そうして、ままならない想いを抱え、時に衝突し、挫折し、交差する様々な気持ちを一つずつ丁寧に拾い上げながら、かけがえない絆を育んでいく。
そんな波乱と困難に満ちた。楽しいだけではないお話だった。
二人の間に喧嘩は絶えない。
でも、それは二人にとって必要なことで。
ぶつかる度に痛みを分け合って、お互いのことをより深く知っていく。
その後に生まれるのは、立場も、年齢も。周囲の反対すらも。
些末な障害でしかないと思わせる程の“託した愛”で。
主人公達はお互いのことを信じ、“二人で生き抜いて行く”という道を選ぶ。
「……」
そんなストーリーを見せられたら……。
おまえはどうするんだと問われているみたいで、焦燥感に急かされる。
二人きりの世界だとしても、彼女達はこれ以上なく幸せそうに笑っていた。
それは、形に拘るばかりでは得られなかった特別な笑顔だったろう。
その小さく限られた世界は唯一。彼女達が愛を重ねていくことを許した。
何処までも儚く、渇くように寂しい世界で。
二人は手を取り合って生きて行く。
どんな困難に阻まれても。
理不尽な試練に見舞われても。
どれだけ間違いを繰り返してしまうとしても。
隣りに愛する人がいるから。
それだけが、何よりも大切なことだから。
それほどの愛を抱いているから。
「ん……」
ふと、右肩に心地良い重みがもたれ掛かった。
右腕に視線を落として見れば、穂花が頭が僕の肩に乗せられている。
その感覚を素直に受け入れ、視線を正面に戻す。
そのタイミングで、スクリーンの大画面に、主人公と先生の貪り合うようなキスシーンが映し出されていた。
「……ぅ」
集中の糸が途切れたせいと、自分自身を重ね過ぎたせいもあって、感動よりも気まずさが勝る。没頭していた意識が映画外のことを気に掛け始め、身を寄せる穂花の表情を盗み見ると、憧れを混ぜたような表情で二人の行く末を見届けていた。
その内、微かに周辺からもガタゴト物音が聞こえ始めてきて……。
「コホン」
居た堪れない感情を誤魔化すために咳ばらいをしたら、その雑音を嫌った穂花が、ムッとした表情で僕を見上げて、顎でスクリーンを指し示す。
……邪魔してごめん。
確実に映画に集中しろと主張している彼女に心の中で謝罪し、それから視線を正面に戻してみても、主人公達は今も激しくお互いのことを求め合っている最中で。
ただただ、どうしようもなく立つ瀬がない。
急かされているみたいな感覚はとうとう最後まで拭い切れず、居た堪れなさに、外の空気が吸いたくなってきた僕を、穂花の左手が繋ぎ留める。
彼女の体温は熱いくらいの熱があって。
観念した僕に、色んな想いを伝えてくれるのだった。




