05『自慢の友達』
第二章『甘いコーヒーと宇治抹茶入り緑茶』
05『自慢の友達』
「うぅー。穂花ごめーん」
「もう。だから、ちゃんと勉強しなよって言ったのに」
五月の中旬。中間考査を終えたある日の放課後の教室で、私は目の前の椅子に縮こまって座る親友のことを厳しく叱りつけていた。この時、威圧感は何よりも大切で、出来る限り瞳を薄く細めてから、ジトッとした視線をみさきに送る。
そうしたら、最初は申し訳なさそうにしていた彼女も、徐々に徐々に目線を逸らしていって、最終的には口笛を吹くみたいに唇の先を尖らせていた。
その顔は、必死に言い訳を考えている表情で、
「で、でもぉー」
もごもごと切り出す彼女の声色は、普段よりも明らかにトーンが高くて、甘い。
声優さんでも出さないようなあざとい声を発しながら、わざと姿勢を屈めたみさきは、上目遣いで私のことを見つめてくる。
「でもじゃありません」
そんな分かり易いおねだりは、私には通用しない。
何回それでみさきの我儘を許してきちゃったか。
両手の指の数じゃ足りないんだから。
「みさきが悪い。そうでしょ?」
童顔で可愛らしい女の子が困り顔をしていると、幼い子を虐めているみたいで、可哀想だと錯覚しそうになるけど、彼女の外見に騙されてはいけない。
みさきは私と同じ高校二年生で。
アニメの沼に嵌って抜け出せない夢女子なんだから。
「えーん。聞いてよぉー」
「それなら、テスト期間中何してたのか言ってみて?」
「AllOutのスマホゲーム」
「うん。ちゃんとダメ」
ほら。やっぱり。原因を尋ねたら、こんなにもあっさりボロが出てきた。
即答してくるところを見ると、全く反省してないみたい。
「だ、だって、イベントの報酬が推しだったんだもん! ここで手に入れられなかったら復刻がいつになるか分からないんだよっ!?」
「気持ちは分かるけど。だからって、勉強をしなくていい理由にはならないの」
「ま、全くしなかった訳じゃないもんっ」
「ふーん。じゃ。赤点は? 何教科取ったんだっけ?」
「なんと! たったの三つだけ!」
「三つも。ね? 凄いことみたいに言わないの」
ゴールデンウィークと一週間のテスト期間があったのにも拘らず、みさきの答案用紙はことごとくボロボロで。その中でも数学、科学、英語の三教科はクラスの平均を大きく下回って欠点。
一年生の時と比べても、みさきの成績は下がる一方で留まることを知らない。
「うぅ……。うちのお母さんみたいなこと言わないでよ」
「みさきのお母さんって厳しいんでしょ? 大丈夫なの?」
「……もしかしたら塾行けって言われるかも」
「塾……。宿題とか沢山出されるみたいだし、そうなったら大変そうだけど」
「そうなの! 塾なんて絶対に行きたくないよっ。やっとテストが終わってイベントに専念できるようになったのにぃっ!」
うーん……。この子はホントに……。
「……みさきみたいな子は塾に通った方がいいかもね」
何だかみさきのお母さんが厳しい訳ではなくて、彼女が自分に甘いだけのような気がしてきた。自分の欲求に素直過ぎるみさきを更生させるためには、強引な荒療治でもしないと直らないんじゃないかな。
「なんでよぉ!? そんなこと言わないで」
このままだと留年さえ視野に入ってしまうみさき。
友達が二次元の世界に溺れて、人生を狂わせる姿は見たくない。
まして、その一端が沼に案内した私にあるなんて思いたくはないけど、要領のいい彼女なら土壇場でどうにか出来ちゃいそうな気もしていて。
何だかんだ、私はみさきのことを信用していた。
それに、どの道今日は家に帰って沢山お説教されると思うから。
私がこれ以上きつく言うのは止めておいてあげよう。
「ごめんごめん。冗談だよ」
「ほんと……?」
「次の期末テストは一緒に勉強しようね?」
「うん……。ありがと。持つべきものは穂花だよぉ」
「はいはい」
涙ぐむみさきの頭をあやすように撫でて、小さく笑う。
私の成績も飛び抜けて優秀な訳ではないけど、大学には進学するつもりなので、授業は真面目に受けているし、家でも暇な時間があれば自習したりもしている。
だから、赤点を回避するくらいのお手伝いであれば力になれそうだ。
「ほら。もう帰ろうね」
みさきを問い詰めている間に、それなりの時間が過ぎていて。
気が付くと、教室には私達の他に数人のクラスメイトしか残っていなかった。
まだ日が落ちるには早い時間帯だけど、帰りが遅くなるとよくないし、電車を待つ時間もあるから、とりあえず駅に向かおうと立ち上がる。
みさきもリュックを背負い直したら、ぴったりと私の隣りにくっついた。
廊下をゆっくり歩いて、昇降口を抜けてから、校門までの道のりを歩く。
その道中。何か思い出した様子でみさきが立ち止まり、でも、口調は軽い感じでこう言った。
「あのね。穂花」
「うん? どうかした?」
「実は。一個謝らなきゃいけないことがあるの」
「え。な、なに?」
何処か真面目な雰囲気も含んだ彼女の表情。
そんならしくない雰囲気に、続く言葉を予想することは出来なくて。
僅かに目を見開くと、みさきは今日初めて、落ち込んだ時みたいに肩を落とす。
「映画を観に行く約束してたでしょ? たぶん。一緒に行けないと思うの」
「え……? あ。補習とかあるもんね。でも、日付変えたら、きっと……」
「ううん。しばらくはママが許してくれないと思うんだ。だから、ごめん」
「……そっか。そう、だよね」
欠点を取ると補習を受ける必要があって。
その後の追試験で合格点を取らなくちゃいけない。
補習がいつから始まるのかは分からないけど、実施されるのは決まって放課後や休日で。これからみさきは、自分で絶対に嫌だと訴えていた勉強漬けの毎日を送ることになってしまう。
そうなると、かなり前から楽しみにしていた映画を観に行くことはできなくて。
「……」
「え、えへへっ」
自然と暗くなる雰囲気を誤魔化すように、みさきが渇いた笑い声を発した。
そんな彼女の目を、しっかりと見据える。
今度は、威圧感を出した振りなんて見せかけのことは何も考えずに。
「なに笑ってるの?」
「ひ、ひぇっ」
「ねぇ。なんで?」
「ほ、穂花が怖い顔してるから和んでもらおうかなーって思って」
「もうチケットも買っちゃってるよね?」
「……は、はい」
お道化た口調はばっさり切って、笑い事じゃないでしょと視線で問う。
みさきの軽口には付き合ってあげない。
「私聞いたよ? 事前に買っても平気って? その時。みさきは寧ろ勉強のモチベーションに繋がるから大丈夫って言ってたと思うんだけど?」
「映画のためにアニメを復習するモチベーションに繋がりましたっ!」
「ふざけてる?」
「う、うぅっ。穂花が怖いよぉ……」
私の有無を言わせない素振りに観念した様子のみさき。
しょんぼりと項垂れ、叱られる覚悟を決めた彼女は、背中を丸くしていた。
「自分で言ったことは守らなきゃ」
「ごめんなさい……」
「とっても楽しみにしてたんだからね?」
「……うん。私も」
萎んだ声が、本当の心を滲ませる。
みさきが一番楽しみにしていたのは間違いなくて。
だからこそ、ほんのちょっとだけ自制心が足りなかった。
……ちょっとだけかなぁ。
「どうしようか。映画はまた日を改める?」
「ううん。チケット代が勿体ないし。穂花は行ってきてよ」
「でも……。みさきはどうするの?」
「補習全部終わってから、ママに頼み込む。最悪土下座も辞さないね」
「ど、土下座って。逆に怒られそうな気がするけど……」
さっきまでの表情とは一転して、強い意志を感じる眼差しで、みさきが何処か遠くを見つめる。そんな逞しい顔付きの彼女が近い将来、おでこを床に擦りつけているのかと思うと、何だか切ない気持ちになってきた。
彼女の自業自得で招いたことで、何故か私の心が痛い。
「ほんとに私一人で行ってきていいの?」
「他の友達誘ってもいいよ? チケットは私からのプレゼントってことにして」
「……私が、この趣味のこと。みさき以外に話してないの知ってるでしょ?」
「これを機に布教しちゃおっか?」
「できません。誰も興味ないだろうし、引かれて終わるだけ」
「うーん。そんなことないと思うけどなぁー」
「そんなことあるの」
仲の良い友達はクラスにいるけど、アニメや漫画の話ができるのは目の前にいるみさきだけしかいなくて。他の友達は今時の趣味を持っている子達ばかり。
学校で聞く話も、SNSに投稿されている写真も、流行りの喫茶店やショッピングで遊んでいる様子が殆どだから、アニメへの関心が少しもなさそうな彼女達に、この趣味を打ち明けることは凄く怖かった。
みさきは隠さなくても大丈夫だって言うけど、私は信じてあげられない。
好きなモノを笑われるのは、とても辛いことだと知っているから。
この話題を一区切りしたくて、私は先に歩き始める。
「あ、そうだっ!」
その後ろで、みさきが手を叩く大きな音が聞こえてきて、駆け足で私を追いかけてきた彼女は、私の隣りに再び追いつくと、自信満々の表情でニカッと笑う。
そんな眩しい笑顔で、私を不安にさせないで欲しい。
「良いこと思いついた!」
「……なに?」
「お兄さんを誘ったらいいよ!」
「な、なんで誠太くん?」
予感は見事に的中し、いきなり関係のない誠太くんの名前が出てくる。
あまりにも脈絡がなくて疑問を返すと、みさきも不思議そうに首を傾げた。
どうして私よりも驚いた顔ができるんだろう。
「え? だって、二人は友達になったんでしょ?」
「それはそうだけど……。誠太くんにだって趣味の話はしてないよ」
誠太くんと私の間に、友達という呼び方が追加されて数週間。
義理の兄妹という曖昧な繋がりを呑み込めずにいた私に、一から始められた関係性は収まりが良くて、以前よりは緊張せずに話せるようになったと思う。
でも、だからって、それからは特別な出来事も起こらず、私達の距離感は、今までとそんなに変わってない。
いつかなりたい仲の良い兄妹像には、まだまだ遠かった。
「お兄さんなら受け入れてくれそうじゃない?」
「な、何でそんな風に思うの? 誠太くんと会ったことないよね?」
「ないよ? でも、穂花が優しい人って褒めてたから。良い人なのかなぁって」
「それは……。確かに言ったけど……」
「嬉しかったんでしょ? 仲良くなりたいって言葉にして言ってくれたの」
「……うん」
まだまだお互いに気を遣うし、無言の時間はどうしても落ち着かない。
だけど、ぎこちさなに焦ったり、申し訳なくて縮こまったりすることは減って。
今は、その不慣れな時間も仲良くなるために必要な過程だって考えられた。
「穂花。照れてる?」
「……そういうことは気付いても言わなくていいの」
「否定しないところが可愛い~」
「うるさいっ」
あの日。手を差し伸べてくれた誠太くんのことを思い出すと、色んな感情が込み上げてきて、顔が熱くなる私に、みさきがニヤニヤと悪い笑顔を向けてくる。
揶揄う気満々の表情は、私の羞恥心を更に加速させて、凄く居心地が悪かった。
学生鞄を盾に顔を隠してはみたものの、みさきはその反応さえ喜んでいる。
「穂花の方からちゃんとお話ししてる?」
「してるよ。この前もテストで分からないところ聞いたし」
「もっと楽しいお喋りしなよ……」
「うっ……。そんな簡単に言わないで」
「テストなんかよりもずっと簡単なことだと思うけどなぁ」
私の精一杯の努力を、人付き合いの上手なみさきが一言で切り捨てる。
確かに彼女なら誠太くんと打ち解けるのに一ヵ月もかからないだろうけど、私だって何もしていない訳じゃない。
進展がないのは私の悲観的な性格だけが原因じゃないって主張しなくちゃ。
「そもそも誠太くんと話す機会がほとんどないから仕方ないの」
「えぇー。一緒に住んでて話す機会がないなんてことあるかなぁ? 私には穂花の言い訳に聞こえちゃうけどー? ん-?」
一つ屋根の下で暮らす共同生活。おまけに部屋は隣同士。
顔を合わせない方が難しいと、みさきが疑問に感じるのも仕方ないとは思うけど、その煽るような態度は私の神経を逆なでしちゃうから気を付けて欲しい。
「みさきが赤点取ったこと。もっと責めるね。映画。一緒に行きたかったなー」
「んなっ!? は、話の論点をすり替えないでくださいっ!」
「じゃ、私の言い分も最後まで聞こっか?」
「謹んで聞かせていただきますッ!」
「よろしい」
学校を離れ、ビジネス街を抜けると目的地である駅ビルが見えてきて、私達は駅舎のある二階に足を運ぶ。電車を利用するのは私だけだけど、電車が到着するまでの間はみさきが一緒にいてくれるので、改札前の広場にあるベンチに座って、話の続きを慎重に考えながら口にする。
「誠太くんって常に何かしてるの。勉強とか家事だけじゃなくて、運動しに行ったり、友達に呼ばれたりしてて、とにかく暇そうにしてる時間がないんだよ」
「へぇー。想像してたよりアクティブな人なんだ」
「そう。だから、話せるタイミングが全然ないの!」
それこそゆっくりお話しができるのは一緒にご飯を食べている時ぐらい。
それも、晩御飯の時間になると、食事の後はお風呂に入ったり、次の日の課題があったりするから、そんなに時間がある訳ではなくて。
話しかける理由を探している間に、誠太くんは自分の部屋に戻ってしまう。
理由があれば応えてくれると思うけど、変なことを言って、勉強の邪魔をするのはよくないし……、ね?
「じゃ! お出かけに誘うの尚更アリだよ! 二人で話す時間も取れるだろうし。受験勉強の息抜きにもなるんじゃない?」
そんな風に前向きな考え方ができるみさきが羨ましい。
私が思いつくのは後ろ向きなことばっかりだ。
「……私と行く映画で息抜きになるのかな。寧ろ、気疲れさせちゃいそう」
彼女と自分の性格を比べて、不意に心の中の本心が漏れてしまう。
言い終わってからすぐに言わなくてよかったと後悔して、視線を逸らした私の腕をみさきが強引に引っ張った。力が抜けていた私は、抵抗することもできずに体勢を崩し、彼女の柔らかい身体がクッションになる。
「こーらっ。穂花の悪いところ出てるよ。そうやって決めつけてたら何にもできないでしょ。仲良くなりたいなら自分のことを沢山知ってもらわなきゃ」
みさきのふわふわした喋り方の中に混ぜられた強い意思。
それは、ネガティブな私へのお説教で。
握られた手のひらから伝わってくる体温はとても落ち着く。
「お兄さんは穂花の“好き”を否定するような人?」
「違う、と思う」
「それを断言できるように。穂花も変わらなくちゃね」
「……うん」
疑ってばかり。不安に震えてばかり。
誠太くんはきちんと言葉をくれたのに。
踏み出すことを恐れているのは、いつだって私で。
期待しなくなった‘‘あの日”から、私はずっと同じ場所に立っている。
「……みさきの言う通りだね。私も。こんな自分を変えたい」
こんな私が変われるかどうかは分からないけど、頑張ろう。
「ふっふっふっ。見事に論破しちゃったみたいだねっ」
気持ちの整理をしていたら、みさきが満足そうに鼻を鳴らしていた。
体勢を戻して表情を見てみると、口角が凄く上がっている。
「なんか得意気な顔……」
「ねぇねぇ。今の私、お姉さんみたいじゃなかった?」
「ううん。完全にいつものみさきだったよ」
「えぇー!?。折角なりきってみたのにぃー」
「……ど、どういうこと?」
「穂花のお兄さんに対抗して、私もお姉ちゃんの座を狙おうかなって」
また唐突によく分からないことを言い出すみさき。
さっきまでは本当に頼れるお姉さんみたいだったのに、自分の発言で帳消しにしちゃってた。でも、そんな風にふざけて、張り詰めた空気感を明るくできる彼女は心から尊敬できる。おかげで私もいつもの調子を取り戻すことができた。
「えーっと、頼んでないので大丈夫です」
「遠慮せずにお姉ちゃんって頼ってくれたらいいんだよ?」
「それじゃ、お姉ちゃん。次のテストは赤点取らないで下さいね」
「それは言っちゃダメなやつッ!?」
絶叫するみさきと笑い合って、身体を寄せ合う。
話が一段落して、時間を確認してみたら、あと数分程で私が乗る込む電車がホームに到着する頃だった。
「ありゃ。もうこんな時間かー。早いなぁ」
私の視線に釣られて、みさきも電光掲示板の方に顔を向ける。
こんなに沢山話したのに、彼女はまだ全然話し足りないみたい。
そんな雰囲気を出されたら私まで名残惜しくなってしまうけど、しなきゃいけない用件が出来てしまったから、今日は素直に帰ることにしよう。
「それじゃ私行くね。また明日」
「はぁーい。気を付けて帰るんだよぉ~」
大きく手を振って見送ってくれる彼女に私も胸元で手を振り返し、背を向ける。
改札に向かって歩き始めて、やっぱり、彼女には伝えておこうと振り返った。
みさきはまだベンチに座って、こっちを見ていて。
目が合えば、もう一度力一杯手を振って、大袈裟な見送りをしてくれる。
そんな彼女に、私は右手の手のひらを握り、ガッツポーズを作ってみせた。
「背中を押してくれてありがとう。誠太くんのこと頑張って誘ってみる!」
周囲は喧騒で溢れていて、私の声は聞こえ辛かったかもしれない。だけど、みさきは全てを察して、私より大袈裟に両手を振り上げた。
「ファイトぉー!!」
その姿に勇気が貰える。
彼女は、私の自慢の親友だった。