48『3月22日 PM 0:37』
48『3月22日 PM 0:37』
東京周遊三日目。
既に初日、二日と観光を終え、ショッピングや食を堪能しても、東京の観光地は数多く。三日目となる本日も朝七時には叩き起こされて、意識が覚醒する暇もなしに、ビジネスホテルからチェックアウトを済ませた。
最後の宿泊日である今日は、少し奮発して良いホテルに泊まるらしい。
そのホテルには温泉もあるみたいなので、凄く楽しみなんだけど、腕の中には早くも納まり切らない荷物があって。僕達はそれを、父さんが運転するレンタカーに詰め込んでから、東京駅の近くを出発し、築地方面に車を走らせた。
僕の要望で組み込んでもらった築地場外市場での朝食は最高で。
大ボリュームの海鮮丼は、早起きの辛さを相殺して有り余る程の幸福感で、腹の中を満たしてくれた。僕は旅行に関して、あまり注文していないが、これだけで非常に満足である。
それから、また車に揺られて。約一時間後。
僕はどういう訳か穂花と二人きりで。
若者の街と名高い。渋谷の街に立っていた。
決して渋谷を闊歩する、唖然とする程の人波に攫われて、両親と逸れた訳じゃない。二人は僕達よりも一足先にホテルへ向かって、荷物を運び込んでくれている。
その後は、敷居の高さを感じさせる大人の街。銀座へと遊びに行くみたいだ。
合流するのは夕方で、それまでは僕らも自由行動となっている……、のかな?
そう言うのも、僕が旅行の計画にほぼノータッチだったから把握していなくて。
別行動なんて予定だったことは、今日初めて聞かされた。
僕だけが知らないことに作為的な何かを感じなくはなかったけど、この後の予定は穂花がきちん考えてくれているようなので、不満がある訳じゃない。
渋谷に来て何をするのかは予想も付かないが、張り切って先導してくれる彼女に付いていく。すると、程なくして、お昼のテレビ番組でも特集されたことがあるくらい有名な喫茶店の前に辿り着いた。
要するに。これからは穂花のしたいこと。
行きたい所に案内してくれるんだろう。それがいい。
「ここのスフレパンケーキが、凄く美味しいんだって!」
時刻は十二時を過ぎた頃。
お昼ご飯の頃合いということもあり、店内は少々混雑している様子で、お店の前には数人の列ができている。地下に構えられた喫茶店の入り口は、地上に繋がる階段になっていて、僕らは最後尾の階段中腹で足を止めた。
「……幸せになれるパンケーキ。ほへぇー。名前から凄いね」
お店の前に立て掛けられたスタンドボードには、人気メニューの紹介が記されており、そこにカラフルなパンケーキのイラストも描かれている。
その分厚さは僕の握り拳を優に超えているけれど、流石に誇張だろうか。
「そう! そうなの! 口に入れただけで生地が溶けちゃうんだって」
「こんなに部厚いパーンケーキなのに……?」
「あー! 疑ってるでしょ。口コミサイトに書かれてたから本当だよ!」
「う、うーん。俄かには信じられないけどなぁ」
大好きなパンケーキの、その中でも最上級クラスのお店に来られて、テンションが有頂天の穂花。話している内にますますボルテージが上がっていって、話す口調にも並々ならない熱が籠っている。
楽しみ過ぎて、ネットで色々とリサーチしているみたいだ。
少し妄信的な気がしなくもないけど、気持ちを抑え切れずにはしゃいでいる彼女の姿は微笑ましくって……、可愛かった。
「食べてみたら分かるから! 誠太もハマるかも!」
うきうきしていて。にこにこしている。
溢れんばかりの楽しいで満ちた穂花が可愛くない筈がなく。
日頃は落ち着きのある彼女も、今日ばかりは年相応にはしゃぐ女の子だった。
それくらい旅行というのは特別で、新鮮で。
この時間に釣り合うように、少しだけ背伸びした衣装を身に纏う。
だからか、僕らの服装は普段よりも幾らか大人びていて。
穂花のヘアスタイルもいつものお団子とは違っていた。
「ねぇ。聞いてる?」
「ちゃんと聞いてるよ」
「ほんとぉ? ちょっとぼーっとしてる様に見えたけどなーっ」
「その三つ編み。やっぱり。似合ってるなーって思ってさ」
「んなっ! ……きゅ、急に褒めないで。びっくりするから」
不意打ちの言葉に頬を染め、穂花がぷいっとそっぽを向く。
その体勢では見え辛いけど、三つ編みにした前髪をサイドに寄せて、おでこを出した髪型は大人っぽくも可愛らしい。
普段とのギャップが出ていて。グッとくる。
「新しいコートもいい感じだ」
「……今日の誠太。沢山褒めてくれて怖い」
「怖いって感想が出てくるのか……。日頃の行いだなぁ」
本日の彼女のコーディネートは、立襟の白いブラウスに、襟のないグレーのミドルコート。膝丈のフレアスカートを穿いた格好で、すっきりとした印象に纏められている。すらっと伸びた脚は、透け感のあるストッキングで包まれていた。
その中の含まれる幾つかのアイテムは、先日のデートで買い揃えたものだ。
見覚えがあって、何だか勝手に嬉しくなる。
三月も終わりが近くなり、観光をしていると桜の咲いた景色もよく見られ、春の息吹を感じるけれど、まだまだ過ごし易い気候とは言い難い。
今日は特に冷え込んでいて、立ち止まっていると、指の先から寒さが忍び寄ってきた。
「なんで急に……。私はパンケーキの話をしてたのに」
「ごめんごめん。そこに立たれると服装がよく見えてね」
階段の中腹に立つ僕と、その二段後ろに立っている穂花。
この立ち位置では目線の高さが近くて、彼女の全身が詳細に見えた。
「隣りにくるかい?」
「……嫌」
「えぇ……? もしかして。今ので拗ねた?」
「拗ねてないよ。ここがいいだけ」
「なんで?」
「誠太と同じ身長になったみたいで嬉しい」
「……そっか」
どうやら、彼女も僕と全く同じことを考えていたらしい。
それだって、充分不意打ちだ。
地上に続く行列は、体感すぐに捌かれて、ついに僕らの番がくる。
店内はレトロモダンな空気が作られており、空間を広く使って並べられている家具は温かい色合いの物が多い。地下に作られた喫茶店に太陽の灯りは届かないけれど、アンティーク調のペンダントランプは淡く優しい光源を放っていた。
穏やかで、優しい雰囲気は、居心地が良くて、心が落ち着く。
僕達は、ローテーブルを挟んだ二人席に案内されて、向かい合って腰を据える。
コルク素材のメニューブックを手に取ると、穂花も物珍しそうに覗いてきたが、何を注文するかは既に決まっている。
伝票を持った店員さんがやってくると、バニラアイスの乗ったパンケーキとアールグレイを注文していた。
一方僕は、未だ消えない満腹感を加味し、カフェモカだけに止めておく。
「コーヒーだけでいいの?」
「まだ胃の中に朝食べた海鮮丼が残っててさ……」
「そっか……。でも、少しは食べられるでしょ?」
「穂花が分けてくれるなら。少し頂くよ」
「うん!」
シェアできることを嬉しがるように穂花が笑う。
そんな表情を正面から向けられると照れくさくて、
「それにしても、穂花はよく食べるなぁ」
恥ずかしさを紛らわせるために、そう会話を続けてみたら、彼女の顔が曇ってしまった。
「なんか……。私が食いしん坊みたいな言い方だね」
……女の子相手によく食べるなは失言だったか。
「僕はご飯大盛りで頼んだけど、穂花は母さんと半分こして食べてたもんね」
「そ。ちゃんと一から十まで言ってくれないと私の食い意地が凄いみたいじゃん」
「別に悪いことではないと思うんだけどなぁ……」
「私は、この時のためにちゃんとセーブしておいたの」
セーブしていたと言う割には、結構食べていると思うのだが、それを口にするのは止めておこう。甘いものは別腹だと言うし、きっと、それだ。
「そういや。この後のご予定は?」
話を早々と切り替えて、当たり障りのない話題を尋ねる。
しかし、穂花は、お冷で喉を潤してから、とぼけるように瞳を逸らした。
「んー? 内緒」
「……なにゆえ?」
「誠太の反応を楽しみたいから」
「えっと……。楽しい旅行で終われるよね?」
何だか。ちょっとだけ怖くなってきちゃったな……。
「私は楽しみだよ?」
「悪戯心が控えめだったら有難いんだけど」
「どうかなぁ。でも……、今日は。私の我儘に付き合って欲しい」
そう言って、彼女がにこっと笑う。
目を瞑った柔らかい笑顔が、いつもより大人っぽく見えるのはどうしてだろう。
服装や表情だけでは言い表せない。
彼女の纏う空気が何処か儚い。
その理由に辿り着くよりも早く、注文した料理が運ばれてくる。
それに穂花が気が付いて、愛しい程にぱぁっと表情を輝かせるから。
今。水差すのは止めておこう。
「わぁ~」
「本当に握り拳くらいの大きさあるね」
運ばれてきた大皿には、握り拳を超える分厚さと、手のひらよりも大きさなパンケーキが、一つの皿に三つも乗せられていて、見た目の迫力は想像以上に凄い。
店の前に描かれていたイラストに誇張した表現はなかったみたいだ。
ドリンクも同じトレイに乗せられていて、僕の前にはカフェモカ。
穂花の前にはアールグレイの入ったカップが並べられた。
「写真撮ろ!」
見ているだけで楽しくなる光景を携帯で切り取る。
そんな穂花を形に残したくて、僕も密かに彼女を撮った。
この旅行で、寂しかったフォルダの中も随分と色付いてきたような気がする。
その代償として、携帯を気軽に貸せなくなってしまいそうだけど。
「お先にいただくね」
「いいよ。好きなだけ食べな」
ナイフとフォークを持ってはしゃぐ穂花を見守りつつ、コーヒーにホイップクリームとキャラメルソースを追加する。
やはり、これでもかと甘くして、それからカップに口を付けると、チョコレートソースの甘みの後に、コーヒー自体のほのか苦味が後味になって広がった。
パンケーキが看板のお店なのかと思っていたけど、コーヒーも美味しい。
甘すぎるくらいの糖分が、朝から行動して疲労した身体に沁み込んでいく。
この後何をする予定なのかは教えてくれなかったが、まだまだ歩き回ることだろうし、軽食を食べつつ、しばしば一息吐くのがいいだろう。
「おいひぃ!?」
「おいしい?」
「くひのなはでほけは!」
「とけてないだろ。滅茶苦茶残ってるだろ」
ネットの口コミに踊らされるのは止めなさい。
「単純に美味しいってだけでいいんだからさ」
「文学的な表現とか要らない?」
「要らない要らない。レビュー書いてる訳じゃないし」
「でも、誠太に美味しいって気持ちを伝えたくて」
「気を遣ってくれなくても、顔見てれば分かるから」
満ち足りた笑顔を見せてくれるだけで充分だ。
「……本当に伝わってる?」
「伝わってるよ。喜んでる時の穂花は顔に出やすいからね」
「伝わってても、食べて欲しい」
「食べたいだけ穂花が先に食べときな。僕は後でいいし……。ん? え?」
「はい。あーん」
僕の提案は華麗に無視され、フォークを握った穂花が僕の方に身を乗り出す。
僕の口元へとゆっくり近付いてくる爪の先端には、一口大に切り分けられたパンケーキが刺さっていて、メイプルシロップの甘い香りに鼻腔がくすぐられる。
「……へ?」
甘く香ばしい匂いを嗅ぐと思考が弛緩して、目の前の状況が理解できない。
殆ど無意識に呆けた声が溢れ出し、硬直してしまう前に脳味噌を働かせようと、彼女の顔に視線を動かして、唇を一文字に結んだ穂花と目が合った。
瞳は僅かに潤んで、耳まで赤い。
恥じらいを誤魔化して。
弛みそうな口元を堪えて。
期待を込めた眼差しをする彼女に、理由を求めるのは酷く情けないことだ。
「あ、あーん」
身体の内側から湧き上がって、弾けそうになるモノを逃がすように口を開く。
いっそのこと目も閉じて、距離感も曖昧に眼前の物を噛み締めると、硬質なフォークが歯に当たり、ほんの少しだけ痛かった。
「……どう?」
顎を引いて、舌に乗せたパンケーキはふわふわで、歯に当たる感触も凄く軽い。でも、口の中に広がる卵とバターの豊潤な香りは濃厚で、優しい素材の味にシロップのくど過ぎない甘さが絶妙にマッチしている。
「……うん。うん。美味しいよ」
胃もたれすることもなさそうだから、案外一人でもぺろりと食べられそうだ。
SNSを中心にして流行り、テレビ番組に特集されたという事実も頷ける。
それくらいの絶品なのは確かで。ただ、僕は今の一口だけで胸一杯になりそう。
「えへへ。もう一口どうぞ」
ただ、一度許可してしまったら、際限はなくなるもので。
目を開くと、既に二口目が用意されていたりして。
「むぐぅ」
半ば強引に押し込まれて、静かな咀嚼を繰り返す。
今度は、キャラメルソースがビターな味わいを引き出していて、これはこれでとても美味しい。そして、とてつもなく恥ずかしい。
どうしたって周囲の視線が気になるから、怖くて顔を動かせない。
「……っ」
だから、穂花に視線を縫い留めていたのだが、彼女は誰の視線も気にした様子はなく、僕が正面にいることさえも蚊帳の外で。
何も付いていないフォークの切っ先を、ぷくっと膨らんだ唇に優しく押し当てていた。
……明日で十八歳になる身でも、こういう時にどうしていいか分からないんだ。