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ありふれた恋すら、あなたとは。  作者: よせなべ
第六章『願いは髪留めに』
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41『未来への約束』

41『未来への約束』




 照明を消した真っ暗な部屋の中。

 雑多な音は何一つとして聞こえてこない静寂で、微かな息遣いだけが繰り返されてから、どれだけの時間が経ったんだろう。

 

 百匹の羊を思い浮かべても、永遠と素数を数えても、眠れる気配は全くなくて、頭の中は冴えたまま。早く寝なければいけないと思えば思う程に、瞼の裏では受験のことが浮かび上がって、緊張を自覚してしまうと息苦しくって仕方ない。


 大丈夫だ。忘れ物は何もない。何度も確認したじゃないか。

 今日のためにどれだけの時間を勉強に費やしてきたか。僕が一番分かっている。

 面接の練習だって欠かしていない。だから、平気だ。


 そう自分を言い包めても、一抹の不安が最後に残る。

 頭の中は小さな暗雲に支配され、それが結局、大きな雨雲に膨れ上がった。


 自分のことになると、僕は本当に意気地ない。

 弱気が端から顔を出して、情けなく尻込みしてしまう。


「……穂花?」


 そんな時に、誰かを頼りたいと思うのは、心の強度が脆くなったからだろうか。

 少なくとも自立からは遠退いている気がするけれど、一人で考え込む癖は、僕の明確な欠点でもあって。きっと、それを穂花は嫌がる。


 そこに気付けたことが、僕の成長で。

 これまで一人で抱えていたことを、彼女にならば吐き出せる。

 僕にとって、穂花は特別な人だから。


「……」


 だけど、こんな時間にもなると、そもそも彼女は眠っていて、話すことすら叶わない。この心の靄は、自分自身の力で払うしかないみたいだ。


「もう寝ちゃってるよな……」

「起きてるよ?」


 落胆しそうな自分を納得させる言葉を吐いて。

 やけにはっきりとした返事が、僕の背後から聞こえてくる。


「……。今の間は?」

「うん? どうかした?」

「まぁ……。いいか」


 言及しても藪蛇なので、つっつくのは止めておこう。

 下手をすると、僕が頭を抱えることになりかねない。


「誠太も起きてたんだ」

「……緊張で眠れなくてさ」

「それじゃ、眠くなるまでお話しする?」

「うん。お願いしようかな」


 僕の不安に、彼女はそっと寄り添ってくれる。

 すぐそこで聞こえるぽつぽつとした囁き声が心地良い。


「穂花も眠れない?」

「私も何だか緊張しちゃって」

「穂花も? ……そっか」


 不安に身体を縮こませる僕を見ていたら、穂花にも暗い感情が伝播してしまったのかもしれない。彼女もきっと色々なことが頭の中を巡っているんだろう。

 

 その中に、僕に対する心配や期待もあるのかな。


「合格しなくちゃって思うと、どうしても落ち着かないな」

「誠太なら絶対大丈夫。不安に思うことなんて何もないよ」


 自分のことのように堂々と言い切ってしまう穂花。

 僕が不安がる度に彼女は何度もそう言ってくれた。


 その絶対的な信頼に、ほん少しだけプレッシャーも感じてしまうけど。

 ずっと傍で支えてくれた彼女の言葉は、根拠のない慰めなんかじゃないって分かるから。やっぱり、嬉しい。

 言葉は胸の奥まで沁み込んで、強張った想いを解してくれる。


「そうだ。前向きな言葉を口にしてみるといいんじゃないかな」

「前向きな言葉?」

「そ。そうしたら、気持ちも明るくなると思う」

「そんなプラシーボ効果みたいな……」

「いいから。私が言う言葉を誠太も復唱してみて?」

「わ、わかった」

  

 そんな暗示みたいな提案をして、穂花が小さく息を吸う。

 僕も水は差したけど、気持ちはちょっとワクワクしていた。


「絶対大丈夫」

「……絶対大丈夫」

「今まで通り。いつも通りに」

「……今まで通り。いつも通りに」


 諭すような優しい声音。

 僕を奮い立たせる力強い言葉。

 

 僕のために紡がれるメッセージを、口の中で噛み締めるように繰り返す。

 

「周りの人達はみんなじゃがいもだから」

「周りの人達はみんなじゃがいもだから」


 そうしたら彼女の想いで、身体中が満たされて。

 鳩尾の辺りから確かな熱になり、指の先まで広がっていく。


「誰にも負けない」

「誰にも負けない」


 そのエネルギーを留めるように、穂花の手が、僕の背中にそっと触れた。

 

「あなたが一番だよ」

「でも、君には敵わない」


 彼女の心模様は、僕に心の在り方を教えてくれる。

 小さな手のひらは、向かうべき道を示してくれる。

 紡がれた言葉は、きっと、何年経っても色褪せない。

 

「あ。ルール破った」

「ははは。つい思ったことが口に出ちゃった」

「まだ途中だったのにー」

「ごめんごめん。続けてもらってもいい?」

「それじゃ繰り返してね? 穂花は今日も可愛いな」

「穂花は今日もかわっ……。おい?」


 こんな温もりと愛情に満ちた空気の中。

 どさくさに紛れて、穂花がとんでもない台詞を混ぜ込んでくる。

 完全に油断していたから、誘導されるままに口を動かしてしまって。

 そんでのところで言葉を区切ると、彼女は悪役みたいな悪い声を漏らしていた。


「惜しかったなぁ」

「……聞いてた話と違う」

「ちぇっ」

「舌打ちは止めろ」

  

 思い通りにいかなくて、露骨に悪態をついている穂花。

 表情は背中側にあるから見えないけれど、不貞腐れている様子が容易に想像できて、思わず小さく苦笑してしまった。


 勿体ぶるようなことじゃない。

 本当なら何度でも言ってあげるべき言葉だって分かっている。

 でも、それは、もっと適切なタイミングで伝えたい。


 誤魔化せば有耶無耶に出来てしまう。

 さっきのような誘導に甘えてはいけないのだ。


「……ふっ」


 それにしたって、緊張で錯乱している時に、仕掛けてこられるとは考えもしていなかった。やり方があんまりにも強引で驚いたけど、そんな茶目っ気を見せる強かさも、今は彼女らしいって思える。

 

 その気丈さが、元々彼女の中に眠っていたモノなのか、この一年間で芽生えたモノなのかは分からない。でも、今の僕達が変わったのだとするならば、それはきっと、互いに影響し合ったからで。


 僕の変化は彼女のおかげ。

 彼女の変化は僕の仕業だ。


 そうやって、混じり合ったから。

 彼女はこんなにも簡単に、僕のいつも通りを取り戻してしまって。

 挑戦することへの勇気を与えてくれる。

  

「……元気でた?」

「出た。穂花のおかげさまでね」

「私。誠太の役に立ててる?」

「いつだって君には助けられてばかりだよ」

「ほんとかなぁ……。私は。そんなことできてる自信ないや」


 僕の言葉を、そのままの呑み込んでくれない彼女。

 その声は尻すぼみに小さくなって、静寂の中に溶けていく。

 

 ここに来る道中でも、穂花は迷惑になっていないか不安がっていたっけ。


 そんなのは杞憂だ。

 道に迷った僕の手を引いてくれたのは、他の誰でもない。君じゃないか。

 

「……穂花がいてくれなかったらーー」


 どんな難解な言葉を使ったら、想いがありのままに伝わるんだろう。

 どれだけの文章を綴れば、的外れな彼女の不安を、取り除くことができるんだろう。


 いっそ辞書でも用意して、この気持ちを夜明けまで語り尽くしてやろうか。

 それもいいなと心惹かれはするけれど、僕達は言葉を交わすことで、分かり合えるって知っているから。難しい漢字も。小洒落た感想文も必要ない。

  

「今もドキドキし放しで。眠れなくて。いよいよ参考書とか開いてたと思うよ」


 ただ、素直な気持ちを言葉にするだけでいいんだ。

 それだけで、お互いを想い合う。大事な心を交換できるから。

 

「誠太ならやりかねないから。大袈裟だって言えない……」

「そうでしょ? 穂花が居てくれなかったら大変なことになってたって訳さ」

「あのね誠太。それは自信満々に言うことじゃないんだよ?」

「ははは。いつもありがとね。穂花」

「……お礼を言われるようなことじゃないけど。ただーー」


 そこで穂花は一度言葉を区切った。

 息遣いさえ聞こえない沈黙に焦らされて、五感が敏感になっていくのを感じる。

 待ちきれずに「ただ……?」と続きを促したら、背中に触れていた手のひらの感覚が、細長い一本の指になって、次いで僕の耳元に甘い声色が響いた。


「誠太は私と一緒にいてもドキドキしないんだね。ふぅーん」


 ……日本語って難しいなぁ。

 考えなしに素直な気持ちを表現するだけでは、こんなにも捻じれ曲がった解釈を招いてしまう。いや、こういう場合の多くは穂花のいじわるなんだけど。


「また誤解を招く切り取り方を……」

「モテモテの誠太は、女の子と同じベッドに寝ることにだって慣れてるんだねー」

「……慣れてる訳ないだろ。こんな状況。漫画でしか見たことないって」

「どうだかっ」

「いてっ。なんで信用無いのかなぁ」


 一体彼女は、僕の何を知っていると言うのやら。


「今も……。めちゃくちゃドキドキしてるよ。でも、それ以上に安心するんだ」

「私は、もう少しドキドキの方が勝ってて欲しいけど」

「こういう時に取り乱すのは格好悪い気がして」

「誠太は格好悪くなんてないよ。……とっても格好良い」

「……そう言いながら、背中にばかとかヘタレって書くの辞めてくれないかい?」

「ばれてた」


 それさえなければ、素直に喜べそうだったんだけどなぁ。

 

「危ない危ない」

「いや、バレてるんだって」

「もっと凄いこと書こうと思ってたからセーフなんですっ」

「そ、そうか……。それは、ちょっと聞きたくなかったかも」

「なんて書いたか当ててみる?」

「普通に傷つくから止めてください……」

「だって、目の前に落書きできるスケッチブックがあるんだもん」

「人の背中を何だと思ってるんだ」

「次はなんて書こうかなー」

「やめろやめろ」


 このままだと更なる悪口に見舞われそうなので、壁に向かっていた体勢を直し、天井を見上げる。これで穂花専用のスケッチブックは封印したのだが、今度はおもむろに肩の辺りを引っ張られた。


「ん?」


 呼ばれるままに顔を向ければ、暗がりの中でも彼女の表情は、はっきり見えて、


「やっとこっち見た」


 上目遣いにふにゃっとはにかむ。

 その時に柔らかく細めたつぶらな瞳が、見惚れる程に綺麗で。

 僕の視線は抵抗することもできず、吸い込まれてしまう。


 こんなにも間近に穂花を捉えたのは、文化祭の時以来だろうか。

 あの時よりも更に可憐になった彼女を目の前にすると、取り繕っていた平常心も虚しく散って、唾液を飲み下す嚥下音が、やけに大きな音量でこだまする。


 この濁音が穂花に聞こえたのかと思うと非常に居た堪れないけれど。

 それでも、目を逸らそうとは思わなかった。

 

「こっちの方がドキドキしてくれる?」

「……心臓の音が、うるさくって仕方ないよ」

「ふふっ。嬉しい」


 そうして、穂花が何の憂いも見せずに、そんな反応を見せるから。

 これ以上先へ踏み込みたくなって、肩に触れた小さな手に、僕の右手を重ねて、握る。そうしたら穂花も、僕の想いに応えるように手のひらを翻して、互いの指の感触を確かめながら指と指を絡め合わせた。


 固く結んで。決して解けることがないように。


「穂花の体温はいつも高いね」

「よく眠れそうでしょ?」

「きっと。朝までぐっすりだな」

「それも。私のおかげ?」

「そうだよ? 穂花のおかげさ」

「……やったっ」


 安心感と高揚感と。微睡みに落ちていくような優しい時間。

 その全てが愛おしいから。

 この瞬間だけで終わせたくはなくて。


 僕は、彼女に未来を求める。


「今日のお礼は、また改めてするつもりだから」

「……え?」


 幸福なたった一瞬を。永遠に続けるための約束をしよう。

 その一歩目は、いつか届けられなかった。デートのリベンジでもいいのかな。

 

「いつでもいいように予定を空けておいてね」

「で、でも。わ、私が無理やりついてきただけなのにお礼なんて……」

「でもじゃない。そんなんじゃなくて。ありったけの我儘を言って欲しいんだ」


 ちっぽっけな僕が出来ることなんて限られているけど。

 それでも、君の願いだったら。どんなモノだって叶えてあげたい。


 僕は多分。振り回されるくらいで丁度いいから。

 気遣いや遠慮なんて考えずに、思い切りの贅沢を叫んで欲しい。

 

「……あのね」


 想いを手のひらから伝えて。

 穂花が、ゆっくりと口を開く。


「駅前に新しい喫茶店ができててね」

「うん」

「まだ行ったことなくて。外から覗いただけなんだけど。凄く綺麗なお店で」

「うん」

「……誠太と行ってみたいなって思ってて」

「行こうよ。今度二人で」

「いいの?」

「勿論」


 断る理由なんてない。


「他にも沢山予定考えてさ。一日中遊ぼうか」

「二人っきりで一日中?」

「日が昇って。暮れるまで。ずっと」

「……うん。とっても楽しみ」


 その日を万全な状態で迎えるために。

 今日は死力を尽くす。

 僕を急かす焦燥感は、遥か彼方に消えてくれた。 


「大事な約束ができてよかった」

「うん。すっごく幸せな夢が見れそう」

「あ。そういえばアラーム付け忘れた気がする」

「だいじょーぶ。私が起こしてあげるって言ったでしょ?」

「穂花がモーニングコールしてくれるの?」

「一回目で起きなかったら耳元で叫ぶからね?」

「えぇー。もっと優しく起こして欲しいけどなぁ」


 そんな冗談を最後の最後まで言い合って。

 僕達は同時に、重たくなった瞼を閉じる。 


「おやすみ」

「おやすみなさい」


 ただ温かい。幸せに浸って。





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