40『甘い誘惑』
40『甘い誘惑』
「……」
心の奥底に潜む劣情によって大失態を犯してしまった僕は、精神的なダメージに打ちひしがれてベッドに横たわり、今一度自分自身の精神を落ち着かせるために、イヤホンを両耳に嵌めて、宇宙の音に耳を傾けていた。
日常的に聞くことのない音は、何処か得体の知れない恐怖感が存在しつつも、同時に神秘的な崇高さがあって、不思議と没入してしまう。浴室から漏れ聞こえてくるシャワーの音さえなかったら、このまま寝落ちしていたかもしれない。
いや、断じて聞き耳をたてている訳ではなくて、勝手に耳に入ってくるのだ。
僕は何も悪くない。
聴覚に異常を来すレベルで音量を上げれば、全ての物音を遮ることができるとは思うけど、そこまでしないと意識外に追い出せないというのも情けなかった。
因みに、今は滅茶苦茶意識していて、何にも手が付けられていない状況である。
「……普段は抑えられるんだけどな」
人として持っていて当然の感情は、僕には少しだけ縁遠く。
どう取り扱えばいいのかが、さっぱり分からない。
決して、そういうことに嫌悪感がある訳ではないし、硬派ぶってスカしていたい訳でもない。だけど、僕にはどうしても慎むべき感情だって思えてしまう。
これもきっと、あの人に植え付けられた鎖の一つなんだろう。
捻じれた価値観を、他人に当て嵌める程拗らせてはいないけれど。
大切なモノを壊す引鉄だと知ってしまったら、自然と関心からは遠退いた。
それでも、完全に切り離すことはできなくて。
今にして思えば、何かに没頭する癖も、それを自覚しないようにするための防衛措置だったのかもしれない。毎日疲れ果てるまで何かに打ち込み、限界が来たら泥のように眠る。そうしていれば、難しいことは何も考えなくてよかった。
自分を顧みない生き方は楽で。
だからこそ、いつまで経っても変われない。
猪突猛進に生きれば、当然身体も壊すに決まっている。
無謀で、独りよがりな生き方を何年も貫いてきて。
ようやくその考えを改めるようになったのは、無理ができなくなったからかな。
最近は厳しいお目付け役の人がいて、無茶をすると怒られてしまうから。
ベッドに入って、眠りにつく前に色んなことを考えている。
過去の過ちや。未来への期待。
その中間にある。この瞬間のことも。
今日は、疑いようもなく二次試験の当日で。
これに合格することができたら、僕は四月から大学生になる。
長い道のりを踏破しても、ゆっくり過ごす余裕はない。
春休みになれば、一人暮らしをするための物件探しや、引っ越しの準備をしなくてはいけなくて。荷物で溢れ返った自分の部屋も片付けないといけないだろう。
雑多な物が積み上げられた僕の部屋を整頓するには、かなりの時間が必要だと思うけど、溜め込んできた色々な記憶が、今なら手放せるような気がした。
そう思えるようになったのは、間違いなく穂花のおかげだと思う。
過去はどうしたって、やり直すことはできないし。
消し去りたい記憶も、都合よくは忘れてくれない。
いつまでもしこりになって残り続けて、ふとした時に痛くなる。
でも、たったそれだけのこと。
傷付いたのは、幼かった日の僕で。
苦しかったのは、これまでの僕だ。
これからの未来は、僕自身の意思で変えることができる。
もう思い出には、囚われない。
鎖も。重荷も。全て振り解いて、生きて行く。
「その時に……」
そうして、見知らぬ道を行く時に、彼女が隣りに居てくれたら。
何よりも心強いけど、それを願うのは癇癪にも似た身勝手な我儘で。
軽はずみには伝えられない。探るような狡さでは、また間違えてしまう。
今日みたいな成り行きではなく。
何かを代償にするような責任を負いたい。
そうするために、あと幾つの選択を超えればいいんだろう。
「うーん……」
考えれば考える程。思考は沈むように埋もれて、寝そべった体勢で腕を組む。
どうしたものかと唸り声を発し、寝返りを打った。そのタイミングで、
「なにしてるの?」
あまりにも唐突に、穂花の声が頭の中で響いて聞こえてきた。
気付くと、いつの間にかシャワーの音は止まっていて、彼女の気配をすぐ近くに感じる。だから、その姿を確認しようと堅く瞑っていた瞼を持ち上げて。
探す必要なんてなく、開いた視界一面に、熱を帯びた穂花の顔があった。
「……」
「ん?」
「……宇宙の一部になってた」
「なにそれ?」
彼女は僕の目の前で小さく笑って、答えを聞くなり立ち上がる。
そうして見えた格好は、ホテルのパジャマ姿に変わっていて、ワイシャツタイプの襟元からは、内側に着ている借り物のスウェットが覗いていた。
そのスウェットの首元もよれているので、穂花にはやはりオーバーサイズなのだが、彼女に不格好を気にした様子は微塵もなく、卓上鏡で自分の姿を確認すれば、満足そうに微笑んでいた。
僕は、そんな安堵し切った表情は浮かべられそうにない。
袖口に隠れた指先が。そこだけ不自然に細い腰周りが。
どうしたって僕に、彼女が華奢な少女だってことを認識させてくるから。
橙色の照明に照らされる輪郭は、普段よりも繊細に彼女を映す。
まるで、壊れ物のように儚い。
「眠い?」
ベッドの端に腰を下ろし、首を傾げる彼女。
僕の状態を見たら、眠ろうとしているように見えたかもしれないけど、こんな時間になっても意識は冴えていて、今も頭は煩いくらいに働いていた。
「まだ眠くないんだよなぁ」
「でも、寝ないと。明日も早いよ?」
「……穂花はもう寝る?」
「うん。今日は疲れちゃった」
脱力したように項垂れる姿は、何も大袈裟なんかじゃない。
事前に準備をしていない分、彼女の疲労感は僕よりも大きかっただろう。
「それじゃ、寝ようか。えっと、髪は乾かした?」
「乾かしてるよ。ドライヤー使ってたんだけど、聞こえてなかったんだ?」
就寝の準備を促そうとして、目を丸くした彼女の言葉に虚を突かれる。
そんな物音にも気付けないくらいに、没頭していたとは思わなかった。
「……考え事しててさ」
「どんなこと?」
「それは……、言えないかな」
「そっか。私。今日は床で寝るね」
「ちょっと待って? なんで今肩を抱いて、ベッドから離れたの?」
僕の返答を聞いた穂花は、そそくさとベッドから離れていく。
自分の身体を大事そうに抱き締めて、遠巻きに僕を窺う彼女は、明らかな警戒心を抱いていて。いつもと変わらない雰囲気だったから油断していたけど、全然そんなことはなかったらしい。しっかりと信用を失っていた。
未来への期待に心を躍らせるより、今信頼を取り戻すことが重要だ。
例え冗談でも、一瞬で開いた距離感に、胸の奥がキュッと縮む。
「違う違う。さっきのも疚しい気持ちがあった訳ではなくてね?」
「私は別に。さっきの話はしてないけど」
「うっ。い、いや。もし誤解されてたら嫌だなぁって思ったから」
「へぇー。誤解なんだ。ふーん」
「……怖い」
彼女との距離は遠いのに、どういう訳か圧迫感が凄まじい。
誓って不埒な考えはなかったって言えるが、その主観を証明するのは難しく、急かされるままに弁明をし始めたら、寧ろ墓穴を掘ってしまいそうだった。
言葉を重ねれば重ねる程に、肩身が狭くなっていく未来が見える。
そうなると、何を言っても逆効果という訳で。
そもそも、彼女が今着けているであろう下着をこの目で探そうとしたことは確かな訳で。そこを問い詰められれば、僕は何も否定することなんかできない。
きっと、下手くそな嘘は簡単に見抜かれてしまうだろう。
何をしようとも八方塞がり。
こういう時は、いっそ余計なことは言わずに、日を改めたいところなのだが。
今の状況を鑑みると、そういう逃げ方もできそうになかった。
なにせ、今晩はこの部屋で二人きり。
ベッドだって、たったの一つしかないのだから。
「怖いなんて酷いなぁー」
言葉では悲し気な素振りを見せる穂花も、嘘泣きする姿はあまりにも堂々とし過ぎていて。怖がっている様子も、怒っている空気感も、一切感じられない。
ただ、僕を揶揄おうという意思が見え隠れしているだけ。
それが、彼女なりの優しさなのか、はっきりしない僕に呆れてしまったのかは分からないけど、お咎めなしで許してくれるなら、彼女の厚意に甘えよう。
そして、目を背けていた大事な話も、そろそろ始めなくちゃいけない。
「……因みにさ」
そう切り出すと、彼女は僕の思考を盗み取るように目を細めて、首を傾げた。
「なに?」
「僕に対して色々と思うことはあるかもしれないんだけど……」
「うん。沢山あるね」
「た、沢山あるのか……。そっか……」
「それがどうかしたの?」
図らずも新たに発覚した不安要素に動揺してしまうけれど、それを整理する時間は今日のところはなくて。彼女に先を促されるまま、言葉を続ける。
「君が床で寝るのはダメだ」
ここまで連れ添ってくれた優しい少女を、ぞんざいに扱うことなど許されない。
至極。自然な意見でだろう。
「……ベッド使っていいんだ?」
「勿論そうだよ」
「誠太はどうするの?」
「僕はーー」
「床で寝るなんて許さないけど」
だけど、それは穂花も同じで。
僕が言葉を発するよりも先に、予防線を張られてしまう。
初めから床で寝るという選択肢は選べないようになっているのだ。
「穂花が許してくれるなら、僕もベッドで寝てもいい?」
「……うん。床で寝たりしたら身体痛めちゃうもん」
「ありがとう。それじゃ、穂花は僕のこと。信用してくれてるってことだよな」
彼女の優しさにつけ込み、卑怯な要求を試みる。
僕への信用が欠けていないことは、今の言葉で確認できた。
僅かに頷いた仕草の通り、僕の愚行は許されたのである。
「いやぁ。よかったよかった。それじゃ、さっきまでのことは全部水に流そう」
隣りに置いてくれると言うのだから、全てチャラにしよう。
そんな小癪な主張を理解し、穂花の眉がピクッと動いた。
「……なるほどね」
一瞬で僕の思惑を看破し、彼女の表情に、ピリッとしたスパイスが混ざる。
「ふぅーん。そういうことするんだ」
そのやり方は気に入らないと、頬が膨らみ、瞳までもが細くなる。
「……いいよ。私怒ってないもん。誠太を困らせたい訳でもないし」
「お、おぉ……。それならよかった」
「誠太がエッチなことなんか考えてないって分かってるもん」
「う、うん……?」
あれ。何だか雲行きが怪しくなってきたな。
よく分からない方向に、彼女の不満が爆発している。
「無防備な入浴中“ですら”覗きに来ないしね」
「で、ですら……?」
「隣りで寝てても、“どうせ”何もしてこないんでしょ」
「えっと……。本当にその言葉選びで合ってる?」
何だか。失望されたと錯覚しそうになるんだけど……。
僕の感覚が間違えてる?
「下着は見ようとした癖に」
「いや。あの。それはもう水に流そうって……」
「私の……。ーーには興味ないんだ」
「あー! あー! 聞こえない聞こえない!」
ついに暴走を始めたので、声を目一杯張り上げて有耶無耶にする。
本当にこれ以上はよろしくない。
「ほらほら。もう一時になるから。早く寝ないと!」
「……ふん」
鼻を鳴らして、不機嫌さを隠そうともしない穂花。
そのぷくっと膨れた顔のまま彼女はずんずん進んできて、そのままの勢いでベッドに飛び込んできた。
「うおっ!」
「早く詰めてよ」
「わ、分かったから押すなって」
「はやくはやくはやくぅ」
遠慮なく腕やら脇腹やらをぐいぐい押されて、壁際まで追いやられる。
そのまま半分以上のスペースを確保した彼女は、僕の方に身体を向けながら横向きに寝転がった。
「……」
「……」
じとっとした視線が痛い。
そんな顔で見ないでくれ。
「あの……。一応。間に鞄とか置いておこうか?」
「そんな面倒くさいことしなくていい」
「う、うっす。すいません」
「寒いから早く布団掛けてよ」
「は、はい。僕も横になりますなります」
急かされるままに仰向けに寝転んで、掛け布団を肩まで上げる。
穂花がベッドの中心部分を占領しているから、僕が全力で壁際まで寄っても微かに肩が触れていて。それだけ近い距離になると、いつもとは違う柑橘系の匂いが、完全に嗅覚を支配して、心臓の鼓動を一気に早めてしまう。
「……っ」
こんな状況で平常心を保つなんて不可能だ。
どれだけ誤魔化そうと、彼女の気配を直に感じる。
少なくとも視界には入れないように、壁に向かって寝返りを打ちはするけど、彼女の声を遮る手段は何もなくて、
「何かあっても事故だから」
溺れそうなくらい甘い声が、鼓膜の奥に響いてきた。
悪戯な囁きを、女の子がするんじゃない。
「でも、寝顔は見ちゃダメ」
「……ばか。はやく寝ろ」
一体全体。どういう羞恥心なんだよ……。