04『慣れてしまった寂しさ』
04『慣れてしまった寂しさ』
夕飯の後片付けを穂花ちゃんに任せ、僕は先にお風呂をいただく。
髪を洗って、身体を洗い。それから湯船に浸かると、一日の疲れが全身から発散していくような感覚に満たされて心地がいい。浴槽の一部に背中を預けて足を伸ばせば、ちょっとした贅沢感を味わうことができた。
このままいつまでも弛緩していたいところではあるけれど、逆上せやすい体質のせいで、長時間浸かっていることはできなくて、子供の頃から進歩することなく、百秒も数えていたら茹で上がったタコのようになってしまう。
ただ、百秒ぽっちでも身体は充分に温まり、逆上せる前に風呂から上がる。
バスタオルで身体を拭き、髪に付いた水滴も払って。
本来なら火照った身体を幾らか冷ますために、肌着の恰好で過ごしたいところではあるのだが、年頃の女の子の前でそうするのは気が引けて、脱衣所でスウェットに着替えてからリビングに向かった。
仮に裸一貫で穂花ちゃんと遭遇したら、間違いなく家族会議が開催される。
父さんと二人で暮らしていた時は、こんな心配が頭を過ったこともなかったけど、これからはそういった気遣いも必要になってくるだろう。
事故なんて起こした日には、ゴミを見る目を向けられてしまうに違いない。
家族内での立場さえ危ぶまれる危険があるので、充分に気を付けなけないと。
普段、穏やかなで女の子らしさのある穂花ちゃんから軽蔑の眼差しを向けられて、平然としていられる心臓の持ち合わせはない。
彼女の入浴中は自分の部屋に閉じ籠っているのが無難である。
そう混み入った決意を固めて、水でも飲もうとリビングに足を踏み入れると、テレビの音声が聞こえてきた。
「……ん?」
賑やかなバラエティの喧騒が響く室内に違和感を覚えたのは、それ以外の音が聞こえてこないからで。電源の消し忘れだろうかと視線を向けてみたら、テレビの前に置かれたソファに座っている穂花ちゃんの姿を発見した。
夕飯の後片付けを終えて寛いでいる。
そんな風には見えなくて、彼女のリアクションはとにかく薄い。
テレビ画面に映っているのはクイズ番組のようだったけど、問題が出ても、回答が出ても、彼女の表情は希薄なまま。芸人がボケてもくすりともせず、心ここに在らずといった様子の彼女は、僕がいることにも気付いてなさそうである。
「お風呂上がったよ」
このまま観察するのは酷く悪趣味だろう。
すぐに背中に声を掛けると、彼女の肩はびくっと飛び跳ねた。
「せ、誠太くん……」
「お湯溜め直してるから。溢れないように気を付けてね」
「うん……。ありがとう」
肩越しにこちらを振り返り、ぎこちなく顎を引く穂花ちゃん。
僕と目が合ってから居住まいを正す仕草が何とも物悲しい。
三人掛けソファーの肘掛け部分に背中を預け、広々としたクッションの上で膝を抱えてちょこんと座る彼女は明らかに窮屈そうだった。
二十時を過ぎても父さん達の連絡はなく、帰ってくるのはもう少し先。
広いリビングの空間を、僕達二人は持て余している。
だから、ソファの一つくらい足を伸ばして広々と使ってくれればいいのに。
彼女はそうなってはくれなくて。気の抜けた姿を見せてくれたりはしなかった。
「ぼーっとしてたみたいだけど……、眠い?」
「ううん。違うの。少し考え事をしてて」
「考え事か。楽しそうな感じには見えなかったけど。何か悩み?」
「悩みとかではなくて。えっと……。その、誠太くんに聞きたいことがあります」
「え? なんだろう……?」
考えてもいなかった言葉を投げかけられて、首を傾げる。
彼女がそんな意思を示すのは初めてではないだろうか。
僕に尋ねたいこと。それが何かは分からないけど、改めて質問があるなんて言われると変に緊張してしまって、今度は僕の背筋がすっと伸びた。
「聞いてもいいですか?」
「う、うん……。どうぞ」
雑談に花が咲きそうな雰囲気はなく、穂花ちゃんの眼差しは真剣で。
テレビから漏れている雑多な音も、この瞬間は何処か遠くに感じた。
「突然ごめんなさい」
「いや。大丈夫だよ」
腰を据えた話かもしれないと、僕もソファーの端に腰を下ろす。
それを待って、ゆっくりと穂花ちゃんが口を開いた。
「誠太くんは、二人が再婚することをどう思ってました?」
「それはまた……、随分と急な話だね」
唐突な問いかけに、質問の答えよりも彼女の意図に思考が働く。
様々な過程を経て到達した再婚という道。
そこに抱く想いを、少なくとも彼女に明言したことはなくて。
際立たせて共有する必要はないと、そう思っていた。
「穂花ちゃんは。……どう思ってるの?」
「……私は、不安なんです」
それは、僕が無意識の内に、二人の選択は祝福されるべきだと考えていたから。
新生活の門出に水を差すようなことはしちゃいけないと課していたから。
おめでとう。よかったね。幸せに。
そう口にした。その言葉は決して嘘じゃない。
でも、“僕達の想い”が、その程度で片付く筈はないのだ。
たった二人で生きてきた。
一番近くでその姿を見守ってきた。
傷付き、ボロボロになった姿は、今でも脳裏に焼き付いている。
「……そうだったのか」
今になって、自らの同調意識が、ある種の脅迫的な主張になっていたことを思い知る。
祝福だけでは言い表せない。
ぐちゃぐちゃの心模様は、今も彼女の胸内で燻り続けていた。
「ふむ」
穂花ちゃんは口数の多い子ではないと思う。
お喋りが大好きで、自ら率先して会話を広げていくような印象は今のところ感じない。まして、自分の彼女自身のことについても多くを語られたことはなかった。
そんな彼女が真剣な眼差しをして、僕の答えを求めている。
答えることで何が生まれるのかは分からないけど。
だからこそ、誠実さが欠けないように、慎重に口を開いた。
「再婚の話を聞いた時は、素直にめでたいと思ったよ」
数か月前。去年の暮れに、大事な話があると切り出されたことは記憶に新しく、けれど、既に懐かしいと感じる感傷が存在している。
あの日からは、四か月。
母の不貞を目にした時からは、六年もの月日が過ぎているんだな。
「うちは、僕が小学六年生の時に離婚したんだけどさ。あの頃に比べれば、結構でかくなったと思う。難しい数式も知恵熱出しながらだったら解けるようになった」
何も知らなかった。
何も気付けなかった。
無邪気で夢見がちな子供だったあの日の僕は、色々なことを知って。
高校三年生になった今、憂いなく大学への進路を進むことが出来ている。
「それは全部。父さんのおかげだ。愚痴も弱音も一言だって聞いたことない。大事に大切にここまで育ててもらった。……でも。父さんは。時折苦しそうで」
深い傷を負っても、それを立ち止まって癒す時間は与えてくれない。
日常は当たり前のように進んで。仕事を、子育てを。完璧に熟せと要求する。
そんな毎日に息が詰まる時もあった筈で。けれど、父さんは、どんな時でも柔らかい笑顔を浮かべ、僕の道標になってくれた。
苛立ち紛れの八つ当たりを受けた記憶は一度だって存在しない。
「だから、今度こそ助け合える人を見つけられたんだなって安心した」
「……不安はなかったの?」
「勿論、全くないとは言わないよ。僕だって、二人のことは心配さ」
「また。悲しい結末になっちゃうかもしれないって思わない……?」
「……どうだろう。僕には、何の保証もできないな」
幸せに笑い合う未来も。
悲しみに暮れる未来も。
どちらになるかなんて、誰にだって分からない。
どうしても知りたいならば、神か悪魔に頼るしか方法はないだろう。
「でも、思うんだ」
これから口にする言葉は、ただ無責任な責任転嫁と淡い期待。
そして、小さな憧れ。
「立ち止まらない道を選んだ二人なら、きっと大丈夫じゃないかなって」
僕は、二人が羨ましい。
へとへとになりながらも、お互いを支え合う姿は酷く眩しかった。
「それに、傍から見ててもお似合いだと思うよ。二人のおっとり加減は」
「それは……、うん。私もそう思う」
再婚する前から義母さんとは何度か会ったことがあって、どんな人なのかは知っていたけれど、初対面の時に感じた穏やかで朗らかな人という印象は今でも変わっていない。
温厚で実直な父さんと、柔らかく調和するお似合いの女性だと思う。
「……やっぱり、誠太くんは良い人ですね」
「え? そうかな? 今ので良い人認定されるのはよく分からないけど」
「変化を怖がらないで、信頼を委ねられる人は芯のある人だと思うんです」
「穂花ちゃんは……、少し難しいことを言う人なんだね」
「……え?」
「傷付けちゃったら申し訳ないんだけど、ちょっとだけ気難しい?」
「あぅ……。ご、ごめんなさい」
「大丈夫大丈夫。僕も君と同じだから」
「誠太くんが……?」
「そうだよ? お揃いだねぇ」
こんなところに共通点があるとは。なんて、冗談交じりに戯けてみせる。
いや、きっと、まだ知らないだけで、僕達はもっと似ているのかもしれない。
踏み込むことをいつまでも恐れていたら、それを知ることはいつまで経とうと叶わないのか。
「穂花ちゃんは、まだ不安の方が大きい?」
「また同じことが起きるかもしれないと思ってしまうんです」
「そっか」
「忘れられない傷がまた増えるなら、夢を見るのは嫌で」
いつか歪んでしまった言葉が、想いが、リビングの床に落ちていく。
悲観的な想いを告白する彼女は、期待することを諦めてしまったのだろう。
「失礼ですよね。これじゃまるで。誠太くんのお父さんを疑ってるみたい」
「そんなことはないよ。穂花ちゃんが悪い訳じゃない」
かつてパートナーに裏切られ、深い傷を負ったのは当人達だけではなくて。
それを目の当たりにした彼女にも影響は及び、その価値観を歪に捻じる。
心を蝕む痛みは、幼い精神では。耐えられず、長い月日を経て正しくない形で固まってしまった。だから、彼女は何一つだって忘れることができていない。
信頼を裏切られた痛みが。去っていく背中が。取り残された悲しみが。
身体の内側に焼き付いて、時間という治療法では癒えずに、生々しい傷痕を残していた。
「いつかそうなるんじゃないかって思うと、怖くて……」
「……」
「もう傷つきたくない。傷ついて欲しくない」
悲痛な叫びを、ぽつりぽつりと繰り返し、
「私には母さんしかいないから。二度と悲しい想いはして欲しくないんです」
穂花ちゃんは、そう締め括る。
傷を埋め合うように強く、固くつながった二人の絆。
それは何処までも真っすぐで、純粋で。そして、ほんの少し排他的で。
その想いを否定する権利なんて僕にはない。
間違えているとも思わない。
ただ、全てを肯定してあげることはできなかった。
受け入れてしまえば、僕らはここで終わってしまう。
「……二度と傷付かないで欲しいと思うのは大好きな人だから」
狭い世界に閉じ籠って穏やかな時を過ごすことは、とても安定的で、ともすれば平和に一番近い選択なのかもしれない。
振れ幅の抑えられた生活は、心がざわつくことも少ないだろう。
でも、それではいつか。どうしようもなく寂しくなる。
僕達は、我慢することに慣れてしまった。
我儘を何も考えずに口にすることはできなかった。
それが、いつの間にか当たり前になっていて。
けれど、それらは全部間違っている。
「僕は、大切な人には、毎日が楽しいって笑って欲しいよ」
どうしようもく溢れ出す身勝手な想い。
やっぱり、僕達はどうしようもなく似た者同士なんだろう。
だからこそ、彼女の言葉には心が打たれる。
「……穂花ちゃん」
思うのは、目の前の少女に悲哀の色は似合わないと言うことで。
もっと笑って欲しい。もっと欲張りになっていいんだと伝えたい。
「君のお母さんは、僕の父親が幸せにする」
僕の人任せな宣言を、彼女は黙って聞いていた。
その表情は少し不安気で、一言で頷いてくれることはない。
穂花ちゃんにとって、幸福は奇跡。
奇跡を証明することなど、僕には到底手が出せそうにない。
「長い時間が掛かるかもしれない。だけど、どうか見守ってあげて欲しい」
だから、僕は僕に出来ることを積み重ねて行こう。
僕らが一つに慣れたことを、後悔してしまわぬように。
「……分かりました」
「ありがとう。あと。もう一ついいかな」
「はい……?」
ソファーに座ったまま、身体を出来るだけ穂花ちゃんに向ける。
改まって姿勢を正すと、彼女は目を丸くして、瞬きを繰り返していた。
奇跡。そんなものは起こせない。
だけど、彼女の笑顔の幾つかになら、僕でも貢献できる筈だ。
そんな烏滸がましい想いを抱いて、小さく座る女の子に手を差し出した。
「僕と友達になってくれませんか」
「友達……? 私が、誠太くんと?」
「嫌?」
「そ、そんなことないっ! です!」
困惑した様子の穂花ちゃん。
そうなってしまうのも無理はない。
なにせ兄妹になった相手から、友達になろうと提案されているのだから。
こんな順序で関係性を結ぶことなど、これきりないだろう。
「それじゃ、友達になってくれるってことだね」
「は、はい……」
「あれ。やっぱり、ちょっと嫌そうだなぁ」
「違いますっ。凄く。すっごく嬉しんです……」
「……そっか。僕もだ」
小難しいことを考えていた。
両親が自慢できるような仲の良い兄妹にならなければいけないと。
でも、そんなのは土台無理な話だったのだ。
僕等には思い出がない。
好きな食べ物も知らないし、趣味も、癖も、長所も短所も、何も知らない。
だから。ここが。僕らのスタート地点。
「改めて。これからもよろしくね。穂花ちゃん」
「はい。お願いします。誠太くん」
「よし。それじゃ。まずは敬語をやめよっか」
「あ、はい。じゃなくてっ! ……うん」
いつか。屈託なく笑い合って。
最高の家族になるための、スタート地点だ。