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ありふれた恋すら、あなたとは。  作者: よせなべ
第五章『知らないことがまだ沢山あって』
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34『唯一の願い』

34『唯一の願い』




「……すん。……すん」


 雑音のない部屋の中で、鼻を啜る掠れた音が、何度も何度も響き渡る。

 

 溢れた涙は突然だったけれど、一筋流れ始めてしまえば、堰を切ったように溢れ出し、彼女の頬に透明な跡を残していく。

 顎の先から切り離された雫は、想いの熱を伴って、僕の手の甲に着地した。


 一粒の涙は熱く。そして、痛い。

 僅かな欠片に触れただけでも、爛れてしまいそうな想いを、彼女はずっと胸の内に抱えていて。それを僕は分かっていたのに、気付かない振りを続けてきた。


 僕の態度は、素振りは、彼女に我慢することを強制していたんだろう。

 笑顔でいて欲しいと望む僕自身が、誰よりも彼女のことを苦しめていたんだ。


 本当は、もっと早く抱えた想いを叫びたかった筈で。

 僕はこうなってしまう前に、諦めなければいけなかった。

 変わらない日常を演じ続けていれば、彼女との関係は終わらないなんて。


 そんな筈はないんだから。


 身勝手な理不尽に晒され、穂花ちゃんは今。こぼれた嗚咽を噛み殺している。


 こんな未来を望んだことは一度だってなかった。

 それなのにどうして、こんな結末を迎えることになってしまったのだろう。


 僕はただ。微睡むような時間を手放したくなくて。

 これまでの日々を、悲しい思い出にしたくなくて。

 

 もっと確かな。決して壊れないナニカにしたかっただけなんだ。


「……」


 その結果が、この目に映る光景で。

 僕は間違え続けて、ここにいる。

 そうしてきた間に、正しい生き方さえも分からなくなってしまった。


 情けない。こんな所でも僕は迷子になっている。


 自分が何をしたいのか。

 そんな簡単な答えですら、導き出すことが叶わない。

 進むべき道導を失って、同じ場所を彷徨い歩く。

 

 それが間違いではないと。

 思考を止めた僕は、どうしようもなく世話の掛かる子供だった。


ーータイミングがなかった。

 

 そんな言葉は、真っ赤な嘘だ。

 時間を作らなかったのは、紛れもない僕なんだから。


ーー聞かれなかったから。

 

 そんな言い訳。

 彼女の想いを踏み躙った証明にしかなり得ない。


 全ての責任は僕にあって。

 彼女に拒絶されてしまえれば、この関係は終わりを告げる。


 それなのにーー。


「……ごめんね」


 どうして。なんで。

 この子が謝っているのだろう。


「泣くつもりなんて、なかった、のにっ」

「……穂花ちゃん」

「ごめん。ごめんね」


 嗚咽交じりの声で。悲痛に耐える顔をして。

 それでどうして。傲慢な僕を思い遣ることができるんだ。

 優しく触れてくれるんだ。


「……違うよ。君は何も悪くない」


 一つたりとも。欠片たりとも。

 穂花ちゃんは悪くない。


 彼女が、僕に悪意を向けたことなんて一度もなかったじゃないか。

 情けなく逃げ回ってばかりの僕に、寄り添ってくれたじゃないか。

 

 頭を下げないといけないのは、絶対に君じゃない。

 

「……僕が。弱いせいなんだ」


 大きな痛みを避けようとして、何度も同じ失敗を繰り返してきた。

 そうやって、いつしか大切なモノを履き違えて。

 取り返しのつかない場所で、僕は何をすればいい。


 ガラガラと何かが崩れ落ちていく地鳴りのような音が聞こえる。

 これは、彼女との関係が崩壊していくことを告げる警笛だろうか。


 そんなのは……、イヤだ。

 

 あぁ。何処までも身勝手な自分に嫌気が差す。

 痛みに心が締め上げられて、被害者面をする自分が嫌いだ。

 

 でも、それこそが、加地誠太という人間で。

 飾り付けた仮装を全て取っ払ってしまったら、僕はこれ程までに歪んでいた。


 こんな人間が傍に居ると、彼女は再び涙を流してしまうだろう。

 そうして僕はまた、過去に囚われた自分を呪い、大切な人の傍を去る。

 僕では彼女に相応しくない。そんな知った様な口をきいて。


 今だって、心は逃げ出したいと叫んでいた。

 それを許さないと縫い留めてくれたのが、穂花ちゃんのひ弱な右手で。

 ありのままの僕に触れた小さな手のひらは、温かく、優しい。


 僕を断罪するためでも、追い詰めるためでもない繋がりは、凍り付いた心を溶かして、まだここにいてもいいのかと、そんな希望を与えてくれる。


 決して許されることのなかった。二度目の選択。

 

 その答えは、結末に怯えて逃げ出すことでも、つまらない言い訳を並べたてることでもない。眩しい灯火は、僕の行く道を教えてくれていた。


 それでも、僕は。君の想いに応えることができるだろうか。


「……深呼吸をしよう」


 穂花ちゃんの手のひらに、右手を重ねる。

 俯いていた彼女は、びくっと肩を震わせたけれど、僕の手を振り払うことはしなかった。強く握りしめたら、同じだけの力を返してくれる。


「いくよ。せーの」


 大きく息を吸って、ゆっくりと吐いて。

 見本を見せるみたいに大袈裟な動きで実践する僕。

 穂花ちゃんは、困惑しながらも、陳腐な動きを真似してくれた。

 

「すぅー……。はぁー……」

 

 胸に手を当てて、目を閉じて。深く深く息を吸い込む。

 それを何度も繰り返し、上擦った呼吸を整えた彼女は、眠りから覚めたように瞼を持ち上げて。それでも最後に鼻を啜る。

 風邪を引いている時に、消耗させることばかりしてごめん。


 涙はもう流れていなかったけど、瞳は充血していて痛々しい。

 目の下も微かに赤く、腫れぼったくなっている。


「……落ち着いた?」

「うん。大丈夫……」

「そうか。よかった」

「……うん」


 交わす会話はぎこちなく上滑りしていて、すぐに途切れてしまう。

 静寂を晴らす言葉は、窺うような遠慮ではない。

 求められているのは、そんな空気の読み合いではないから、僕はもう一度だけ、彼女には見られないように小さく息を吸い込んで。


「……何から話せばいいんだろ」


 見切り発車で切り出し、気付く。

 彼女に話していなかったことが、こんなにも沢山あることに。 


 大学受験の一件も。

 過去のトラウマも。

 唯一の夢も。


 何一つとして伝えてこなかった。


ーーどうして。教えてくれなかったの?

 

 その疑問に対しての答えは、一言では収まりきらない。

 だって、進路の話を打ち明けなかったことに。特別な理由なんてなかったから。

 

「進路のことは。穂花ちゃんと知り会う前に決めていたんだ」


 全ては彼女と出会う以前に決断していて。

 ただ僕が、知り合って間もない年下の女の子に自分のことを語るような性格ではなかったというだけ。いつかそういう話題が上がった時に話をすればいいと、当時はその程度の気持ちしか持っていなかった。


 いつだったのかな。

 伝えることを怖気づくようになったのは。

 

「去年の十二月のことだから。丁度一年前の話になるのかな。穂花ちゃんにもそろそろ配られるよ。進路希望調査書っていう重々しいタイトルのプリントが」


 たった一枚のプリントに頭を悩ませられた日々から、あっという間に一年が経ったのかと思うと、時が経つのは本当に早い。


 当時は穂花ちゃんの存在は聞かされてはいても、顔を合わせたことはなくて。

 再婚の話が、聞こえ始めていた程度だった気がする。


 僕の進路と。父さんの未来。

 その話について、よく夜も遅い時間に、親子二人で話し合っていた。


「大学を選んだ条件は、学費の安さと。あとは……、県外であること」


 父さんには伝えている。

 僕が、未だに過去の出来事が清算できていないことを。


「志望校に選んだ大学に特別な思い入れは実の所ないんだ。どうしても学びたい分野がある訳でも、校風に感銘を受けたとかでもない。……ただ、僕のことを誰も知らない。景色すらも見たことがない。そんな場所に行ってみたかった」


 不純な動機だろうか。

 こんな大学の選び方をする奴は、もしかすると少数派なのかもしれない。

 普通なら。何処かで誰かが止めている。

 それくらい向こう見ずな挑戦だった。


「そんなに、“ここじゃない”ことが大切なの?」


 独白のような僕の言葉に穂花ちゃんの声が混じる。

 目を合わせた彼女の表情は希薄で、理解に苦しむ悲痛さがあった。


「ここは色んな記憶が残ってて……。時々身動きが取れなくなる」


 大事な時ほど思い出して、僕を呪う。

 そんな過去の出来事も、この子は知らない。


「……嫌の思い出?」

「もう何年も昔のことなんだけどね。何年経っても割り切れないんだ」

「その話も聞いてない」

「……知らなくていい。胸焼けするような話さ」


 僕が否定的に窘めると穂花ちゃんが物言いたげな表情を作る。

 これも僕の我儘だ。けれど、彼女の耳には入れたくない。


「それでも、私は……」


 それをきちんと伝えなければ、すれ違いを起こしてしまうから、間違えてしまわぬように言葉を選ぶ。


「少なくとも今は言わない。いつか。僕の中で整理ができたら」

「……分かった」


 渋々と言った様子で、頷いてくれる穂花ちゃん。

 ありがとう。隠し事ばかりでごめん。


 せめて、これから伝える言葉に嘘はないって誓うよ。


「進路のこと。ずっと黙ってて。本当にごめん」


 一番最初に言わなくちゃいけなかった言葉をようやく言えた。

 ほんの少しだけ心が軽くなるけれど、謝罪一つで許された訳じゃない。

 言葉は幾ら尽くしても足りないのだ。

 

「終わっちゃう気がしたんだ。お別れが決まってる関係は」

「え?」

「いつかさよならするって分かっていたら。仲良くなろうとは思わない」


 終着駅が決められている関係に未来はないと。

 そんな理由で隠して、誤魔化した。あんまりにも幼稚な考えである。


「それって……」


 白状した想いに穂花ちゃんが息を呑み込んでいた。

 何度も瞬きを繰り返して、僕の小指を握る力が僅かに増す。

 それだけで彼女の動揺が伝わってくるから、胸の奥がさざめき立つ。


 続く言葉は、何か。


 例え。失望に近い感情を抱かれても、最後まで聞こう。

 だから、耳は塞がず、目も逸らさず、穂花ちゃんを見据えてーー。


「誠太くんは、私ともっと仲良くなりたかったってこと?」


 全く予想していなかった言葉が返ってきた。


 何か着眼点がズレているような気がするけど、彼女の表情は至って真剣で。

 詳細に翻訳されてしまうと、罪悪感とは別に羞恥心に似た感情が湧き上がる。


「……そうだよ」


 それでも、照れくささをかなぐり捨てて、はっきりと頷いた。

 そうすると、僕ではなく穂花ちゃんの方が顔を背けてしまう。


「そ、そうなんだ……。誠太くんは、私と仲良くなりたかったんだ……」


 もごもご呟きながら、チラチラと視線を向けてくる穂花ちゃん。

 そういう反応をされたら、どうしたらいいのか分からない。

 

 特にこの状況では。


「ふ、ふぅーん」


 ただ、突飛な発言のおかげでもあるのか。

 部屋の中の空気が僅かに和いだ気がする。 


 子気味よく鼻を鳴らす音に緊張の糸が途切れて、彼女の声だけを拾おうとしていた聴覚が、家の近くにある踏切の音を捉えた。

 

 気が付くと彼女の部屋を訪れてから一時間近く経過している。

 決して長い時間ではなかった筈なのに、普段通りに近い彼女を見たのは凄く久しぶりで、胸を撫で下ろしてしまった僕の胸に、


「なのに。泣かせたんだね」


 極めて殺傷能力の高いナイフが突き立てられた。


「ぐぅっ」

「ばかせいた」


 起伏の激しい情緒に、僕の感情も追いつかない。

 このままだと諸共ぐちゃぐちゃにされてしまう。


「ずるせいた」

「いや。本当に……。申し開きのしようもないです……」

「にげせいた」

「色んな誠太が迷惑かけてごめん……」


 あと何個くらい出てくる予定なのだろう。

 耐えられるのは三つが限界で、これ以上は心が持ちそうにないのだが。


「ごめんなんて言ったって。志望校を変えるつもりはないんでしょ?」

「それは……。まぁ、うん」

「ほら」

「この挑戦を。諦めたくはないから……」

「はいはい。知ってますよーだ」

「……ごめん」


 いじけたように言って、穂花ちゃんが口を尖らせる。

 分かっていると言ってくれるのが嬉しくて、同じ分だけ心が苦しい。


「誠太くんは、大学でやりたいことないの?」

「……やりたいこと?」

「うん。大学に関係なくてもいいけど。やってみたいこと」


 勉強のためでも。将来のためでもない理由で大学を目指す僕のしたいこと。

 それは例えば、サークル活動とか。初めての一人暮らしとか。バイトとか。

 考えつくだけでも沢山あるが、未知過ぎて僕にはあまりイメージが湧かない。

 

 来年の僕は、何に打ち込んでいるんだろう。


「うーん」

「ないんだ」

「……いや。ある」

「え? なに?」


 未来のことは分からないけど、今の自分のことであれば分かる。

 

「僕は、恋をしてみたい」


 その誰にも伝えたことのない想いは、自分でも驚くほどに鮮明で。

 まるで告白をするみたいに、思いの丈を宣誓した。

 

「誰かのことを思い切り好きになってみたいんだ」





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