33『体調を崩すと幼児化するタイプ』
33『体調を崩すと幼児化するタイプ』
「けほっ。けほっ。……誠太くん。お水取って欲しい」
「ほら。今は汗も掻いてるから。こっちにしときな」
「ありがとう……。美味しい」
スポーツドリンクが入ったマグカップを傾け、穂花ちゃんがか細い息を吐く。
額に冷却シートを張り付けた彼女は、誰がどう見ても病人のそれで。
体温は三十七、七度。
微熱というには少し高めの熱があり、咳と鼻詰まりの症状も出ていた。
少しボーっとしているように見えるのは、倦怠感もあるからだろう。
「今。母さんがおかゆ作ってくれてるから」
「あんまり食欲ない……」
「でも、薬は飲まないと。多少は胃に何か入れといた方がいいよ」
「うん……。分かった」
「薬飲めば。きっと楽になる。だから、頑張ろう」
色々な症状が重なっているせいか、傍目にも辛そうなのが伝わってくる。
ただの風邪だと診断されたみたいなので、安静にして、薬を飲んでいれば、すぐに体調も回復してくると思うけど、普段彼女の弱弱しい姿を目にすることがないのもあって、目を離した隙に悪化してしまうのではないかと。そんな不安が消えてくれない。
「……誠太くん?」
「ん? どーした?」
「迷惑かけてごめんなさい」
しおらしく、いつにも増して殊勝な穂花ちゃん。
そこまで素直に謝られると、薄着で過ごしたツケだと揶揄うことも憚られ、努めて柔らかい表情を作ることしかできないが、これで彼女を少しでも励ませるのであれば、それでいい。辛そうな姿は、見ていて堪える。
「いいよ。僕は、穂花ちゃんがしてくれたことのお返しをしてるだけだから」
「えへへ。よかった……」
ふにゃっと力なく微笑む笑顔は、ずっと幼くて。
久しぶりに彼女が年下の女の子であることを実感した。
最近の穂花ちゃんは逞しく、頼り甲斐のあることの方が多かったから。
ふと脳裏に浮かぶ、出会ったばかりのたどたどしかった彼女が懐かしく感じる。
「準備ができるまで少し寝る?」
「ううん。寝ない」
「病院行って疲れたでしょ?」
「車の中で寝てたから」
「そっか……。それじゃ、寝ろって言われても難しいな」
今日は、期末試験を終えた直後の週末。土曜日。
朝から体調を崩していた彼女は、父さんに連れられて病院に出掛けていたけど、帰って来るのには随分時間が掛かっていた。きっと、今日は休みの日だったので、診察してくれる病院が家の近くになかったんだろう。
体力を消耗した状態で車に長時間揺られるのは、それだけでも充分に疲弊してしまいそうだが、彼女は眠りたくないらしい。
その気持ちは、痛い程よく分かる。
一人だと心細いんだ。
「なら……」
自分が体調を崩した時のことを思い出して、寒気に身を捩った。
それを穂花ちゃんが捉えて、どう解釈したのか悲し気に眉を下げる。
「何処か行っちゃう?」
「一人の方が落ち着けるならそうする」
「やぁーだ」
「……だったら。もう少しここにいようかな」
初めから彼女を一人にするつもりなんてない。
「勉強はいいの?」
「穂花ちゃんが病院に行ってる間に今日の分は詰め込んどいた」
「ほんと?」
「本当。朝の段階で今日は穂花ちゃんの看病する日だって決めてたよ」
「……嬉しい。にへへ」
な、なんだろう……。
今日の穂花ちゃんは年齢よりも更に幼く感じて、うろたえてしまう。
甘えたような喋り方も。
素直に気持ちを伝えてくれる言葉も。
どちらにもドキッとさせられて、心臓の音がうるさい。
「誠太くんは優しいね」
「さっきも言った。僕は、恩返しをしてるだけで。これくらい普通だ」
「でも、最近はいじわるされることの方が多かったもん」
「えぇ……? そうかな? それは流石にお互い様な気がするけど……」
「私は誠太くんにいじわるしたことなんてないよー」
「うーん。熱のせいで色んな記憶が飛んじゃってるかもなぁ」
「へへへ」
風邪を引いていても、僕を揶揄う彼女は非常に楽しそうだ。
いつもの様子とは違っていても、いつもと変わらない笑顔を見せてくれると安心する。このまま彼女が眠ってしまうまでは傍にいよう。
「その上着も自分の物みたいに着てるけど、後でちゃんと返してね?」
「え? 返さなくちゃいけないの?」
「なんで返さなくていいと思ってるんだ?」
「くれたのかと思ってた」
「……どう考えたって、サイズが合ってないだろ。デザインも男物だし」
「でも、この服一枚で済むんだよ?」
「何が?」
「ほら見て。おっきいから太腿の辺りまで隠れるの」
唐突によく分からないことを言い出して、彼女が掛け布団を捲る。
露わになった場所には穂花ちゃんの真っ直ぐに伸びた足があって、僕の座っている位置的な問題で、真正面から肉付きの良いムチッとした太腿を捉えてしまった。
「ワンピースみたいでしょ?」
「……わざわざ見せなくていい。口で説明してくれれば分かるから」
「えぇー? こうした方がちゃんと伝わるのに」
「あと丈が長かろうと下もちゃんと穿け」
「穿いてるよ? ほら」
今見せなくていいと言ったばかりなのに、穂花ちゃんは平然とした顔で裾を掴んで、腰の辺りまでたくし上げる。
僕のトレーナーで隠れていた場所には、きちんとホットパンツが穿かれていたけど、そういう問題じゃない。全然そうじゃない。
そうじゃないんだ……。
「ね?」
「ね? じゃねぇよ……」
呆気に取られて、自然と口も悪くなる。
恥じらいという感情を何処にやってしまったんだ。
薄着のことを指摘した時でも、目に見えて恥ずかしがっていたのに。
「なーにー。誠太くんが変」
「こっちのセリフだ。ばか」
「あ! ばかって言ったぁ! いーけないんだぁいけないんだぁー」
「……まずいかもしれん」
間違いなくテンションがおかしい。
熱のせいで頭の中が混沌としているのだとしても、言動が顕著に子供っぽい。
疑いようもなく、小学生くらいまで精神年齢が退行していた。
体調を崩すと心まで弱って、人恋しくなることは僕にもある。
そんな時は、寂しくなったり、不安になったりするものだとは思うけど、これもそういう類の。深層心理の現れなのかな。
構ってもらいたいとか。
遊んで欲しいとか。
そういう純粋な気持ちを前面に押し出しているのかも。
「ねぇ。誠太くん。暇だから面白いお話して」
「……やりたい放題だって」
「子守歌でもいいよ。誠太くんの歌声聞きたい。歌って歌って」
平気で無茶振りまでするようになってきた。
このままここにいると、僕の心がズタズタにされかねない。
あまりにも危険な場所にいる。
「そういえば……、えーっと、父さんに呼ばれてた気がする」
「だめ。ここにいて」
「い、いや。でもなぁ……」
「じゃなきゃ泣く」
「くっ。……泣かせるのはよくないか」
そう言われたら逃げ出すことも許されなくて、微かに持ち上げた腰を渋々ながらに床へと下ろす。カーペットの上で胡坐の姿勢を作り直し、再び顔を持ち上げたら、ジト目をした穂花ちゃんと視線がぶつかった。
「……ど、どした?」
「看病してくれるって言ったのに」
「か、看病はしてるじゃんか」
「話し相手にはなってくれないんだね」
「いやっ。そういう訳じゃ……。ほんの少し離席しようとしただけで」
「うそ。絶対面倒だなって思ってたもん」
「違う違う。そんなことないって」
どんな状態でも、目敏さは変わらない穂花ちゃん。
軽い気持ちで口に出した自衛の言葉が波風を立てて、肩身が狭い。
決して面倒を感じた訳ではないけど、彼女の眼差しは疑念の色で揺れていた。
「分かったよ。ずっとここにいるから。トイレにも行かない」
「お手洗いにはちゃんと行ってくれなきゃ私がやだ」
「なんだよ我儘だなぁ」
「我儘じゃないっ。誠太くん。手を出してください」
「へ? なんで?」
「いいから。早く」
「えぇー……。怖いなぁ」
今の穂花ちゃんは何を考えているのか分からないから。不安しかない。
急に叩かれたりしないだろうか。
そんな風に怯えながら彼女と近い左手を差し出して、小指だけがぐっと引っ張られた。そのまま腰の辺りに持っていかれ、ベッドの上に押し付けられる。
「えっと、穂花ちゃん……?」
「いいよね。ずっとここにいるって言ったし」
「それはいいけど……。なんで小指だけ?」
「……うるさい」
穂花ちゃんが右手の指全てを使って、僕の小指を掴んでいる。
僕を逃げないように縛る拘束はあまりに限定的で。
他の四本指の据わりが悪い違和感もあり、変にムズムズしてしまう。
だけど、それは彼女も同じみたいで、何とも言えない表情を浮かべていた。
「これでいいの」
「これでいいのか。じゃ、まぁ……。いいや」
「誠太くんはこれで逃げられないからね」
「……はいはい。そうだね」
小指ぐらいなら簡単に抜けられそうだけど、それを口にすれば、また怒られてしまいそうなので、胸の内に秘めて、この場を流す。
ただ、子供をあやすかのような発言はお気に召さなかったようで、穂花ちゃんは物言いた気に顔を顰めた。
「子供扱いされてる気がする……」
怨嗟のように呟かれる声に比例して、右手に込められる力も増す。
下手なことを言ったら、このまま握り潰されてしまうかもしれない。
なんて。大袈裟な冗談を頭に浮かべながら、言動には気を付けようと思った矢先に、穂花ちゃんがどうして僕を逃げられないようにしたのか。
その理由を思い知らされる。
「じゃ、さっきの続き。面白いお話してくれる?」
「題目が雑だなぁ……。そんな話。レパートリーにないよ」
「だったら。誠太くんのこと。知りたい」
「……僕のこと、か。何か。語れるようなことあったかな」
その要求に息苦しさを感じた。
言葉の端から漏れた想いに、浅い好奇心なんてものは存在していなくて。
彼女の声は重く、鋭い。
問い質すような厳しさに思考は鈍り、怖気付いた喉は情けなく詰まる。
部屋に満たされた静寂は、彼女に言葉に続きを許した。
「どうして。教えてくれなかったの?」
それが、何をとは言われなくても。何のことかは分かってしまう。
僕が彼女に伝えていないことは、きっと、まだ。沢山あると思うけど。
言わなくちゃいけなかったことは、一つだけしか残ってないから。
「……タイミングがなかったんだ」
「一緒に暮らしてるのに?」
「……穂花ちゃんから聞かれたことはなかったし」
逃げ道は塞がれて。
それでも僕は嘯いた。
これは、僕の明確な罪だと分かっているから。
裁かれることを恐れて、罪を重ねる。
そんなことをするから、また傷付けてしまうのに。
「そっか。聞かなかった私が悪いんだね」
「……そうは言ってない」
「言ってるよ。私のせいだって言ってる」
「違う。違うんだ……」
穂花ちゃんは何も。何一つも悪くない。
ずっと、逃げ続けていたのは僕の方だ。
「誠太くんは。ズルい人だね」
その短い言葉を否定するのが、こんなにも難しい。
どうして。こんなにも歪な関係になってしまったんだろう。
ただ無くならない。変わらない関係が欲しかっただけなのに。
「……ばかせいた」
「ごめん……」
どうか。涙なんて流さないでくれ。
君には、いつだって笑っていて欲しいんだ。