32『それはフェチ』
32『それはフェチ』
穂花ちゃんと約束を交わした翌々日。
夜も更けた時間に食べる昆布入りのおにぎりは、良い塩梅に塩気が効いていて、疲れた身体にもうひと頑張りするエネルギーを生み出してくれる。
今日も今日とて、差し入れを用意してくれた彼女には頭が上がらない。
この二日間はきちんと約束を守って、深夜一時には寝るようにしているから、短くなるばかりだった睡眠時間も確保でき、体調も良くなってきた気がする。
寧ろ、身体が元気で、やる気を持て余しているくらいだけど、やり過ぎない程度のバランスを保つことが、健康な体を維持する上で何より大切なことなのだろう。
歩けないレベルの走り込みを続けていたら。いつか身体を壊す。
至極当前にある身体の仕組みを、無視してはいけない。
体調も整え、気持ちは上向きに。
精力的に、能率的に。受験勉強を続けていこう。
さぁ。休憩もできたことだし、過去問で間違えた所の復習でもするか。
「……」
そう頭の中では勉強のことを考えながら。
されど、意識は散漫としていく。
身体は軽くて、精神的にも前のめり。
この一年の間で一番調子が良いと言っても過言ではないのに、ここ数日間の僕は、この一年間の中で最も勉強がなおざりになっていた。
理由は正しく、背後でぱたぱたと音を鳴らしている女の子のせいで。
責任を押し付けることはしたくないけど、こればかりは言わせて欲しい。
決して物音が耳に障る訳ではないし、勉強中に邪魔をされる訳でもない。
ただ、彼女の存在に意識を引かれて、気付くと手が止まってしまう。
何度数学の公式が飛んでしまったのかも分からない。
それぐらい致命的な問題が、穂花ちゃんによって引き起こされていた。
「穂花ちゃん……」
「んー?」
声を掛けると、ふてぶてしい返事が返ってくる。
その声色に僕の頼みを聞いてくれそうな雰囲気はまるでなくて。
また同じセリフが帰って来るのだろうと予想しながら。それでも、自分の意思を曲げることはできず、何度だって同じ言葉を投げかける。
「上着を着ろ」
「やだ」
最早、一言目で被せてくる食い気味の即答が清々しい。
こんな調子で、何度注意を促しても彼女は聞き入れてくれない。
振り返ってみれば、口を一文字に引き延ばしたふくれっ面と目が合った。
「なんだその顔は……」
「いぃーって顔」
「……分からん」
彼女は、今日も今日とてノースリーブの部屋着にショートパンツという恰好をしていて、自分の私物かのように僕のベッドで寝転がっている。
今は毛布も勝手に被っているから、視認することはできないけど、服装の改善はあの日の夜から、これっぽちも為されていない。
僕の部屋にいる時は、厚手の上着を着て欲しいと恥を忍んでお願いしたのに、ものの見事に無視されていた。この問答だって、もう何回目かも分からない。
「そんなに嫌……? 何か羽織ってくれるだけでいいんだけど」
僕との約束を守っていない穂花ちゃんが、契約違反にも関わらず、悠々とこの部屋に居座れている理由は単純で。部屋の扉に鍵が付いていないからだった。
侵入を阻止する装置がなければ、彼女の蛮行を防ぐことも叶わない。
彼女もそれを分かっていて、昨日から部屋の扉をノックしなくなっている。
いきなり扉を開けて入ってくるので、滅茶苦茶心臓に悪い。
腕力に物言わせて追い出す方法は……、生憎選択出来そうになかった。
ベッドにしがみついて抵抗する穂花ちゃんを引き摺って、部屋から追い出すのは受験勉強よりも難題で。主に僕の精神面がすり減ってしまいそうだから却下だ。
「だって、お風呂入った後に汗かきたくないし」
「じゃ、毛布を被るな。矛盾してるぞ」
「……分かった。そんなに言うなら脱ぐね?」
「ぬ、脱ぐは違くない……?」
おかしくなっている言葉遣いを訂正するも華麗に流され、穂花ちゃんの手が毛布を掴む。その手が大きく動こうとして、それよりも早く僕の視線が逃げ出した。
無地のカーテンで閉じられた窓の方に目をやり、しばし待つ。
そうすると、またぱたぱたと軽い物音がベットの方から聞こえてくる。
「うぅー」
何だか悶絶しているような声が聞こえて、恐る恐る向き直ると、彼女はベッドにうつ伏せになって、足をバタ足するみたいに揺らしていた。
彼女の肢体は未だ毛布で隠されたままである。
「くっ……」
表情が枕に埋められて見えないけど、揶揄われている気がしてならない。
こういう状況で主導権を握られるのは、男として凄く情けないのだが、免疫なんて持っている筈もないんだから仕方がないだろ。
「……笑うな」
どうにか絞り出して不満を訴えると、彼女の動きがぴたりと止まり、片目だけを僕の方に向けてくる。
その表情は笑っているとも、強張っているとも言えなくて。
どんな言葉で形容すればいいのか困ってしまう顔付きをしていた。
「笑ってないよ」
「……なら。揶揄うな」
「か、揶揄ってもないっ」
「嘘だ……。足がぱたぱた動いてたぞ」
早口で取り繕う様子が怪しくて、全く信用できない。
確実に辱められていると思うのだが、彼女にとっては違うのだろうか。
「わ、私も恥ずかしいの!」
「そ、それなら! さっさと上着を取ってきなさい!」
まるで、服装を制限されているかのような言い草だけど、そんな強制は一度だってしていない。僕は主張は終始一貫していて、言っても応じてくれないのは穂花ちゃんの方だ。
「だって、誠太くんが……」
「僕が?」
「……」
「な、なんだよ」
今度は、僕が悪いかのような空気を醸し出してくる。
今まで何の気掛かりもなく着ていた服に、文句を付けたは確かに僕だ。
要らぬ意識を植え付けてしまったこと自体は、全面的に僕が悪い。
疚しい心さえ持っていなければ、そもそも始まらなかった論争。
そういう意味では、彼女も迷惑を被っているのだろうけど、男という生き物は、大なり小なりそういう感情を持っている生き物だってことは知っておいて欲しい。
そうしないと、いつか。酷い傷を付けられてしまうかもしれないから。
「……」
大袈裟で、必要のない杞憂かな。
でも、伝えたことは間違ってなかったと、今は思える。
穂花ちゃんは、少し不用心だ。
「なんでもない……」
何かを言い掛けていたのに、彼女は口を閉ざしてしまった。
それからは再び顔を枕に埋めて、部屋はしんと静まり返っていく。
彼女が何を言いたかったのかは分からない。
お互いが持つ価値観の違いに面倒を感じてしまったか。
それとも単純に僕のことが怖くなってしまったか。
……いや、違う。それならきっと、穂花ちゃんはここに来ない。
彼女は僕を信用してくれているから。
今日だって。美味しい夜食を持ってきてくれたんだ。
そう信じたい。けれど、臆病な僕は証明を求めてしまう。
「……穂花ちゃんは怖くないの?」
そう問いかける途中で、視線がぶつかった。
相変わらず体勢はベッドにうつ伏せになったまま。
けれど、意識は直線上に向けられていて。
真摯な気配と一緒に、僕の心へ向けられている。
「誠太くんのこと?」
「……うん」
信頼は、過ごした時間が折り重って、積み上げられた。
でも、それは、一夜にして崩れてしまうことを。僕は知ってる。
僕が浮き彫りにしたモノは、そこに該当するものではなかっただろうか。
今まで兄として振舞ってきて、いきなりそれはないだろうと。
そう言われてしまったら、僕には返す言葉がない。
だから、答えを聞くのは恐ろしくて。
怖気付く僕をよそに、穂花ちゃんはそんな心配まるで見当違いだと。
シンプルに。ただ淡白に答えてくれた。
「全然?」
「ぜ、全然?」
「誠太くんを怖いって思ったことはないかな」
「……穂花ちゃんの服装にとやかく言っても?」
「それは……。う、うん。別に怖くはないよ……」
「明らかに言い淀んでるけど……」
途端にぎこちなくなった口調に、晴れかけた不安が戻ってくる。
言葉の内に含まれた何かはとても言い出し辛そうで。無意識に顔を強張らせてしまう僕に、穂花ちゃんは勢いよく上体を起こして、はっきりと否定する。
「違くて……! ただ、びっくりしたの」
慌てた動きに毛布が足元に追いやられ、彼女の肌が露わになった。
「……誠太くんは男の人じゃないって思ってたから」
ベッドの上でぺたんと座り、胸の前で枕を抱きしめる穂花ちゃん。
口に出された言葉は独り言のように小さいけれど、その細い腕に力が込められていくのは見ているだけでも伝わってくる。
「それ……。この前も言ってたね」
それは、多分。性別についての話ではないんだと思う。
僕が男なんてことは、僕等が出会う前から知らされていた筈で。
僕自身。彼女が女の子だということは、今まで何度も痛感してきた。
彼女が隣りに並ぶ度に、体格の差を感じずにはいられないし。
会話を交わす度に、声域の違いを思い知る。
僕は疑いようもなく男で。
穂花ちゃんはとてもか弱い女の子だった。
それでも、彼女がそう続けるのは、
ーーお兄ちゃんなのに。
僕がその関係性を、ずっと貫き通していたから。
そうだ。出会ったばかりの頃であれば、僕は何も言わなかった。
彼女がどんな格好をしていても、こんなに動揺することはなかった。
「私のことは……。“妹”としてしか見てないって思ってた」
「……」
「それ以上でも。以下でもないんだって」
何よりも丁寧に。誰よりも臆病に。
決して見誤ったりしないように。
決められた関係からはみ出すことがないように。彼女と関わってきたから。
「……そんなロボットみたいに切り分けられないよ」
だけど、今になってみて分かる。
誰かを想う気持ちを事務的に処理することなど出来はしないと。
穂花ちゃんは、ただただ愛らしい。
ただ一人の女の子として。
「そうだよね。私も同じ」
枕の上に頬を乗せた彼女が、ふわっとはにかんで僕を見上げた。
その笑顔には、一体幾つの想いが込められているんだろう。
「だから。舞い上がっちゃったのかも。ごめんね」
薄く目を細めて、自虐するみたいに、小さな息を吐く穂花ちゃん。
溢した言葉は抽象的で。
ほんの少し嬉しそうな理由も。ごめんと謝る理由も。
正確に理解してあげることはできそうにない。
「なにが……」
「誠太くんは。まだ知らなくていいよ」
だから、僕もはっきりとはしない言葉で問い返そうとして。
深く踏み込もうとしなかった想いは、優しく拒まれてしまう。
「まだ……。か」
「でも、ちょっとだけ知って欲しい」
「……どっち?」
「どっちも」
「難しいな……」
これが乙女心だと呼ばれるものならかなりの難題だ。
それでも、問題として出されたのなら、僕は考えなきゃいけないんだろう。
「……」
「……」
こんな風に上目遣いで見つめられる理由を。
どんなに情けない姿を見せても、尽くしてくれる彼女の想いを。
温もりを得ても疼く、僕の心が痛む訳を。
その一つ一つに答えがある。
だけど、やはり、今の僕には。解として提示することはできそうになかった。
困り果ててしまうと表情は自然と強張って、静寂を嫌って身を捩る。
その動きを鏡に映したように、穂花ちゃんの身体も小さく震えて、
「くしゅんっ」
僕の枕に、思い切り鼻水をぶちまけた。
「穂花ちゃん……?」
「ご、ごめん。寒くって」
「寒いだろうなぁ。そりゃそうだ」
「あ、違う。寒くないよ!」
うっかり白状した本音を、穂花ちゃんが慌てて誤魔化そうとする。
しかし、流石に今のをなかったことにするのは無理だ。
「いい加減にしなさい。これ以上は風邪引く」
「うぅ。でも……」
「でもじゃない。もうこれは強制だから」
「せ、誠太くんに出来るかなぁー。私はここから動くつもりないけどっ」
くしゃみまでしておきながら、強気を崩さない理由は本当に分からない。
風邪を引いて困るのは自分自身だと、強く言ってやりたいが……。
いや、止めよう。彼女の逆鱗に触れて、形勢が逆転してしまう可能性がある。
怒ると怖いんだよなぁ。ほんとに。
ま、まぁ。なんにせよ。上着を取ってくるつもりがないのなら、それはそれで構わない。若干の乱暴ささえ解禁すれば、手段は幾らでもこの場にあるのだ。
「分かった。じゃ、そこから動くなよ」
「……え?」
「君が着られる服はここに幾らでもあるんだからな?」
「えっ。えっ」
事態に追いつけていない穂花ちゃんは置いてけぼりにして、立ち上がる。
そのままハンガーラックに掛けてあったトレーナを掴み、ゆっくりと一歩ずつ。彼女との距離を詰めた。
物々しく近付いてみても、ベッドから動こうとしないのは信頼の賜物か。
本当に無害な人間だと思われているのか。
その両方かもしれないけど、普段よりも大きく見開かれた瞳は、瞬きも忘れた様子で僕の動向を追いかけていて、呆けたように口がぽかんと開いている。
その表情に恐怖心はなさそうだから宣言通り遠慮はしない。
「じっとしてて」
「は、はい……」
改めて釘を刺したら、穂花ちゃんは途端にしおらしくなって、こくんと頷いた。
もう少し抵抗される予想をしていたのだが、何故か素直に受け入れている。
それならば、気が変わらない内に手早く済ませてしまおう。
強制なんて言ったけど、彼女が暴れ始めて、肌に手が触れたら、普通に諦めてしまうから、そうなる前に勇み足で、裾口を目一杯に広げると、彼女が抱えていた枕がベッドから転げ落ちていき、僕の足元を通り過ぎていった。
抵抗どころか力が抜けているのはなんでなんだ……。
「……行くよ?」
「ひゃっ……」
不意に漏れた声は聞かなかったふりをして、頭からトレーナーを被せる。
彼女にとってかなり大きめのサイズであるそれは、すんなりと華奢な肢体を包み込んで、危うげな部分を覆ってくれた。
後は、彼女の意思で襟ぐりから顔を出してくれるのを持つのみなのだが、しばらくまっても顔は引っ込んだ状態で。首無しの幽霊みたいになっていた。
「あ、あれ……?」
シュールな状態で動かなくなった彼女が心配になって声を掛けてみると、頭よりも先に袖の方から指先だけが現れた。
サイズが合っていないせいで、手のひらは殆ど出てきていない。
彼女が小さくなった訳ではないけど、何だか小動物感が増した気がする。
「お、おぉ。生きてた」
事欠いたように動かなくなったから焦ったが、動き出した彼女は止まっていた時間を取り戻すかの如く俊敏に動いて、襟の下辺りをぺたぺたと押さえつけている。
そこには今。彼女の顔がある筈で、
「……すんすん」
何か不穏な音が聞こえてきた。
「な、何してる?」
「はぁー……」
「おいこら待て。変なことはしてないよね?」
「……してないよ。失礼な」
「その恰好じゃ何の説得力もない……」
強めの語気で否定してくる割には、頭が出てくる気配がない。
そうされていると僕も落ち着かず、強引に襟ぐりを引っ張ると、艶のある髪を巻き込みながら、隠れていた顔が、ようやくすぽっと現れた。
「……なに?」
乱れた髪を頬に引っ付け、何事もなさそうに僕を見上げてくる彼女。
睨んでいるとも言えないジト目は、分かり易く不機嫌そうではあったけど、口元が何かを我慢するように固く閉じられていて、非常に怪しい。
「それはこっちのセリフだから」
触れるなという言外の圧力に抗い、僕も負けじと見つめ返す。
その視界の端。髪型が乱れているせいで見えた穂花ちゃんの両耳は、真っ赤な色が付いていて、それが言葉以上の証拠物になっていた。
「顔に書いてあるぞ」
「な、なんて?」
「私がやりましたって」
「書いてないよ! なんにもしてないもんっ」
「ほんとーに?」
「うん。誠太くんの勘違い。言い掛かりです」
「ほぉーん……。それじゃ、耳まで真っ赤になってるのはどうしてかな?」
「んなっ!? 元からそういう色なの!」
僕の指摘を否定しながら、穂花ちゃんが両手を使って左右の耳を隠す。
頭も激しく振り、頬に張り付いた髪をどうにか直そうとしているけど、既にほっぺたも赤色に染まっているから。焼け石に水。手遅れというやつである。
だから、もう少しお灸を据えようと、更に問い詰めようと口を開いて。
サラサラと靡く黒髪から舞った。甘い匂いを思い切り吸い込んでしまった。
「……あ」
不意を突かれ、一瞬にして言葉が飛ぶ。
どうやら、僕に人のことをとやかく言う権利はないらしい。
「ま、まぁ……。今回はそういうことにしておくか」
「え? どうしたの急に……?」
「いや。気にしないで。僕達に罪はない」
「……なんかおかしいけど、誠太くんがそれでいいならいっか」
そこに匂いがあったら、嗅いでしまうのが人の習性である。
別に臭いと言われた訳でもないのに、不可抗力を責めるなんて横暴だ。
そういう訳で。今日のところはこのくらいにしといてあげよう。
決して、無意識に彼女の香りで安心する自分を正当化したいとかじゃない。
「よしよし。無実になった」
「穂花ちゃん?」
「なんでもないなんでも……。はっ。くっしゅんっ!」
「……本当に。大丈夫なんだよな?」




