29『君との時間が何よりも』
29『君との時間が何よりも』
意識が朦朧とする。
頭を無理やり揺さぶられているような感覚が酷く不快で、気分が悪い。
こんな時には、心まで弱くなってしまうから。
病気は昔から嫌いだった。
朧げな視界では、何が正しく映っているのかも分からなくて。
目を開けているのか。閉じているのかすら判断できない。
僕は、ただ呆然と。目の前に広がる光景を眺めていた。
ーーお家の人に連絡が取れないのよ。
懐かしい先生の声。
纏まらない思考であっても、それが遠い過去の記憶だということには気付くことができた。
ーー大丈夫です。歩いて帰れるので。
あの日も僕は、体調を崩して、保健室で休んでいたんだっけ。
季節の変わり目に風邪を引いてしまい、微熱と倦怠感にうなされ。
授業に復帰することができそうになかった僕は、早退することにしたけれど、家には連絡がつかず、ランドセルを背負って一人。家までの道を歩いている。
父さんが仕事なのは分かっていたし、母さんも夕飯の買い出しに出掛けていて、忙しいんだろうと。小学生だった僕は疑わなくて。
その予兆に気付くことなど出来ている筈がなかった。
ーーただいま。
家に着いて目の当たりにした光景は、今でも鮮明に思い出せる。
玄関に当たり前のように並んでいた見知らぬスニーカーの色合いも。
誰もいないのに垂れ流しにされていたテレビドラマのタイトルも。
両親の寝室から声が聞こえてきて。母さんを探し。
ドアノブに手を掛けた。その先のことも。
ーーえ? だれ?
ああ……。また思い出してしまった。
こんな記憶は一片の欠片も残さず、消し去ってしまいたいのに。
胸の奥の奥の奥に、仕舞い込んだ筈なのに。
思い出す暇が生まれないくらい。いつだって何かに打ち込んできたのに。
それだけでは、足りてない。
勉強に。部活に。バイトに。家事に。趣味に。
全ての時間を費やして、記憶の底へと沈めても、忘れさせてはくれない。
何度も。何度も。僕の前に立ち塞がって、心を蝕む。
その時に抱いた恐怖心を鮮明に植え付け直して、僕の心を歪ませようとする。
このヘドロのように付き纏う底なしの沼から早く抜け出したい。
息が詰まって、胸が苦しい。
誰か。
誰か。
僕に揺るがない関係を。
枯れることのない想いを。
と過ごす穏やかな時間を。
どうかいつまでもーー。
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「はぁはぁ……」
目を覚まして、視界に飛び込んできたのは物が多い僕自身の部屋だった。
目の前には荷物で塞がれた押入れがあって、僕の左手はしがみつくように掛け布団を握っている。勢い良く飛び起きた衝撃のせいか、ベッドは微かに揺れており、そこまで頭が回って、ようやく今の今まで自分が眠っていたことに気が付いた。
もう季節は冬だというのに、今の僕は全身に汗を掻いていて、少し身体を動かすだけでも不快な感覚が付き纏って鬱陶しい。
それを嫌って、額に感じる汗を手の甲で拭おうとしたら、その瞬間鈍い痛みが痛覚を刺激し、微睡んでいた眠気を一瞬にして吹き飛ばした。
どうやら、学校の階段でぶつけた擦り傷を不用意に触ってしまったみたいだ。
実習室に向かう途中で視界が大回転して、そのままぶっ倒れたことは記憶にぼんやり残っているけど、あれからどれくらいの時間が経ったんだろう。
朝起きた時点で体調の異変には気付いていたのに、何故か学校を休もうという考えには至らず、ボロボロの身体を引き摺って学校に赴き、無理が祟って強制的に帰らせられたのが恐らく昼過ぎのことで。
その後の記憶は点々としているから、どうやって家に帰ったのか覚えていないけど、少なくとも自分の部屋に入るまでの気力は保てたらしい。
帰路の途中で行き倒れていたら、今頃病院にいたのかもしれない。
それでも、改めて自分の恰好を確認すると、制服から着替えることは出来ていなくて、ワイシャツのそこかしこに深い皺が出来上がっていた。
「……暑い」
このままだと痕が残りそうだし、汗も掻いているから、取りあえず部屋着に着替えよう。そう考えて、ワイシャツのボタンに手を掛け、
「大丈夫?」
「えっ……?」
すぐ隣りから穂花ちゃんの声が聞こえてきた。
反射的に顔を向けると、カーペットの上に膝を立てて、僕の様子を心配そうに覗き込んでくる彼女と目が合う。全く気配を感じなかったから、声を掛けられるまでその存在に気が付かなくて、脳の処理が追いついていない。
対する穂花ちゃんも、大きく目を開いて動揺している様子だった。
「うなされてたから……。悪い夢でも見てたのかなって」
「あ、ああ……。大丈夫。平気だよ」
付け足された言葉を聞いて、夢の内容を思い出そうとしても、彼女が部屋にいた衝撃が余りに強過ぎて、何もかも吹き飛んでしまったからよく思い出せない。
何か嫌な夢でも見ていたんだろうか。
寝言で変なことを言っていなければいいんだけど。
「そんなことより、どうして穂花ちゃんがここに……?」
夢のことは余所に置いて、一番最初に浮かんでいた疑問を口に出す。
窓から差し込む太陽の光は、起きたばかりの目には眩しく、まだ日が高いことを教えてくれている。ヘッドボードに置かれたデジタル時計を確認しても、時刻は十五時三十分を過ぎた頃で、彼女がこの時間帯に家にいるのは当然おかしい。
全ての授業を終え、走って学校を出たとしても、この時間には帰ってこられない。
「それは……」
普通ではない状態を見逃すことはできなくて、真相を尋ねる。
既に予想は出来ているけど、これは自分の落ち度を再認識するための質問だ。
理由次第では、僕は彼女に謝らないといけない。
僕の疑問に、彼女は困ったように眉を顰め、それから小さく笑った。
「私も。お昼で早退しちゃった」
保健室で休んでいた時に司が僕のスマホを使って、穂花ちゃんに電話を掛けていたことはなんとなく覚えている。
両親の帰りが遅いから彼女に看病を頼む。そんな内容の連絡だったかな。
「……ごめん」
僕の不調を一方的に聞かされて、きっと、彼女は心配してくれたんだろう。
残りの授業をすっぽかしてしまうくらいに。
「心配かけて」
「うん。本当にそう」
「……だけど、穂花ちゃんが早退する程のことじゃないからさ」
きっぱりと言い切られると立つ瀬もなくて。
バツの悪さを痛感しながら、それでも早退する程の心配は大袈裟だと、遠回しに伝えようとしたら、最後まで言い終わる前に穂花ちゃんが僕の言葉を遮った。
「んー?」
その表情は、いつもよりも希薄で。どこか物々しい。
「……ん?」
首を傾げる仕草を真似してみても、雰囲気が和らぐことはなく、膝立ての体勢からゆっくり正座の恰好に移行すると、深く、重たい溜め息を吐き出していた。
呆れたような。怒ったような雰囲気に、僕の背筋も自然と伸びる。
「誠太くん。ちゃんと反省してる?」
「は、反省?」
「私言ったよね? 勉強はほどほどにして、早く寝るようにって」
「……うん。確かに言われたかな……」
「昨日は何時に寝たんだっけ?」
「あー、えっと……、夜中の一時ぐらいだった気がしなくもなくも」
「三時でしょ? あなたのお友達さんに聞いてるから」
「はいっ。すみません」
「なんで約束守ってくれないの?」
「いや、昨日はほんとにそこまで辛くなかったから……」
「それで悪化させたら元も子もないよね?」
「すぅー。はい……。おっしゃる通りです……」
忠告を無視して、いつも通りに。
なんならいつにも増して起きていた僕は、真正面から叱られてしまう。
申し開きのしようもないから、ただただ頭を下げることしかできない。
どう考えても、今回の件は、向こう見ずな僕が悪い。
下手な言い訳は許れないし、口を滑らせると、逆鱗に触れそうで怖い。
彼女は僕のことを心配してくれているんだから、素直に聞き入れよう。
「すいません……」
「……身体は大丈夫なの?」
「え?」
「体調のはなし」
「あ、あぁ……。寝たら多少マシになったかな」
今は、多少の倦怠感と喉が少し痛むくらいに落ち着いている。
体調不良のピークは、幸いすぐに過ぎ去ってくれたみたいだ。
「それじゃ、何か食べる? 食欲あるなら何か作るよ」
「食欲は一応あるけど……。え? 穂花ちゃんが作ってくれるの?」
「うん。消化の良いものが良いと思うから。おうどんでいいかなぁ」
「えっと……、平気?」
「私だって、お湯沸かして茹でるくらいのことはできますぅー」
「そ、そっか。料理するイメージなかったから。つい……」
目にした記憶もないから、彼女と料理が結びつかなくて、余計な心配をしてしまった。包丁を使う訳でもないので、本当に過剰な心配でしかない。
「有難くお願いしまう。あ、でも、火傷にはーー」
「あー。もううるさいっ。すぐ作ってくるから、誠太くんは休んでて!」
「わ、分かった。ありがとう……」
「ふんっ」
不満気に鼻を鳴らしながら、穂花ちゃんが部屋を出ていく。
そうして一人になると、物音一つしなくなって、やけに心寂しい。
ここは自分の部屋なのに、居心地の悪さを感じて身体が震えた。
風邪による寒気だろうか。
それとも汗が冷えて体温が奪われたのか。
どちらにせよ、一度制服から部屋着に着替えよう。
穂花ちゃんもしばらくは戻ってこないだろうし、今の内にワイシャツを脱いで、ハンガーラックの手前に掛けていたハイネックのニットを被る。
微熱のせいで少し暑く感じるけど、体を冷やすよりかはいい筈だ。
「……暇だな」
落ち着いたら、急に手持無沙汰を自覚してしまった。
体調が回復して、多少の元気が戻ってきたから、より強くそう感じてしまう。
何かをしていなくちゃ落ち着かない。
足元から忍び寄ってくる寒気とは違う“ナニカ”を振り払うように足を動かす。
つま先は自然と勉強机に向いて、吸い込まれるように椅子に座った。
この感覚にハッとさせられる。
そうだ。夢に見たのは過去の記憶で。
見たくないモノを思い出してしまったせいで、こんなにも心が騒々しい。
こいつを黙らせるためには、何かに集中しなければいけない。
だから、大学受験の参考書に手を伸ばしてーー。
そのタイミングで、予想していたよりも相当早く部屋の扉が開かれた。
「誠太くん。体温計持ってきたから……。え?」
再び部屋に入ってきた穂花ちゃんは、ベッドを見るなり、そこに僕がいないことを確認すると、凄まじい速さで勉強机の前に陣取る僕に向かって首を回す。
その視線が一度参考書を捉えたら、驚く程一瞬で表情から温かみが消えた。
「せーいーたーくーんー?」
単調に伸ばされる機械的な音声。
瞳孔が開いているようにさえ見える表情は、これまでの気迫とは、明らかに度合いが違っていて。
「まっずい……」
もしかすると本当に、“逆鱗”というものに触れてしまったのかもしれない。
「や、やることなくてさ。へへっ」
あまりに怖過ぎて、どうにか宥めることはできないかとお道化てみるが、案の定彼女はくすりともしてくれず、ゴミを見るような視線で僕のことを見据えていた。
「今やらなきゃいけないことは身体を休めることだって説明しなきゃだめ?」
「息抜き程度だったらいいかなーって……。駄目か。駄目だよね」
「駄目に決まってるでしょ! 早くベッドに戻る!」
「は、はい……」
僕の目の前まで近付いてきて、びしっとベッドに指を指す穂花ちゃん。
でも、今度は彼女が近過ぎて動けなくなって。
どうしたものかと固まっていると、ささやかな抵抗をしていると思われたのか、彼女の手が上着の袖をつまんで、ぐいぐいと強引に引っ張り始めた。
「いい加減懲りてくれないと。……本当に怒るよ?」
「えぇ。まだ怒ってないのにその恐さってこと……?」
「なに?」
「な、なんでもない」
穂花ちゃんの“本気”を呼び起こしてしまう前にベッドに移動して、横になる。
意識がはっきりしているせいで、眠れる気は全くしなかったが、身体を休めていることが、何よりも大切なのである。
「誠太くんって聞き分けいいけど、注意されるまでは突き進むタイプだよね」
呆れた様子で溜息を吐きながら、穂花ちゃんが体温計を枕元に置く。
彼女の指摘にはぐうの音も出せないが、人には駄目だと分かっていても、行動に移したくなる時が多々あるもので。誰かに注意してもらわなければ止まれない。
そういう甘えが、一人でいる時間が長い程に増えていく。
誰かが見てくれていないと、堕落していく一方だ。
「……お手数おかけします」
「次はないからね」
「次はもうぶちギレ?」
「ぶちギレだよ。手も出るかも」
「うわっ。おっかねぇ」
「今日からビンタの練習しとこ」
「あ、あれ? 次があるって思われてるな……」
右手を広げて、スイングする。
その動作はこれっぽちも慣れていなくて、全く痛くはなさそうだったけど、シチュエーションを想像するだけでも恐ろしい。そんなもしもは願い下げだ。
「ないって言い切れる?」
「それは……、無理かなぁ」
「ちゃんと怒るからね。誠太くんの駄目なとこ」
「……了解。ホントに。有難いくらいだよ」
僕の染み付いた悪癖に付き合わせるのは忍びない。
でも、彼女の説教はどうしてか心地良くて、傍にいることを実感できる。
だから、わざと望むようなことはしないけど、心はとても温かかった。
温もりは胸の内に這い寄る影を溶かして、灯りをともす。
不思議だ。穂花ちゃんと話していると、こんなにも気持ちが軽い。
今だけは目を閉じても、暗い闇に呑み込まれることはないだろう。




