13『傷痕』
第三章『芽生え』
13『傷痕』
高校最後の夏休みは、来年の一月に行われる共通テストの試験対策をしている内に、あっという間に過ぎ去っていった。
今年はプールや夏祭りもお預けで、数式と英文以外の思い出がほとんどない。
友達からの誘いも全て断り、毎日勉強机に齧り付いていたのは、勤勉だからなんて高尚な理由ではなく、自信のなさの表れで。
どうやら僕は受験に対して、並々ならぬ不安を抱えているらしい。
八月も暮れる頃にそんな弱気を自覚して、思わず苦笑が漏れてしまう。
一月に行われる共通テストまではあと五ヶ月。
時間は残されているようで、そう遠い距離にある訳ではなく。
過去問の正答率を鑑みても、決して怠慢は許されない。
脳みそに詰め込まなければいけないことは、まだ腐るほど残っている。
ただ、焦る気持ちに反して、モチベーションは上々。
地力がついていく感覚は新しく何かを始めた時の高揚感に似ていて、自分の成長を感じられると幾らでもやる気が増していく。
のめり込むと納得の行くところまで没頭する悪癖が、今は良い方向に作用してくれていた。このまま最後まで走り切れれば御の字だ。
「そうか。あと半年で卒業なんだなぁ……」
問題集の頁を捲りながら、ふとそんなことを思う。
気が付けば、僕は高校三年生になっていて。
あと一つ歳を取れば、成人の扱いを受けることになる。
時が経つのはあまりに早い。
小学生の頃の僕は、大人を。大人になることをどう思っていたっけ。
「小学生の……」
いや、昔の記憶を掘り起こすのは止めておこう。
考えるのは、いつだって未来のことだけでいい。
来年の三月になって、僕は笑っているだろうか。
それとも落ち込んでいるのだろうか。
「……」
変わってしまう環境に、後悔をしていなければいいけれど。
「駄目だ。変なこと考えるな」
集中力が切れたのか、思考が横道に逸れていく。
こうなると、著しく勉強効率が悪くなるので、一息入れた方が賢明だ。
ペンを参考書に挟み、固まっていた筋肉を解そうと背中を伸ばす。
「んぅ~~~」
最近はずっと同じ体勢で、運動もサボっていたから身体が固くなった気がする。偶にはランニングもしなくちゃいけないなと思いはするのだが、外が灼熱過ぎて家の中から出たくない。それだけで一日の体力を使い切ってしまう。
「ぁぁ……。エアコンがさいきょうだぁ」
情けない声を発しながら、そんな怠惰な感情を漏らしていると、
「せいたくーん」
扉を隔てた廊下の方から、穂花ちゃんの声が聞こえてきた。
「どーしたぁー?」
一枚の壁を殊更に意識して、必要以上に大きな声を出す僕達。
傍から見れば凄く滑稽な絵面だと思う。
俯瞰的な視線を想像したら、自然と口元が弛んだ。
「お部屋。お邪魔してもいい?」
「……? 構わないよ。入ってきなー」
彼女は僕に何か用事があるらしい。
部屋に入られて困ることもないので、二つ返事で了承すると、ガチャリとドアノブが回り、扉が内側に開かれる。
「よいしょ」
顔を覗かせた穂花ちゃんの頭頂部には、今日も今日とて黒いお団子が乗っかっていた。あの日以降、その髪型を気に入ったみたいで、休日で家から出ることがない日でも、そうしている姿をよく見かける。
彼女が部屋に来るのも、みさきさんが遊びに来た日以来のことになるだろうか。
滅多にないことなので、何かあったのかと不思議に思っていたら、部屋に入ってくる彼女は手には、小さなお盆が握られており、お盆の上には、ペンギンが描かれたお揃いのマグカップが乗せられていた。
「勉強中にごめんね。コーヒー淹れたから。少し休憩しませんか?」
「えっ……? 穂花ちゃんが用意してくれたの?」
「誠太くん。夏休みの間もずぅーっと勉強してるでしょ? 頑張ってるのはすごく偉いけど、息抜きもちゃんとしなくちゃ。身体壊しちゃうよ?」
「心配してくれてありがとう……。マジでありがたいよ」
不意打ちの優しさに心が打たれる。
頑張りを認めてくれるだけでも嬉しいのに、体調の気遣いまでしてくれるなんて、どれだけ良い子なんだ。感動し過ぎて、言葉が上手く紡げない。
穂花ちゃんのような妹ができて僕は幸せ者だ。
こんなにも良好な関係を築いている兄妹、そうそういないのではなかろうか。
これが遠回りをしながらでも、彼女と歩み寄り合ってきた成果なんだと思うと、少しだけ自分が誇らしい。本当によかった。
「あ。ちょっと待ってね」
いつまでも立たせっ放しだと悪いので、ベッドの下から折り畳みテーブルを取り出して、部屋の真ん中に広げる。僕は胡坐を掻いて、穂花ちゃんは正座を崩した体勢で、机を挟んで腰を下ろした。
「そこのコンビニで甘いものも買ってきたんだけど、どっちがいい?」
「そ、そんなものまでっ。いつもありがとねぇ……」
「なんかおじいちゃんみたいなってない? はい。誠太くんから選んでください」
「おー。ん? えっと……。これは?」
「シュークリームとどら焼き」
「……なかなか極端なチョイスをしたね」
「誠太くんの好みが分からなかったから。和菓子と洋菓子両方買ってきた」
「な、なるほど。そういうことか……。どっちにしようかなぁ」
正反対の組み合わせは、どちらを好きな場合でも対応できるから。
あんまりにも気が利き過ぎていて、思わず面食らってしまう。
この周到さから察するに、彼女は仕事ができるタイプだ。
間違いなく、人に嫌われるような子ではない。
「穂花ちゃんが先に選びな。僕は買ってきて貰った立場だから後でいいよ」
近所のコンビニと言っても、太陽が照り付ける日中に足を運ぶのは相当億劫だった筈。それでもわざわざ買いに向かったということは、彼女もどちらかを食べたかったからだと、勉強漬けの冴えた脳細胞で察知して、選択権を彼女に譲る。
我ながら完璧な推理をしたと思ったが、穂花ちゃんは苦笑交じりの表情で視線を逸らし、呆れたみたいに小さなため息を吐いていた。
「もう……。それじゃ、どっちが好きだと思う?」
「穂花ちゃんが?」
「うん。当ててみて欲しい」
「そうだなぁ。穂花ちゃんは和系統の物を好きな印象があるから」
お茶や抹茶。出汁巻き卵に和風パスタ。
それらを踏まえて考えると、どら焼きということになるか。
ん? いや、待てよ。和風パスタって和食なんだっけ……?
「パンケーキも好きだし。あれ? どっちだ?」
「さて。どっちでしょーかっ?」
「さっきやってた証明問題よりも難しいかもしれない」
「ふふっ。真剣に考えてくれて嬉しいなぁー」
「よーし! 甘いものは洋菓子派と見た。つまり、シュークリーム!」
「ファイナルアンサー? 本当にそう思うだね?」
「え? え? 間違えてたらなんか罰があったりする……?」
「私の口からはとても……」
神妙な顔付きで俯きながら、穂花ちゃんが目を伏せる。
露骨に醸し出される厳かな雰囲気が物々しい。
その感じだと、第三者が介入してきそうな雰囲気だけど。
「こ、怖いって」
「冗談だよ。因みに誠太くんはどっちが好き?」
かと思えば、柔らかく破顔して、同じ質問を僕の方に投げかけてくる。
「僕はどっちも好きだけど。強いて言うなら……」
その問いに答えようとしてーー。
ほんの微かな、ささくれ程の引っ掛かりを覚えた。
「……ちょっと待って」
「ん? どうかした?」
何食わぬ顔で首を傾げる穂花ちゃん。
平静に振舞う素振りに違和感なんてなかったが、彼女だったら或いはという想いがあって。腹を探るように、真意に向かって手を伸ばす。
「……まさか。誘導してる訳じゃないよね?」
「何のこと?」
「しれっとどっちか聞き出して。自分は違う方答えようみたいな」
「ま、まさかー」
「……おい?」
初めはきょとんとしていた穂花ちゃんも、明確に言葉にすると、明らかに動揺し始めていて、溺れてしまいそうな程激しく目を泳がせている。
どうやら今回ばかりは、僕の推理が当たっていたらしい。
「絶対誠太くんじゃなかったら気付かなかったのに……」
「穂花ちゃんが気遣い屋さんってことはバレちゃってるから」
「誠太くんだって人のこと言えないよ。今の気にする人はそういう人だもん」
不満そうに口を尖らせて、ジト目を作る穂花ちゃんは大変ご立腹な御様子だ。
優しい策略を阻止出来たので、僕の満足度は最高に高かったけど、こうなってくると何が真実なのかも分からなくなって、お互いに本音で喋れなくなってしまう。
結局、僕達は、シュークリームとどら焼きのどっちを選べばいいのやら。
「……実際気を遣ってるとかなく。普通にどっちも好きだよ」
「うん……。私も一緒」
「なんだそりゃ」
「ふふっ」
僕達は気を遣い過ぎているんだろう。
もっと、自由に。ラフに。適当でいい。
それこそ、意識するようなことではないんだろうけど。
僕達にとっては努力が必要だった。
「……どっちも好きだったら。今の気分で選ばない?」
「それが一番良さそうだね」
「私は、お茶に合うからどら焼きがいいな」
「じゃ。僕はコーヒーも淹れてくれてる訳だし、シュークリームということで」
ほぼ同時に手を伸ばして、互いのお目当ての物を手元に寄せる。
それから顔を見合わせてから、一緒になって笑い合った。
「やっと、決まったね」
「こんなに時間かかることあるかな?」
「誠太くんが気付かなくていいことに気付くから」
「吐かなくてもいい嘘を吐いたのは、穂花ちゃんだけどね」
「お互い様ってこと?」
「まぁ。そういうこと」
「それならいっかぁー」
「いいかなぁー?」
不思議な納得の仕方をして、穂花ちゃんがどら焼きの包装を破る。
それに倣って、僕もシュークリームが入った紙袋の口を開き、香ばしい香りがするシュー生地に齧り付いた。生地の切れ間から重みのあるカスタードクリームが溢れてきて、一口で幸せな気持ちになれる。
やっぱり、甘いものは良い。
甘さは正義だ。
「うまっ」
「美味しいね」
甘いシュークリームを食べていても、飛び切り甘いコーヒーが飲みたくなるもので、穂花ちゃんが用意してくれたマグカップに口をつける。
口の中に広がるバニラの風味を、コーヒーのほろ苦い風味が上書きして、それっきり甘さが一欠片も追いかけてこない。
「にっが!?」
「え?」
コーヒーそのものの味わい深い苦みに咽せ返りながら、マグカップの中を覗くと、そこには一片の淀みもない真っ黒な液体で満たされていた。
これ。ブラックコーヒーだ。
「お、遅かったかもしれないけど、砂糖も何も入れてないよ」
「うん。苦かった……」
「好きなように調整してくれたらと思って……。言えばよかったね。ごめんね?」
「……うん」
別に穂花ちゃんが悪い訳じゃない。
よくよく見たらマグカップの傍にシュガースティックやコーヒーミルクがきちんと用意されているし、確認しなかった僕が全面的に悪い。
「くぅ……」
涙ながらにシュガースティック二本とコーヒーミルク一個をマグカップに開け、マドラーで混ぜる。
そうしてようやく見慣れた色合いになってきたコーヒーを、一息に煽った。
まろやかな甘みが全身に染み渡って、蕩けるくらいの甘さが脳を浸す。
やはり、コーヒーはこうでなければいけない。
「ふぅ。いつもの味だ」
残留していた苦味を下して、人心地つく。
普段よりも更に美味しく感じられたので、結果オーライだと一人で納得していたら、僕をジーッと見つめる穂花ちゃんの視線を感じた。
さっきのことを気にしてしまったのかと顔を上げると、彼女は僕ではなくて、僕が手に持つマグカップを見つめている。
「二本と一つ?」
「え?」
初め何の数を言われたのか分からず、頭の中にはてなマークが浮かんだけれど、それがコーヒーに入れた諸々の数だということに気付いて、目を見張った。
シュガースティック二本とミルクが一つ。
それが、僕が一番美味しいと感じるコーヒーの飲み方だ。
「そう。二本と一つ」
「了解! 覚えとこ」
あまりにも自然にそう言って、彼女は再びどら焼きを頬張っている。
そこに責任感とか、遠慮とか、気遣いみたいなものは感じられなくて。
だから、また。今日みたいにコーヒーを淹れてくれるんだって考えてしまう。
「……」
この感覚はなんだろう。
むず痒くて、照れ臭い。
彼女の姿を直視できなくなって、目を合わせられない。
この感覚は。
自分の性格や好みを知られて、覚えてもらえて、嬉しさを感じる。
この気持ちへの向き合い方を、僕は知らない。
ずっと昔に、蓋をしてしまった想いだから。




