01『新生活』
第一章『友達から始まる義理の生活』
01『新生活』
「いってらっしゃい。気を付けてね」
目覚ましのアラームよりも早く目を覚まし、制服に着替えてから一階にあるリビングに向かうと、お仕事の準備をしている母さん達と鉢合わせた。
きりっとしたビジネススーツに身を包み、仲睦まじい雰囲気で玄関を出ていく二人を見送って、朝ご飯を食べるためにリビングへと引き返す。
四人掛けのテーブルには、母さん作のオムレツとウインナー。
豆腐とわかめの入ったお味噌汁が並べられていて、どれも凄く美味しそう。
「いただきますっ」
しっかりと手のひらを合わせて、ありがとうの気持ちを込める。
毎日仕事で帰りが遅く、朝の時間くらいゆっくりしたい筈なのに、朝食は欠かさず用意されていて、その隣りにはお弁当箱も二つ置かれていた。
もう少しで母の日だから、ささやかでもそこで何かお返しをしようと考えつつ、冷蔵庫から緑茶の入ったペットボトルを取り出し、ドット柄のマグカップに注ぐ。
「ふぅー。おいしー」
寝ている間に渇いてしまった喉を潤して、甘い玉子焼きを口に運ぶ。
よく噛んで味わいながら、何となく視線を正面に向けると、掃き出し窓の外に作られた小さな花壇が目に入った。
レンガ造りの花壇には、色とりどりのチューリップが花を咲かせていてーー、
「あれ? ついこの前は蕾だった気がするのに……」
自分の記憶と、時間の流れに首を傾げる。
壁に掛けられたカレンダーで日付を確認すると、四月はあと数日で終わり。
間もなくゴールデンウィークが訪れるような時期で。
それを自覚すると、胸の下の辺りが重たく締め付けられてしまう。
一週間にもなる休日なんて、普通なら楽しみで仕方がない筈なのに、私は少しだけ不安で。お家で過ごす時間が増えることに、無意識の内に身構えていた。
「……もう五月なんだ。時間が過ぎるのは早いなぁ」
母さんが再婚して一か月。
このお家で暮らすようになってからも、同じだけの時間が過ぎているけど、私は未だに新しく出来た家族に対して、どう振舞えばいいのか分かっていない。
他人なのに、家族で。
家族なのに、思い出はなくて。
その複雑な関係性が私にとっては難解で。
私だけが上手に消化できないまま、一日一日と過ぎていく。
胸に抱えた不安を意識すると、自然と視線は二階へ続く階段がある廊下の方に向けられ。お義父さんじゃない。もう一人の家族の顔が頭に浮かんだ。
登校前に彼と顔を合わせることは滅多になく。
きっと、この時間はまだ寝ているんだろうと、そう思う私の目の前で、何の前触れもなく扉は開き、“義理のお兄さん”が欠伸をしながら現れる。
「あ、穂花ちゃん。まだいた。おはよー」
彼の名前は、加持誠太くん。
私より一つ年上の高校三年生で。
少し見上げるくらいの身長と、細身の体型をした男の子。
中性的な顔立ちをしている彼は、私と目が合うと人当たりの良い柔らかな表情を浮かべてにこっと笑う。その印象は、とても朗らかで。落ち着いていて。
とても一つしか年齢が違うようには見えない雰囲気を纏っているけど、眠気に襲われると限界まで大きく口を開けて、腕と背中を目一杯に伸ばしている。
大人っぽさと子供っぽさが一緒に存在している不思議な人。
そんな空気感を持つ彼は、まだ寝起きみたいで頭は回ってなさそう。
「……おはよう。今日は早いんですね」
「うんー。本当はギリギリまで寝てたいんだけど……。今日は日直の仕事があるから早めに登校しないといけなくて」
生真面目な理由で早起きしたらしい誠太くんは、私の対面に腰を下ろすと、開いているのかも分からないくらい細い瞳で手を合わせてから朝食を食べ始めた。
「昨日も遅くまで勉強してたんですか?」
「それなりにはね。一応受験生だからさ」
「お疲れさまです」
「まだまだ頑張らなくちゃいけないよ。味噌汁うまっ」
味噌汁を一口飲んで幸せそうに一息吐く誠太くん。
その表情が余りにも脱力していて、ふにゃふにゃだったから、思わず小さく笑ってしまったら、彼の視線が私を捉えてピタッと止まった。
「……?」
眠気眼だった瞳がゆっくりと開いて、私の顔を覗き見る。
人の表情を盗み見て笑っていると思われたのかな。
そうだったら、凄く印象が悪いけど、言い訳の言葉も咄嗟には出てこない。
「穂花ちゃん」
「は、はいっ」
真剣な眼差しは自然と背筋を伸ばして、声も裏返るから恥ずかしい。
「な、なんですか?」
恐る恐る彼の表情を窺うと、誠太くんは事も無げににこっと笑った。
「寝癖が付いてるよ」
「……へ?」
「洗面所で直してきな。友達に笑われちゃうかもしれない」
「あ、はい……。分かりました」
予想してなかった答えに固まっても、彼に気にした様子はなくて、満足気な表情でウインナーに箸を伸ばしている。本当にそれだけを伝えたかったみたい。
私は元々癖っ毛で髪の量も多いから、寝起きの髪が蛇みたいにうねっていることはいつもなんだけど、朝に顔を合わせることのない誠太くんがそれを知っている筈もないし、私も指摘されるまで忘れちゃってた。
「な、直してきますっ……」
「行ってらっしゃい」
だらしない恰好を同年代の男の子に見られた恥ずかしさで顔が熱い。
羞恥心に急かされるみたいに洗面所に向かって、鏡で自分の姿を確認すると、うねうねに広がった寝癖は、いつにも増して酷い状態になっていた。
「うぅ……。恥ずかしい……」
改めて込み上げてくる恥ずかしさをどうにか抑えて、手早く寝癖を直す。
お湯で濡らしたタオルで髪全体を湿らせ、ドライヤーで乾かして。
絡まっていた髪の毛の一本一本をヘアブラシで解していくと、ぐにゃぐにゃになっていた寝癖も、輪郭を沿うような丸みのある曲線で纏まってくれた。
「よし。これでいいかな」
眉に掛かる前髪をサッと払って、後ろ髪も鏡に映して確認する。
ついでに制服の皺も伸ばして、リボンの位置も整えてからリビングに戻ると、朝食を食べ終えた誠太くんが流し台に立って私の分の食器も洗ってくれていた。
「あ、あっ、ごめんなさい。私の分まで洗ってもらって」
「いえいえ。問題ないよ。大した量じゃないからね」
「ありがとう、ございます……」
気を遣わせないように言ってくれた言葉に、申し訳なさが際立つ。
力なく声を萎ませてしまう私に視線を向けた彼は、すぐに視線を手元に戻した後、少し迷った様子を見せながら、探るように口を開いた。
「そんな畏まらなくていいんだよ? 敬語だって要らないし」
「え? はい。じゃなくて、うん……。えっと。ありがとう、です……」
「あはは。凄いちぐはぐだなぁ。まぁ……、焦ることはないか」
意識しても口をついて出てしまう敬語に誠太くんは少しだけ困ったように眉根を寄せて、でも、最後には笑ってくれる。
焦る必要はない。
その言葉は優しくて。ちょっとだけ遠い。
「学校行く準備はできた?」
「う、うん。準備万端です」
「学校は違うけど同じ電車だから、途中までご一緒してもいいかな?」
「えっ? は、はい……」
「あー。ごめん。やっぱり、僕がいると落ち着けないよな……」
「ち、ちがっ。そ、そんなことないよっ!?」
「ほんと? よーし。言質取ったから鞄取ってくるわ」
「え、えぇ……」
洗った食器を水切り籠に入れて、誠太くんが颯爽とリビングを出ていく。
手提げ鞄を手に掛けて玄関で待っていると、数分と待つことなく制服に着替えた誠太くんが下りてきた。肩にはエナメルバックが掛けられていて、如何にも部活動を頑張っている青年の見かけだけど、実際は受験に専念するために三年生へ進級するタイミングで引退しているみたい。
「はい。誠太くんのお弁当」
「ありがとう。それじゃ、行こうか」
二人で一緒に玄関を出て、徒歩五分の最寄り駅へ。
住宅地の外れにある無人駅は、人もまばらで閑散としている。
私達がホームに着いたタイミングで丁度電車もやってきて、二人で空いていた席に並んで腰かけた。
「この時間はまだ座れるんだね」
「誠太くんはいつももう一つ遅い時間?」
「うん。その時はもうぎゅうぎゅう詰めになってるんだけど」
「大丈夫。商店街に近付いてくると同じ状態になるから」
「なるほど。僕はそうなる前に退散させてもらおうかな」
「ふふ。誠太くんの方が学校近いもんね」
誠太くんが通う学校の最寄駅はここから三駅分。
私の通う高校はその更に五つ先にあって、商店街のある大きな繁華街で停車するため、そこに近付くにつれて一気に人が多くなる。混雑すると、正直ゆったりはできない。
「うちに引っ越してから学校まで遠くなったって聞いたけど平気? 不便ない?」
「全然大丈夫です。元々朝は早く目が覚めちゃうから」
新しい生活になって朝起きる時間も通学で使う電車も変わった。でも、それが苦になったりはしていなくて。寧ろ、知らない風景を見られて楽しい。
こういうことを誠太くんと話す機会はなかったけど、気に掛けてくれていたみたいで有難いような、申し訳ないような気持ちになってしまう。
「知らなかったパンケーキ屋さんを通学中に見つけて、今度友達と行くんです」
「へぇー。そうなんだ。それはよかった」
心配をかけたままだと心苦しいから、明るい話題を引っ張り出す。
そうしたら、誠太くんの不安そうな表情も少しは晴れると思ったのに、
「はいっ。だから、誠太くんが心配しなくても。ちゃんと。い、生きれてます!」
「生きれてます……?」
「う、うん……。元気ですって意味」
まとめ方が下手で、首を傾げさせてしまった。
な、何て言えばよかったんだろう。
語彙の乏しさと、二重の意味で恥ずかしい。
「そっか。でも……」
私のごちゃごちゃな言葉に引っかかるところがあったのか、誠太くんが視線を上向きにして何か呟こうとする。だけど、それよりも先に、次の駅に到着するというアナウンスの音声が響いて、彼の声を掻き消した。
進行先に見える駅のホームを確認して、誠太くんの方に視線を戻すと言葉の続きを言い直すことはせず、彼は荷物を肩に掛けて立ち上がっている。
「話してたらすぐだね」
「え? う、うん」
きっと、その言葉は口に仕掛けたモノとは全く違う筈で。
それを分かっても、表情に微笑みを被せた彼に、追及する勇気は出てこない。
「それじゃ、行ってきます。穂花ちゃんも学校頑張ってね」
「……うん。行ってらっしゃい」
電車が止まって、ホームに降りていく、男の子にしては華奢な背中。
それはすぐに建物の陰に隠れてしまって、電車はまたすぐに進み始めた。
乗り降りを繰り返し、車内の人数も徐々に増えてきて。
さっき誠太くんが座っていた場所にもスーツ姿の女性が座る。
徐々に窮屈さが増していく。けれど、今はそれも気にならない。
「私。変なこと言ってないよね……」
緊張で固まっていた肩に触れながら、か細く呟く。
決して、聞かれてはいけない言葉。
ある日突然できた同年代のお兄さん。
彼とどのように接したらいいのか。
その距離感を、私は一か月の時間が経ってもまだ測りかねている。