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ゼロパーセントの匂い

作者: 柳瀬シナ子

「雨の匂いがする」


 ――生憎、今は抜けるほどの晴天だ。


 じっと空を見上げて、彼女は何かを待っているようだった。冬服のセーラー服に、ベージュのカーディガン。どこからどう見ても女子高生の彼女は、さっきからそんなことをずっと呟いている。

「どんな匂いだよ」

 突拍子も無い発言をしてから彼女は俺に構ってくれない。その状況に少しいらついて、ちょっと冷たい言い方をしてしまった。

 でも彼女はふっと笑って、

「こんな匂いだよ」

 とはぐらかした。


 彼女はずっと空を見ていた。晴天の今日だ。天気予報でも、今日は降水確率ゼロパーセントだったし。あぁ睫が長いなぁとか、いい加減横顔には見飽きたんですけど、とか、言いたいことは山ほどあったけど。何も聞いちゃいけない、話しかけちゃいけない雰囲気がして、仕方なく俺は彼女がしてるみたいに空を見上げた。

 ふと、鼻腔をくすぐる匂いがする。さわさわ、草を揺らす風が吹いて今は、この河原に彼女と二人きり。


「私、雨女なの」

「え?」

 くすりと笑いながら彼女が口を開けた。ほっとしたのは、何でだろう。

「私が外に出ると、いっつも雨が降るの。だから雨は嫌い」

「それなら俺の人生は毎日雨が降ってたことになるけど」

「そういうんじゃないよ。私がどこかに出かけたりすると降るんだ。雨を、連れてきちゃうのかなって」

 膝を抱えて体育座りをする彼女が一気に儚げな雰囲気になって、焦った。抱き寄せたい衝動を何とか我慢して、次の言葉を考える。

「――思うんだけどさ」


「降水確率がゼロパーセントじゃない日に遊びに行って、偶々雨が降った。それだけなんじゃねぇの?」

 俺の言葉に何か反応してくれたらそれでよかった。でも彼女は膝を抱えて空を見上げたまま、微笑んでいるだけ。さっきと、表情は変わらない。

「……そうかもね」

 とても、寂しそうに聞こえたのは、気のせいなんだろうか。


「つーか、初音っていつから此処に居るっけ?」

「一週間前。受験が終わってすぐこっちに越して卒業式するなんて、馬鹿みたいだと思わない?」

 全然住んだことも無い所でさぁ、何て彼女は笑いながら言った。

 高校三年生の、一月だ。センター試験は終わったけど、二次試験がこれからって時に、彼女は――初音は此処に来た。事情は知らない。でも、長年過ごしてきた別の高校からこの時期にわざわざこの高校に来るなんて、おかしいじゃないか。あと二ヶ月で卒業。まったく知らない人間と過ごす二ヶ月。友達作りとか、そんなの出来るはずが無いのに。

「聞いていい? 何でこの時期に来たのか」

「それを直接聞かれたのは、あんたが初めてだよ」

 いいよ、と彼女はやっとこっちを向いてくれた。やっぱり、寂しそうな顔をしていた。

「……全然知らないところだから、来たんだよ」

「向こうの高校で卒業出来ない理由でもあったのか?」

「あった。もう二度と、あの場所には戻れない――」

 それより深くは語らなかった。そうしてまた、空を見る。釣られて上を見れば、それはもう晴天ではなくなっていた。白くて、灰色の混ざった厚い雲が段々増えてゆく。そこまで天気が変わってやっと、彼女の言う匂いがわかった。

「これが、雨の匂い?」

「わかる? そだよ。湿った、水の匂い」

「お前どこから来たの」

「此処じゃない、ずっと遠くの町から」

「俺とお前の関係って、何だっけ」

 ぼんやりとした頭でそんなことを呟いた。彼女は目を見開いて、俺を見つめる。

「転校初日に一目惚れしましたって告白してきたのはどこのどいつかな?」

 あぁつまり、俺がお前に告白したって事かぁ。どうしたっていうんだ。その時の記憶が全然頭の中に無い。俺、いつ初音に会ったんだっけ。

「――ってことは今俺と初音って付き合ってんの?」

「あたしの記憶違いじゃないならそうだね。まさか、告白したこと忘れてるなんて思わなかったよ」

 その調子じゃ二次試験危ないんじゃない? と悪戯っぽく言う彼女を見てやっと心のざわざわが落ち着いてきた。これが本来の彼女の雰囲気だ。あぁ、勉強ばっかしてたから、そういうのが抜けてたのかな。

「そうか。何で俺こんな記憶曖昧なわけ?」

「私に聞かないでよ。まぁ、会って一週間しか経ってないし、実感がないんじゃない?」

 彼女がそこまで言って、ようやく俺は彼女を抱きしめる。細い肩に腕を回して、彼女の頭に頬をくっつけて。暖かい。彼女はとても暖かい。空は相変わらず変な色をしていてそれだけで寒くなるって言うのに、此処は暖かい。今まで我慢してた分ぎゅうっと力を入れてみたけど、彼女も俺の腕に手を添えてくれて、それが何だか無性に嬉しかった。


「あ」


 呟いたその目の中に、ひとしずく。

 目の前の背の高い草の葉に一滴零れ落ちた水滴は紛れも無く、

「やっぱり降っちゃったか」

「ほんとに初音は雨女なのな」

「やっと信じたね」

 ――ぽつりぽつり、雫は次第に増えてゆく。

 このまま此処に居てはずぶ濡れになってしまうと、俺たちはようやく重い腰を上げた。彼女は鞄の中から折り畳み傘を取り出す。オレンジ色で正直俺の趣味の柄ではないけれど、それを差して一緒に歩いた。ぽつりぽつりの音は、それより激しくはならなかった。お互いの受験が成功したら、もっと趣味のいい柄の傘を買ってやろうかなんて。並んで二人で歩きながらそんなことを思っていた。

「雨って、降ったと思ったらすぐ乾いちゃうよね」

「何の話?」

「私みたいだなぁと思って」

 それが何の話かなんて、その時の俺にはわかる筈も無く。


 ――しばらくして、彼女はまた居なくなった。この町から、呆気なく。卒業式まであと、一ヶ月も無かったのに。此処で卒業するんだと、一緒に写真を撮ろうねと言っていたのに。誰にも言うことなく俺にすら、言わずに彼女は居なくなってしまった。

 彼女が居なくなってしばらく経ってから、俺は初めて彼女が去った理由を知る。彼女が彼女の町に居られなくなったのは彼女が、刑事事件を起こした人間の家族であるからで。一気に誹謗中傷を浴びるようになったその場所で彼女は、生きてゆけなくなったのだ。そしてこの町でも。きっかけが何かなんて知らない、でも突然噂になった。――あの子はそういう子なんだと。初音は。


 初音は何もしていないのに。何もしていないのに初音は。


 そういった憎しみのこもった差別的な目で、見られなければならなくて。彼女の所為では決して無いのに。誰も知らない、自分のことなど何も知らないところで逃げるように生活するしか、その道しか彼女には残されていなかったのに。

「俺は」

 けれど、俺だってその目を向けてしまったかもしれない。彼女が正直に、あの時俺に本当のことを話していたとしても俺は、彼女を純粋に初音と呼べただろうか。俺のそんな不安定さを彼女はわかっていたから、だから彼女は行ってしまったんだろうか。誰にも言うことなく、ひっそりと、この町を出て行ってしまったんだろうか。

 ――雨は、私みたいね。

 あの時、彼女を送り届けた時に彼女は言った。雨は嫌い。急に寒くなるし、気分も滅入るし、いいことを連れてこないから。だから私みたいねと。そうしてわざと明るい振りをしてあの時、サヨナラを明るく言ったんだろう。雨なんて似合わない、太陽みたいな明るい。

 生憎あれから雨は降っていない。降水確率なんて毎日毎日嘘ばかりだ。彼女が居なくなってしまった時も、抜けるような晴天だった。


 彼女が雨を連れてきたんじゃない。雨が、彼女を連れて行ってしまった。


 後に残ったのは綺麗な青空と、心に残った曇り空だけ。決してそこに雨は降っていない。行って、しまったから。雨と一緒に彼女は行ってしまった。

「初音」

 ごめん初音。俺、君をずっと苦しめていたんだろうか。見せ掛けの好意ではなかったけれど君を、悲しませてしまったんだろうか。ごめん、初音。俺を許してくれなくていいよ。だからせめて君の苦しみの少ない場所で、たまには笑っていてくれないか。君は笑顔の似合う普通の女の子なんだ。

「雨なんて、似合わないよ」

 初音の笑顔の可愛さなんて誰も知らなくっていい。だって君のあの太陽みたいな笑顔を見たのは、この町ではきっと俺だけだった。俺だけに、見せていてくれていた筈だ。一緒に居た時間は、確かにそこにあったじゃないか。

 笑っていてくれ。君は本当はそんな人に違いないんだから。


「俺は君が――好きだよ」


 ――久しぶりに雨が降った。

 今日の降水確率は、ゼロパーセントだった。



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