どうしようもない
「麻衣? まだ寝ていていいの? 何か用事があったんじゃないの?」
カーテンが開かれ、初夏の朝陽が寝ぼけた目に刺さる。
「別に、用事なんて……。本当に、お祖母ちゃんに会いに来ただけ」
「そう? それでも、もう起きなさい。いつまでも寝ていると、かえって疲れが取れないわよ」
乱暴にカーテンを開けて、そのまま部屋をでていくのは子供の頃から見慣れた後ろ姿。どんなに喧嘩しても、かならず朝は私の部屋のカーテンを開けに来ていたなぁ。
「お父さんは?」
「とっくに仕事に行きましたよ」
何を言っているのか、と呆れた顔でご飯をよそう。今日は金曜日。仕事があることを承知で聞いたのは、お父さんがいない事を確認したかったから。昨夜『紅葉』の名前に反応した理由を知りたい。
「ねぇ、お母さん」
「なに?」
「お祖母ちゃんが、新月の夜に外に出なかった理由、知っている?」
「……」
お母さんは、息を止めて私を見つめていたが、すぐに諦めたように軽い溜息をついて私の前に座った。
「お母さんも、紅葉を知っているの?」
「ええ、一度だけ、会ったことがあるわ。恐いぐらいに美しい、鬼」
ぼんやりと、庭に視線を泳がせる。私が初めて紅葉に会った庭。お母さんが紅葉に会ったのも、この庭だったのだろうか。
「結婚してすぐにお義父さんが亡くなって、お義母さんと暮らすようになった最初の新月の夜、庭に紅葉がいたのよ。月色の角に、艶やかな黒い髪。人ではないと、すぐにわかった。それでもなぜが怖くはなかったのだけれどね」
懐かしむように庭を見つめながら、ゆっくりとお茶を飲む。ぼんやりとした瞳には、もう私は映ってはいなかった。
「にっこりと笑って、『おめでとう』って。あんまり綺麗でね、お母さん声も出なかった。呼吸も、していなかったかもしれないわねぇ。魂が抜かれるって、きっとあんな感じなのでしょうね」
紅葉を初めて見た時のことを思い出した。大好きだったお祖母ちゃんが逝ってしまって、悲しくて悲しくて仕方がなかったのに、紅葉を見た瞬間に何もかもが吹き飛んだ。あの衝撃を、私はきっと一生忘れない。お母さんも、同じ気持ちだったのだろう。
「あっという間にいなくなってしまったけどね。家に入ったら、お義母さんが泣いていた。その時、お父さんと一緒に初めて紅葉の事を聞いたわ。お義父さんのことも、お義母さんの幼馴染だったお母さんのお母さんのことも」
お母さんは、まだ小さい頃に母親を亡くしている。いつだったか、顔も覚えていないと寂しそうに笑っていたのを思い出す。お祖母ちゃんと、幼馴染だったのか。もしかしたら、夢で見た女性の子供は……。
「お祖母ちゃんは、泣いている理由を教えてくれた?」
お祖母ちゃんの後悔を、知りたい。真直ぐに見つめる私に、お母さんはゆっくりと口を開いた。
「お祖父ちゃんね、お祖母ちゃんと、お祖母ちゃんの親友だった桜子に、同じ紅葉の簪を贈ったの」
「それ……」
「そう。麻衣が持っていた、あの紅葉の簪」
紅葉の魅力を手にしたお祖母ちゃんでも、お祖父ちゃんの心は手に入らなかったのだろうか。身体は側にいるのに、心は違った?
「たぶん、お祖母ちゃんは今の麻衣と同じことを考えたんだろうねぇ」
「同じこと?」
「そう。お祖父ちゃんが本当は桜子を好きだったとか、嫌な言葉だけど、二人ともに好意があったとか」
「……」
そうじゃないの? 女性に簪を贈るなんて、好意が無かったらあんな綺麗な簪を贈ったりしないでしょう?
「お祖父ちゃんは何も考えてなかったのよ。ただ旅先で綺麗な簪があったから幼馴染だった二人に贈ったの。仲の良かった二人だから、離れてもお互い寂しくないように。桜子が離れた町にお嫁に行くことが決まっていたから、おそろいのものを持たせようとしたの」
呆れたように笑うお母さんに、私の口は開いたままだった。『好みも、似てるわねぇ』紅葉の言葉が頭を回る。優人も、きっと考えなしにやるだろう。
「なのに、桜子に告げられ母のなかった想いを簪に込めたんじゃないか、と勘違いした百合子お祖母ちゃんは、一人で嫉妬に狂った。嫉妬はどんどん大きくなって、抱えきれなくなったとき、つい美しい鬼に『殺して』と願ってしまったの」
知っている。情けなくて、惨めで、悔しくて。抑えきれなかった憎しみと、抱えきれない後悔を知っている。そして、それを受け止めた美しい鬼も知っている。
「紅葉は、何もしなかった」
私の声に、母さんはゆっくりと頷いた。
「そう、何もしていないの。それでも、人間は死ぬこともある。こう言ってはいけないのかもしれないけれど、避けられない事もある。でも、一度嫉妬と殺意に取りつかれたお祖母ちゃんにはそれがわからなかった。ずっと後悔して、自分を責めて、紅葉に会うことを恐れていた」
紅葉は、何もしていない。それはわかる。
それでも、お祖母ちゃんの願いは無関係ではなかったかもしれないと、私も思う。
鬼の魅力を使っても、大好きな人の心が手に入らなかった。人であることを捨ててでも手に入れたいと願ったのに、叶わなかった。自分の魅力だけで、何もかも手に入れた女性を前にどれだけ打ちのめされたか。絞り出すような声を、私の胸が覚えている。
あれは、間違いなく悪意だった。人の悪意は必ず伝わる。少しずつ、少しずつ、何かを狂わせていく。それが影響していないと、どうして言える?
「麻衣? あんたまで変な事考えないでね」
お母さんが心配そうにのぞき込む。変な事、なのだろうか。
「どれだけ強く願っても、人は死んだりしません。もちろん、言葉にしてはいけない願いだった。それは、後悔するべき事だとは思う。でも、お祖母ちゃんは、願ったことを伝えただけ。それがたまたま鬼だったけれど、あの美しい鬼は人を殺したりなどしない。何も関係ないの」
「それなのに、自分のせいで私から母を奪ったとずっと自分を責めていた。お祖父ちゃんの息子であるお父さんと、桜子の娘である私が惹かれあったのもお祖父ちゃんと桜子お祖母ちゃんの恋が実ったんだなんて言って泣いていた。二人の人生を、台無しにしてしまったと、生涯悔やんでいた」
呆れたような、深い溜息が部屋に響く。お母さんは、お祖母ちゃんを本当の母親のように慕っていたのを、知っている。悔やみ続けるお祖母ちゃんを見るのは、どれだけ辛かっただろう。気にしなくていいと、きっと何度も言葉を尽くして、それでも伝わらなかったことは、お母さんにも影を落としたのだろうか。
「人の気持ちは、どうしようもないの」
心配ないのだと言い聞かすように、私の肩をさする手が暖かい。『どうしようもない』その言葉は、私の胸に重く沈んだ。
「麻衣の名前は、お祖母ちゃんがつけたの。邪気から身を守る麻の衣、で麻衣。鬼に魅入られて、泣くことが無いように」
鬼に魅入られて、泣く。お祖母ちゃんは、何度も何度も泣いたのだろう。でも、それは紅葉に魅入られたから? 紅葉がいなかったら、もっと泣いていたのではないの?
「……紅葉は、邪だと思う?」
「美しさに魅入られて、魂を抜かれるかと思った。でも、たった一度でも会えて良かった、とも思う」
「そう」
懐かしそうに庭を見つめている。私がたどっているお祖母ちゃんの記憶。お母さんは、お祖母ちゃんの恋をどこまで知っているのだろう。
今夜、きっと紅葉は私に会いに来る。お祖母ちゃんとの思い出に浸るよりも、私に会いに来る。何を言おう。何を聞こう。
『人の気持ちは、どうしようもないの』お母さんの言葉が胸に刺さったまま、まだ抜けない。
一番聞きたいことは、何だろう。私は紅葉に、何を求めているんだろう。おばあちゃんは紅葉に何を求めて、そして私を何から守ろうとしているのだろう。
優人に、会いたい。
魅入られて泣くぐらいどうってことない。優人が私ものになるのなら。
でも……。
美華と話している時の優人の笑顔が、頭をよぎる。報われないのに、男としてなんて見られていないのに、諦める事を知らないまっすぐな笑顔。鬼の魅力を手に入れた私の横でも、あんな風に笑ってくれる?
美華が、妬ましく、羨ましく、憎い。お祖母ちゃんの願いは、自然なものだったのだろうと思う私は、もうどこかおかしいのだろうか。
風に吹かれて形を変える雲のように、私の心も慌ただしく動いていく。
新月は過ぎたが、今夜もまだ月は見えない。それでも、今夜はきっと紅葉に会える。




