どこをむく?
「混んでるなぁ」
「うん、ここはいつ見ても混んでる」
やっとで見つけた4人掛けの席に座り、気になっていたエビチリをつまむ。文句なしに美味しいのは、評判のお店だからだけではなく優人と一緒だからだろう。
「麻衣、なんかちょっと雰囲気変わった?」
正面からまじまじと見つめて、不思議そうな顔をしている優人に真直ぐに視線を返す事ができない。雰囲気が変わったのならば、紅葉のおかげ。自分がひどくずるい事をしているような気がする。
「なんか、昨日のコの雰囲気にちょっと似てきたかも……」
優人の言葉に、胸が痛む。
「そう? 最近よく会っているから、かな? 真似したくって、少し化粧とか教えてもらっているの。あのコ、可愛いでしょ?」
今日つけているリップもアイシャドウも紅葉をイメージして買ったもの。『真似したくって』は嘘じゃない。嘘はついていないのに、心臓がうるさい。
「うん、可愛いコだった」
紅葉を可愛いと言って柔らかく笑う優人に少しだけ胸が痛み、私のしていることは間違ってなんていないんだと改めて前を向く。
取り留めのない話しは尽きる事がない。共通の知人の近況やお互いの仕事の話。最近の天気の話まで引っ張り出したころには、すっかり陽は落ち、雨も上がっていた。
「じゃぁ、またね」
「うん、今度また呑みに行こう!」
そう思うなら、どうして今日誘ってくれないの? 楽しいと思ってくれているなら、このまま。
社交辞令の『呑みに行こう』に、私がどれだけ期待して、毎日携帯を握りしめているかなんて、優人は考えたこともないのだろう。
知られたくないのに、知って欲しい。そんな気持ちは、あさましいのだろうか。
「おかえりなさい、楽しかったみたいね」
部屋の中、私のベッドの上で寝転んで雑誌を読む紅葉。どこから入ったの? なんて聞く気はないけど、それでもいない間に部屋に入られていい気はしない。
「私が優人と会っていたの、知っていたの?」
紅葉は何も言わずにただクスクスと笑う。苛立つのに、それすらも可愛いと思ってしまうのは鬼の魅力なのだろうか。
「ねぇ、紅葉」
「なぁに」
こくん、と首をかしげてベッドの端に座る姿はまるで人形のようだ。
「優人は、私を好きになる?」
「好き? 彼は今でも麻衣を好きよ? 夕べの彼女への気持ちとは、違うみたいだけどね」
こらえきれないようにクスクスと笑う紅葉に顔中に熱が集まり、代わりに指先からは体温が消えていくのを感じる。
「紅葉。鬼は、約束を守るのよね?」
「約束は、貴女に私の魅力をあげること。彼の気持ちがどう動くかまでは、私は知らない」
いい加減にも投げやりにも聞こえる言葉に、呆れた顔の紅葉。確かに紅葉は『鬼の魅力をくれる』と約束をした。紅葉の魅力が私のものになれば、優人の気持ちも手に入ると勝手に思ったのは、私。
それでも、優人はあきらかに紅葉に魅かれていた。優人の気持ちを動かす約束なんてしなくても、紅葉の魅力を手に入れる事ができるなら、きっと優人の気持ちも手に入る。
私が、どれだけ紅葉に近づくことができるのか。
今私が気にしなくちゃいけないのは、そこだけだ。
「美容の為に、早く眠りなさい。お休み、麻衣」
紅葉の言葉に、頭に黒い霧がかかる。待って、まだ……。
着物を着た人で混み合う電車内。私だけど、私じゃない感覚。ああ、これ、夢だ。
列車から吐き出されるように降りると、まだ陽は高い。私は見覚えのない景色を迷いもせずに進んでいく。道路で遊ぶ子供たち、忙しそうに歩き回る大人達、活気のある商店街を通り抜け、小さな家にたどり着いた。呼び鈴が壊れているのか、玄関の戸を叩き、声を張り上げる。誰かの名を読んでいるようだが、誰なのかわからない。
赤ん坊を抱いて出てきたのは、若く美しい母親だった。化粧っ気はないが、白く美しい肌に幸せそうな笑顔が印象的で、どこかで見たことがある気がする。
招かれた部屋の中はすっきりとしており、この母親がしっかりと家を守っているのがよく分かった。
不意に床が見えた。否、床しか見えない。床に両手両膝をついて何かを必死で頼んでいるが、今あるのは私の意識ではない。何を頼んでいるのかもわからない。それでも、床だけを見つめて歪む私の視界に、紅葉の簪が飛び込んできた。それは、いつか紅葉からもらった簪。何故、この人が?
「ごめん、ね」
顔をあげた先には、悲しそうに微笑む美しい女性。
私の意志とは関係なく、手は簪を奪い取り、身体は彼女に背を向ける。悲しくて悔しくて、情けない。黒くて重い物が胸に沈んでいく。
まだ青い空。来た道をたどる横には先ほどの女性。胸に赤ん坊を抱き、嬉しそうに笑いながら歩いている。まるで、簪の事など忘れてしまったようだ。
駅が見える。『ここでいい』と伝えると彼女は頷き、赤ん坊の手を振り笑顔を見せる。彼女の笑顔をみた瞬間、さっき胸に沈んだ黒くて重いものがせりあがってきた。
私の口が何かを叫んでいる。それはとても強く、彼女の胸に刺さっていく。わかるのに、止められない。
「ごめんね、それは、出来ない」
さっきよりもずっと悲しそうな瞳。もう笑顔はなかった。私の足は鉛のように重くうまく動かすことができない。悲しそうな瞳のまま、女性は背を向け歩き出した。もう、彼女は私に笑顔を見せることはない。
列車から降りるとすでに陽は暮れている。月のない夜、鉛のような足を動かし暗い道を進んでいく。このまま、静かな夜の闇に溶けてしまいたい。
「どうしたの?」
目の前に現れたのは、紅葉だ。紫がかった着物を着た美しい鬼。私は紅葉に、必死に何かを訴えている。頬が濡れる。嗚咽が漏れる。それでも、必死に紅葉に何かを訴える。
黙って私を見つめる美しい鬼。その瞳はからは、何の感情も感じない。紅葉は楽しんでいるのだろうか、憐れんでいるのだろうか。
「……て。彼女を、殺して!」
私の叫びが闇に溶け、胸の奥にあった黒くて重い物が全身を覆っていくのを感じる。
顔をあげると、相変わらず何の感情もない美しい鬼が私を見つめている。
「さよなら」
一言、別れの言葉を告げ紅葉は闇に溶けた。ああ、もう会えない。私は、捨てられた。
「寒い……」
まだ薄暗い中、寒さで目が覚めた。いつの間に眠っていたのか、私が居たのはベッドではなくソファー。初夏とはいえこれは寒いわ、と独り言を呟いてのそのそとベッドに移動する。
きっと、今の夢もお祖母ちゃんの記憶。あの女性は誰なのだろう。どこかで見た事がある気がするが、思い出せない。
紅葉は、お祖母ちゃんの願いをかなえたんだろうか。あの後、紅葉はお祖母ちゃんと一度も会っていないのだろうか。何より、お祖母ちゃんは私に何を伝えたいんだろう。
お祖母ちゃん。優しかったお祖母ちゃん。お母さんも、『優しい女性だった』といった。そのお祖母ちゃんが、殺してほしいと、鬼に願ったのは何故? コルクボードに飾られた紅葉の簪。あれは、きっとあの女性の簪だ。