お出かけ
「麻衣、今日はどこか行くの?」
彩がからかうような笑顔を向けてきた。黒のクロップドパンツにゆったりとしたグレージュのサマーニット。気合いをいれている感は出していないはずなのに、なんでわかるんだろう…。
「うーん、雰囲気?」
少し考え込んでいた彩が笑いながら首を傾げる。『雰囲気』かぁ。そうですか。それはもう自分ではどうしょうもないね。でも、流石に『鬼と一緒に優人に会いに行くの』なんて言えない。
「うん。親戚と……」
紅葉の事をなんて言ったらいいのかわからないけど、お祖母ちゃんを介して知り合ったのだから『親戚』が一番しっくりくる。遠い親戚、なら名前以外はよく知らなくても変じゃないよね。
「親戚かぁ。まぁ、金曜だし楽しんできなね」
少しがっかりしたような顔の彩は、笑顔で私の仕事も一緒に片付けてくれた。
「ありがとう」
本当に感謝だ。美人なのにサバサバしていて姉御肌な彩は、何事も深く突っ込むことはしない。それでいてさりげなく助けてくれる姿をひそかに尊敬している。だからこそ、卑怯な自分の事はなるべく言いたくない。言ったところで信じてなんてもらえないだろうけど、鬼に頼るなんて言えない。
「じゃぁ、また来週ね。一週間お疲れ!」
定時上がりが叶った週末。駅の改札で彩と別れ、電車に乗る。いつも優人と待ち合わせるのは、家に向かう途中の駅。これからどうしたらいいんだろう。紅葉は何も言っていなかったから、一度家に戻ったらいいのだろうか。
いつも優人と待ち合わせる駅まで、あと二つ。
『どこまで行く気?』
急に紅葉の声が頭に響いた。勢いよく周りを見渡す私を不審げに眺める高校生に少し気まずい思いをしながら、閉まりかけのドアを潜り抜けるとまだ青い紅葉の葉がクルクルと私の足元を舞っている。ついてこいって、ことだよね。
私が歩くよりも少し早く進む青い紅葉を追いかけ改札をでれば、駅の壁にもたれた紅葉が嬉しそうに手を振っていた。
疲れた人の中で、紅葉だけが別の空気をまとい輝いている。
「気づいてくれてよかった。家まで帰っちゃうのかと思った」
呆れたように呟く紅葉には、悪気など微塵も感じられない。お祖母ちゃんなら言わなくてもわかったとでもいうのだろうか。
「どうするのか言ってくれないと、わからない」
自分でも情けなくなるくらいの小さな声に、紅葉が笑う。
「だって、彼がどこにいるかなんて朝はわからないでしょう?」
今なら、優人がどこにいるのかわかると言うの?
「さ、行きましょう?」
「……」
先を歩く紅葉の細くまっすぐな背中を追う。頼りないくらいに細い背中なのに、真直ぐで迷いがなく、美しい。私は、この背中も手に入れることができるのだろうか。
紅葉が立ち止まったのは、裏路地にある小さな焼き鳥屋。ガヤガヤと賑やかな声が外まで漏れている。ここ、ですか? 私はともかく、紅葉は思いきり場違いなんじゃ。
「いらっしゃい、ませ……」
迷いなくドアを開けた紅葉に、若干ためらいがちの『いらっしゃいませ』。そうだよね。ためらうのは、わかります。
店主の表情にカウンターのお客さんまで振り向いた。その中にいた、知った顔。
「麻衣?」
「優人……。久しぶり」
本当に優人だ。確かに、会うことはできたけれど……。
何も美華まで一緒の時でなくたっていいのに。
「久しぶり、麻衣もよくここ来るの?」
「ううん、初めて。紅葉がここに入ってみたいって」
「紅葉? 友達?」
「友達というか。ちょっと遠いんだけど、親戚。紅葉? 私の友達の優人と、美華ちゃん」
「初めまして、紅葉といいます」
紅葉の美しさに見惚れている優人。その後ろにいる美華は、悔しそうな表情を隠せずにいる。女としての敗北感とか卑屈な感情とか、憎しみとか、こんな風に顔に出るものなのかと呆れるぐらいに正直な顔。きっと、三人で呑んでいた時の私もこんな表情をしていたんだろうな。『女としての負け』を知っている時の顔は、思った以上に醜く情けない。私は、二度とこんな顔を優人に見せたくない。
「お姉ちゃんたち、ここ座る? 場所詰めようか?」
優人の隣に座るスーツのオジサマが場所を譲ろうとしてくれたが、紅葉はやんわりと手を振った。
「いえ、今日は久しぶりに彼女と呑みに来たので、いいんです。ねぇ、麻衣?」
「え? ええ」
少し残念な気もするが、紅葉に従い座った席はL字カウンターの端。私の座った位置からは、優人も美華もよく見える。チラチラとこちらを見る優人と、悔しそうな美華の顔が楽しくて仕方がない。
いつか、優人があんなふうに私を見る日が、来る。どうしようもなく胸が躍る。
それから、たわいのない話をした。紅葉は私の仕事や友人関係の話を穏やかな笑顔でずっと聞いてくれ、まるで本当の友人のようだった。優人から時折投げられる視線は落ち着かないが、今見られているのは私ではないと、必死で気づかないふりを決め込んだ。
いつの間にかカウンターには常連らしき男性客がびっしり。これも旨いぞ、これも食べるか、と私達の前には大量の串が並び、紅葉はあれもこれもとつまんでは美味しいと笑う。お酒がなくなればオジサマがお勧めの日本酒を頼んでくれ、いくら飲んでも酔わない紅葉は次々と美味しそうに口をつける。やっぱり、美人って得だよねぇ。
「麻衣ちゃん、私達もう帰るねぇ」
何十本も刺が生えているような『またね』と、ひきつった笑顔の美華に何とも言えない優越感が顔をのぞかせる。優人は少しだけ開いた口を閉じて、うつむき加減にそのまま出ていった。足元にまだ青い紅葉の葉がまとわりついているのが目に映る。
結局、全然喋れなかったな。がっくりとうつむいた私に紅葉が笑う。
「大丈夫」
何が大丈夫なのかとも思うのに、自信にあふれた紅葉の笑顔に疑問を言葉にすることは出来なかった。
オジサマ達の残念そうな顔を尻目に会計を頼んで驚いた。私達への請求は最初のビールとお通しだけって……。
美人ってだけでここまで違うのか。卑屈な言葉が頭をめぐってしまうのが情けない。
優人は帰った。美華のあの様子では今日はもう『黒猫』には行かないだろう。
優人が居ないのならば、これ以上街にいても仕方がない。まだそんなに遅い時間ではないし電車で帰ろうかと言えば、紅葉はひどく驚いている。
「もう帰る気なの? 麻衣がいつも彼と行くお店、連れて行って」
どうして知っているのか、なんて言葉は愚門なのだろう。紅葉は、全て知っている、
あんまり紅葉を連れて行きたいお店じゃないんだけどなぁ。そう思うのに足は動く。もしかしたら、機嫌を悪くした美華は帰ってしまい、一人になった優人が来ているかも、なんて女々しい期待に胸が騒ぐ。
「麻衣、久しぶり。珍しいな、今日は友達と一緒かい?」
いつも通りのマスターの笑顔にホッとする。前に来た時酔っちゃっててごめんねぇ、なんていいながら紅葉とカウンターに並び、メニューを受け取る。大好きだったカンパリは、しばらく呑みたくない。
「私、ハイボール。紅葉は?」
「……麻衣に任せるわ」
少し困った顔をして紅葉がメニューを私に押し付ける。よく分からないの、と少しはにかんだような笑顔が、鬼であることを知っている私から見てもとても可愛い。美人をたくさん見ているはずのマスターまで、普段よりもかなりテンションが上がっている。
遅い時間になり、店内は少しずつ人が増えてきた。チラチラと紅葉を盗み見る男性陣、嫉妬と羨望の眼差しを向ける女性陣。きっと紅葉が話かけたら男女問わず大喜びするんだろうに、どれだけ見つめられても視線を返してあげる事すらしない。
「ここは同じような人ばっかりね。まるで見分けがつかない」
呆れたような呟きの意味が、私にはまるでわからない。確かにオフィス街から近い場所にあるこの店には、スーツのサラリーマンも多い。それでも学生やフリーランスでの仕事をしている人、接客業の人もいるので、ファッションもそれぞれ違うし、かなり以前からあるお店の為お客さんの年齢も話題もバラバラ。それなのに、紅葉から見れば『同じ人』になるのか。
「ううん、なんていうのかなぁ。話し方とか、視線とか? 」
可笑しそうに笑う紅葉に、合点がいった。紅葉を見る視線は同じようなものになるんでしょうね。私なんて、隣にいるのに誰からの視線も感じませんよ。話しだって、紅葉を見て話しているのだろうから同じようなものになるのでしょうね。卑屈な心が溢れて、止まらない。
「今日はもう帰りましょう。楽しかった」
紅葉の言葉にホッとして、絡みつく視線の中で会計を済ませた。
「また麻衣と一緒においでね」
紅葉に向けられたマスターの柔らかい言葉にすら、胸がざわつくのを抑えられない。
「人の世界は、夜でも明るいのね」
駅のホームで、紅葉が感心するようにつぶやいた。紅葉は、どこに住んでいたのだろう。実家は田舎だが、それでも居酒屋やスナック、コンビニぐらいはあったし街灯もあった。山に登れば、夜景というには寂しいが、それでも街明かりは見えるはず。いまさら、感心するようなことなんだろうか。
私は、紅葉の事を何も知らない。