紅い夢
「麻衣、なんかいいことあった?」
一週間で一番つらい、水曜日。なのにそんな言葉が同期の彩からかけられた。いや、仕事で疲れてますけど? なんて答えても、嬉しそうな顔をした彩は全く聞いていない。
「彼と、なんか進展あった?」
大人と言われる年齢の私が可愛らしい片想いをしているのをあっさり見抜き、からかっていた彩。口は悪いけど、本当は誰より応援してくれているのを知っている。
「進展は、ないなぁ。そんなに機嫌いい?」
「うん、いつもは帰りたい帰りたいって騒ぐ時間なのに、集中して仕事してんじゃん。仕事追加されてもニコニコして、なんかあったのかなぁって」
そうか、私ほ残業するとそんなに機嫌が悪いのか。まあ確かに残業は嫌いですけど。でも、定時から1時間もたったら誰でも『帰りたい』ぐらいは言いたいじゃない。言ったからって帰れないのは知っていますけどね。
『別に何も』と答えたもののニヤニヤとする彩には何を言っても無駄だと思い、口を閉じて手を動かす。無言を決め込んだ私をからかうのに飽きたのか、彩もキーボードを叩き始めた。暗くなっていく外が、恨めしい。
家に帰る頃には住宅から漏れる灯りもまばらで、月もない。
暗い道を一人歩くのに、何故だが心は軽いまま。これは、彩も気づくよね。。
あれから一度も紅葉は来ないし、私の魅力が増したとも思えない。優人からの連絡もないのだから、進展なんてあるはずもない。
それでも、私と紅葉は約束をした。
紅葉の暇つぶしに付き合う代わり、私は紅葉の魅力を手に入れる。
あの美しい鬼は、約束を破ることはない。
だって、笑っていた。とても楽しそうだった。
私は鬼の力を借りて、欲しいものを手に入れる。
闇の中で冷たい雨が背中に当たる。ぞっとするほど冷たいのに、私の身体は地に膝をつき、痺れた指で土を掘る。爪がグラグラとしているのがわかるのに、痛むのに、手は動くことをやめてくれない。
泥と血にまみれた指先がやっと動きを止め、その手に紅葉の簪を掴んだ。月の光を浴びて輝いていた紅い簪は、泥をかぶって黒く濁り紅葉の葉はかけていた。とても、綺麗な簪だったのに。
簪を冷たい土の中に寝かせ、泥をかける。紅い紅葉はあっという間に消えていった。
「……しい。悔しい」
雨音に混じる小さな声。自分の声なのか、他人の声なのかもわからない。ただ、胸が張り裂けそうな冷たい声だった。
「まぶし……」
日当たり良い私のアパートは、カーテンを閉めていても朝陽がしっかりと入ってくる。私の顔には爽やかな朝陽が直撃、なのに変な夢を見たせいで私の頭には黒くて重い霧がかかっていた。
「仕事、行かなきゃ」
昨日は頼まれた残業が終わった時にはもう定時どころではなく、家に帰るなりベッドに倒れ込んだ。心が軽くっても身体まで軽くなっているわけではなく、正直いつの間に眠ったのかも記憶にない。それでも、今日も仕事。シャワーを浴びて、化粧をして、いつもと同じように会社に向かう。
同じように仕事をして、同じように帰る。
毎晩紅葉の姿を待っているのに、紅葉は現れない。
早く、紅葉に会いたい。焦がれる気持ちは、優人への物か鬼への物か。
「麻衣? 久しぶりねぇ。どうしたの?」
用があればメールで済ます事が多いので、母への電話なんて数年ぶり。電話を取った母も若干驚いている。
友達が結婚する、式より先に皆でお祝いするから近いうちに一度帰るかもしれない、なんて話で会話を繋ぐが、本当に話したいのはそんなことではない……。
「お母さん、さあ。お祖母ちゃんと仲が良かったよね」
鬼の話なんて、聞いたことない? とはさすがに言えなかった……。
「麻衣も、そんな風に見るようになったのねぇ」
お祖母ちゃんが病気になった時、愚痴一つこぼさずに介護をしていた。当時はなんとも思っていなかったが、大人になってからは『旦那さんの家族』も大切にできるってすごいことだと尊敬している。それはお祖母ちゃんが人として尊敬のできる義母だったからなのだろうか?
恋しい人を手に入れるために鬼と約束をしたお祖母ちゃん。義母としては、どうだったんだろうと少し気になった。
「優しい、女性だったのよ」
懐かしむような、穏やかな声。なんだろう、とても穏やかな声なのに、背中が少し寒くなる。私の知っているお祖母ちゃんは、ちゃんと人だったのだろうか。
いつか見た紅い羽織がお店に飾られている。晴れの日も雨の日も、毎日それを見つめ『あと少し』と呟いている。曇天の空の下、小走りに店に向かったのに羽織はすでになく、店員の冷ややかな視線を背にボロボロの足袋と切れかけた鼻緒に視線を落としながら店をでた。
紅い羽織を着た細い背中。綺麗に結われた髪には艶やかな紅葉の簪が揺れている。どうしようもなく胸が騒ぎ、目が離せない。その背中は月の光を受け、私に見せつけるかのようにゆったりと前を歩く。
「どうしたの?」
少し低い、女性の声。呆れるでもあざ笑うわけでもなく、只の疑問を口にする。何故声もかけずに後をついてくるのか、何故うつむいているのか、まるでわからないとの言葉が胸に刺さる。振り返った羽織に、惨めな気持ちでいっぱいの私は何も言えずにうつむいたまま。まだ、彼女の顔は見えない。
目を覚ましたのは、まだ暗闇の残る時間。いつもならこのままもう一度眠ってしまうところだが、今日は眠れそうにない。あの女性の髪を飾っていた簪は、以前も夢で見ている。細い手で土の中に埋められた簪。壁のコルクボードを飾っている私の簪と、よく似ている。
紅い羽織を着ている女性、それを見つめている私は、いったい誰なんだろう。
少しずつ外が明るくなっていく。カーテンを開けると白んだ空が広がり、少し頭がすっきりとするような気がする。
「そういう所も、百合子と似ているわねぇ」
含み笑いすら感じる嬉しそうな声が、頭の上から聞こえてきた。
「紅葉……」
「貴女と楽しむために、色々調べていたの。たいして時間もたっていないのに、人の世界はすぐに変わるのねぇ」
そういって嬉しそうに笑う紅葉は、黒のスキニーに、カーキのビックサイズシャツを着ていた。真直ぐだった黒髪は柔らかくカールし、月色の角を見事に隠している。陶器のような肌に、紅くふっくらとした唇は女の私でも目が離せない。これが、鬼の魅力。
「ねぇ。私、人に見える? これなら目立たずに貴女と歩けると思う?」
「え、ええ。人には見えるけど、目立たずには、どうかなぁ」
間違いなく、紅葉が歩いていれば誰もが振り返るだろう。モデルも女優も目じゃないくらいの、美人。とてもじゃないけど、目立たずに歩くのは無理がある。
「そう? まぁ、人に見えるならいいわ。今夜、会いに行きましょう?」
「今夜?」
私が声を上げた時にはすでに紅葉の姿はなかった。
今夜、会いに行く。当然、相手は優人だろう。
紅葉は、私と楽しむと、一緒に歩くと言った。
嫌だ。
どれだけ魅力をもらったとしても、あの美しい鬼の横に並んだら、私なんて引き立て役にすらなれない。
それなのに、紅葉の影に隠れることになると知っても、優人に会いに行けることが嬉しくてたまらない。
優人の目には私なんて映らない。わかっているのに、クローゼットをひっかきまわしている自分が、情けない。