月のない夜も、満月の夜も
寝たり、起きたり、泣いたり。私の日曜日はそれで終わった。闇が広がる頃には、もうどうして泣いているのか、何が悲しいのかも分からなくなっていた。
私は、何が欲しいんだろう。
暗くて、寒い。
闇に浮かぶ紅い紅葉が、星を隠すように広がっている。光など通すものか、とでもいうように。
欲しい。欲しい。
苦しい。苦しい。
悲しい。悲しい。
誰か、助けて。
私の頭の中で繰り返される、叫ぶような声。
何を求めているのかわからないけれど、悲しくて、寂しくて、立っていられない。大きな紅葉の木によりかかり、座り込む。寂しくて、悲しくて、自分の胸を引き裂いてしまいたいのに、私の身体は全く動かない。涙一つ、流れてはいない。
どれくらいそうしていたのだろう。頭の中で繰り返されていた声が、静かになっていき、身を裂くような悲しみは、私の身体の中で溶けていった。冷たくなった身体では、もう悲しむことも欲しがることもない。
今はただ静かに、紅い紅葉を美しいと思える。穏やかな時間が、愛おしい。
目が覚めたのは、日付が変わるよりも少し前。夜の闇が穏やかに広がっている。今の夢は、お祖母ちゃんではない。
愛しい人を欲しいと、愛されたいのに叶わないと嘆く、激しい想い。覚えのある感情だけど、違う。私よりも、お祖母ちゃんよりも、激しく、強く、とても悲しい。
鬼は、生者の想いから生まれると聞いた。お祖母ちゃんに、私に興味を持ったのは、何故? 面白いと思ったのは、何故? 紅葉は、どんな想いから生まれたの?
「麻衣」
少し高く、優しい声が部屋に響く。来て、くれた。
「紅葉。呼んでいたのよ、ずっと、たくさん、呼んだわ」
「そうね、知っている」
優しい声が、胸に広がっていく。呼んでいたことを知っていたのに、来てはくれなかった。どうして、と思うのに言葉にはならない。言いたいことも聞きたいこともたくさんあったはずなのに、来てくれただけでもういいような気がしてきた。
「私ね、紅葉の夢を見たわ」
「そうみたいね」
「さっきまで、とても辛かった」
「……」
「でも、今はとても穏やか」
「そう、みたいねぇ」
つまらなそうに短い息を吐いた紅葉が、カーテンを開けて空を眺める。空に浮かんだ、細い細い月。目を凝らして月を眺める紅葉を美しいと思った。初めて会った時のように。ただ美しいと。
「お祖母ちゃんは、きっと紅葉の魅力がなくてもお祖父ちゃんを手に入れた」
「ええ、きっと」
「私は、紅葉の魅力があっても、優人を手に入れる事はできない」
「麻衣の欲しがっている彼は、手に入らないでしょうね」
やっぱり……。
紅葉は知っていた。鬼の魅力で手に入るのは、私の好きな優人ではない。本当は、私だってわかっている。
「私の欲しい優人じゃなければ、手に入る?」
「そうね。でも、麻衣は要らなくなるわ」
どんな優人であっても、私から要らないと思うことはない。でも、抜け殻になった優人を側に置くことに、私は耐えられるのだろうか。
「私は、優人が欲しい。鬼になっても、欲しい」
そう、今でも欲しい。たとえ抜け殻でも、優人が側にいるのなら私は満足するのだろう。
「でもね、紅葉。要らないと言う、私もいるの」
頭の中で、もう一人の私が泣いている。優人を守りたいと、鬼の魅力を持った私に魅かれる優人など見たくないと泣く。優人に笑っていて欲しいと、たとえ美華を想っていても笑っていて欲しいと願う私がいる。
どうして、そんな風に思うのか。どうして、私の望みを邪魔するようなことを望むのかわからないが、一日泣いてわかったのは、泣いている私の方が強いということ。
「だからこそ、人は面白いわ。百合子も、麻衣も、大好きよ」
月の光のように柔らかな笑顔。優しい鬼。『大好き』はきっと本心なのだろう。
「私も、紅葉が好きよ。会えて、良かった」
そう。私は紅葉が好きだ。お祖母ちゃんも本当はただ紅葉のことを好きだったのだ。紅葉によって傷ついてしまったことを後悔していた。それが紅葉を傷つけたことを知っているから。本当は、たった一言伝えたかった。だから、私が代わりに。
「鬼の魅力は、もういらない」
「……そう」
「でも、また会いたい」
「……」
「私はまだ何も手に入れていないもの。きっと、まだ紅葉を楽しませることができる。自分の魅力であがく私を見たくはない?」
「……変なコ。百合子よりも、美樹よりも、ずっと変」
クスリ、と笑った紅葉の腕が私を抱く。冷たい腕の、熱い抱擁は秋の香りがした。
「いつか、また」
初めて会った時と同じように、美しい鬼は闇に溶けていく。
少しずつ、夢は覚めていく。
鬼がくれた魅力は無くなり、私の世界は、以前と同じようにそれなりの色しか持たなくなった。少しずつ元の私に戻っていくことは、寂しかったりホッとしたり。
優人は相変わらず美華を見つめているが、どれだけ努力しても手に入らないとしっかり諦めた私の胸は以前ほどは痛まなくなった。雅さんは、鬼の魅力を手放した私にも優しいが以前のような熱を持った瞳で見つめられる事は無くなり、今は本当にただの呑み友達。美樹とくっつけることは出来なかったけれど、大人で楽しい呑み友達ができたことは友人の少ない私にとっては結構な収穫だったと思う。
「最近、紅葉さん見ないね」
美華は、私一人で『黒猫』に来ることに不満を隠さない。そうよね、紅葉に色々教えてもらうって張り切っていたものね。
「ああ、あの子実家に帰ったのよ。都会は飽きちゃったみたい」
「実家、どこなの?」
「東北。山があって、川があって、月が綺麗に見えるところ」
「へぇ」
紅葉はずっとあの山にいる。月のない夜も、満月の夜も、穏やかに時を重ねていくのだろう。
いつかまた会える。私の、美しい鬼に。




