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月のない夜は  作者: 麗華
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むきあえない

 何も、見えない。暗い。暗い。

 闇の中、差し出した自分の指先すらも見えない。

 夢なのに、わかっているのに恐怖が喉元までせりあがってくる。叫んでしまいたいのに、声が出ない。

 暗い。恐い。お祖母ちゃん、助けて。どうして、私にこんな夢を見せるの?

 もう、止めて。私はお祖母ちゃんじゃないの。もう、止めて。



「おはよう」

「おはよう、眠いね。やっぱり平日に遅くまで呑んじゃ駄目だよねぇ」

 いつもと変わらない彩にホッとした。闇から抜け出す事も、叫ぶことも出来ない夢にぐったりと疲れていた私にとって、いつも通りの彩でいてくれることは、本当にありがたかった。


「今日も、呑みに行くの?」

「ううん、今日は流石に真直ぐ帰って、早く寝る。行くなら、明日かな?」

「そう……」

 まっすぐな瞳から逃げたくて、足早にロッカールームを出た。昨夜の彩の言葉、お祖母ちゃんが私に言ったみたいな気がした。

 仕事をしているうちは気がまぎれる。眠いけど、疲れているけど、それでもやることがあるから、考えなくて済む。

 時折感じる彩の視線には気づかないふりをして、週末の業務を終了させた。

 

 仕事が終わったことが残念に思えるなんて、初めて。やることが無くなれば、家に帰れば、きっと向き合わなくちゃいけなくなる。

 それでも、足はいつもの通り駅に向かい、改札を通って電車に乗り込む。私の意志に反して、疲れた身体は帰りたがっている。



「ねぇ、紅葉? いないの?」

 一人きりの部屋は寂しくて、どうにもならずに鬼の名を呼ぶ。このままでは、寂しさに狂ってしまいそうだから。


「なぁに?」

 鈴の音のような声と同時に、紅葉が現れた。初めて会った時と同じ、紫の地色に紅葉を彩った艶やかな着物。

「その、着物……」

「洋服もいいのだけれど、やっぱりこれが落ち着くの」

「とても、よく似合っている」

「……百合子も、同じことを言っていた。今の麻衣と同じ顔をして」

 お祖母ちゃんもきっと、この美しい鬼を見て同じことを思ったんだろう。

 『私は紅葉にはなれない』

 どんなに欲しても、手に入らないものもある。


「紅葉は、お母さんの事も知っていたの?」

「ええ」

「お祖母ちゃんが憎んで、お祖父ちゃんが魅かれた女性の、娘だから?」

「そうね。そして、司が魅かれた娘だから、興味があったの」

 やっぱり、紅葉も知っていた。では。

「お母さんが欲しがっていた男性の、事は?」

「さぁ、よくは知らない。でも、相手は美樹の気持ちなんて気が付いていなかったわねぇ」

 麻衣は、美樹にも似ているわよねぇ。とコロコロと笑う。そうか、私の恋が上手くいかないのは家系なのかな、なんて馬鹿なことを考え始めた。

「お母さんは、手に入れる事が出来なかったのね」

 お祖母ちゃんだって、紅葉が居なければお祖父ちゃんを手に入れる事は出来なかった。

「百合子は私の魅力を使う事を望んだけれど、司は自力で欲しい相手を手に入れた。二人とも、手に入れるための努力を惜しまなかった。でもね、求める人がいれば、求められる人もいる。美樹は、求められる人でもあったの」

 そうか。『会えなくて、良かった』それは、お母さんが今幸せだから。鬼に魅入られて泣くか、求められるのを受け入れるのか。両方なんて、選べない。どちらを選べば幸せかなんて、わからない。私は、優人が欲しい。たとえ求められなくても。



「今日は、友達と一緒じゃないのか?」

 一週間ぶりの『黒猫』は、平日だと言うのに賑わっていて。カウンターはすでにいっぱい。一人でボックスは嫌だな、簡易の椅子を出してもらおうかな、なんて考えていたら振り返った男性が声をかけてきた。この人……。

「石川さん?」

 雅さんの同期だという男性。今日は一人で来たのだろうか、隣に雅さんはおらず、席を空けて待っている気配もない。

「今日は、俺一人。アイツはまだ仕事している」

 まだってことは、これから来るのか。雅さん、この店に友達を連れてくることはほとんどないって聞いたけど、よっぽど仲が良いのかな。

「アイツが来る前には帰るから、俺が来ていた事、黙っててくれないか」

「は、あ」

 どうしてそんな必要があるのか分からないけど、わざわざ目の前の男性の機嫌を損ねる必要はない。素直に頷くと、満足そうな顔をして簡易の椅子を出して自分の横に置いた。隣に座れ、という事ですか。

 『よろしく』以外の会話をしなかった人の隣に座ることに抵抗を感じないわけではないけれど、雅さんの話も少し聞けるかもしれない。黙ってそこに座るとメニューを差し出してくれたが、柔らかない表情なんてものは垣間見る事すらできなかった。何なんだろう、この人……。


「マスター、ハイボール」

「はいよ」

 忙しそうなマスターには、お酒を作ってもらう以外の事は期待できなさそう。ハイボールを口に含みながら、何を話そうかと考える。共通の、話題。

「雅さん、忙しいんですか?」

 うん、このぐらいしか思いつかない。

「アイツは、いつも忙しい」

 知らないのか? とでも言いたげな表情に何故か居心地が悪くなる。私が雅さんの仕事が忙しいかどうかなんて、知るわけないのに。

「今日は、一緒に呑むわけじゃないんですか?」

「明日仕事だし。もともと、あまり一緒に呑むことはないからな」

 そうなんだ。この間は、特別だったのか。

 こちらを見る事もしない石川さんに、楽しい会話は諦めた。もともと、私と一緒に呑みたかったわけじゃなくて、席が無くって可哀そうだったから呼んでくれただけ。本当は一人で呑みたいんだから話しかけられるのも迷惑なのかもしれない。そう思えば、彼の態度は納得できる。一人で静かに呑むのが好きなのだろう。

「あんた、さぁ」

 もう隣は知らない人だと思おう、と決めた所で急に話しかけられた。しかも、『あんた』ですか……。

 本当、何なんだろうこの人。

「はい?」

 失礼な物言いに、若干の苛立ちを含んだ私の声が、彼に向って飛びかかっていく。

「雅が、あんたの事好きなの知っているよな?」

「は?」

 知っている、と言っていいのだろうか。でも……。

「雅さんは、モテそうですから」

 笑ってごまかしたのは、なにも社交辞令だけではない。彼は、大人だ。私の前では常に穏やかで、豊富な話題は彼の知識の広さから来るものだ。その上、何を話していても楽しそうな姿は女性の心を引き付けるには充分すぎる。なにも、私でなくとも……。

「モテそうでも、望む相手がいないんじゃ仕方ない。あんたが久々の相手」

 感情があるのだろうかと疑いたくなるほどに淡々と話すその声は、私に何を伝えようとしているのかわからない

「は、ぁ」

「雅が、あんたを気に入っているって事ぐらいはわかっているんだろう?」

「……」

 気に入られている、とは思う。でも、それは私なのだろうか。紅葉の作った私は、私ではない。

「あんた、美人だよな」

 背筋が凍るほどに冷たい石川さんの声に、声がでなかった。真直ぐに私に向けられた瞳に、彩の言葉を思い出す。

「じゃぁ、帰る。アイツ、もう少しで来ると思うから」

 待っていろとも、会わずに帰れとも言わずに帰っていった。空いた席を片付けながら、マスターが隠そうともせずに大きく溜息をついた。

「変わったヤツだけど、言いたいことは、間違っていない」

「あんなんじゃ、何を言いたいのかわからないよ」

「わからないでいたいんだろう?」

 マスターの低い声が静かに私の胸に刺さる。だって、私の欲しいのは雅さんではない。雅さんを欲しいと思えない事、優人を手に入れたいと必死になる事、どうしてそれがいけないの?

 私の思う通りに動いたのは、美樹だけ。

「俺には、今の麻衣は辛そうに見える」

「……前は、逃げていたから」

 そう。失くすことに怯えて、手に入れる努力をしなかった。楽しい時間だけを望んだ。

「私は、今の私が好き」

「……そうか」


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