偶然
闇の中、私の視線の先にいるのは、真直ぐに前を向く若い女性。彼女が見ているのは、穏やかに子供を見つめる男性。横には、ふっくらとした女性がいる。二人並んでいる姿からは、幸せが溢れているのに、見つめている彼女の顔は苦しそう。彼女の心が、私の中に広がってくる。
胸は締め付けられ、指先は雪を触ったように冷たい。彼女の気持ちを、私は知っている。
深く深く息を吐いて足を動かした彼女がたどり着いたのは、駅の改札口の前。行きかう人の少ない駅で、たった一人で切符売り場の前に立った。料金表を眺める行為に意味などない。どこにも、行くところなんてないのだから。
「美樹、ちゃん?」
かけられた声の主は、彼女が幼いころから見ていた弟のような存在。
「司、お帰り」
笑って見せたのは、姉代わりの彼女の意地。精一杯の笑顔を見せているのに、司は笑ってはいない。痛みをこらえる様な顔が、私の胸をえぐる。
「帰ろう?」
街灯の無い、暗い畦道を並んで歩く二つの影。月の無い夜、彼女が幸せであるように闇に願う声が聞こえるようだ。
目が覚めたのは、まだ暗い時間。お祖母ちゃんの夢を見た後は、いつも胸が重い。お祖母ちゃんは、私に何を望んでいるのだろう。
私は、優人が欲しいだけなのに。
「おはよう、麻衣」
「おはよう」
「元気ないなぁ。週末、楽しくなかったの?」
「ううん、週末は楽しかったんだけどね。昨夜早く眠りすぎちゃって、今朝まだ暗い時間に目が覚めて、そのまま眠れなかったんだ。で、今すごい眠い」
ああ、と納得してくれた彩は、よく週末に呑みすぎて睡眠のリズムを壊す。リズムが崩れるとつらいんだよねぇ、なんて心配してくれるのがありがたくて申し訳ない。
定時上がりが叶った木曜日。まだ、『黒猫』に行くには早い。
「ねぇ、ご飯食べて帰らない? たまには私とも遊ぼうよぉ」
彩からの提案は、申し訳ないが都合が良かった。今夜はきっと雅さんがいる。この時間から一人でいたら、きっとくじけて帰ってしまう。
「何食べようか?」
ロッカールームで二人、別々に携帯をいじりながらお店を調べる。会社からは少し離れていて、二人の通勤経路からは外れない。さらに、せっかく行くんだから美味しいお店、出来れば新規開拓、平日プランとかでちょっとお得だといいよねぇ、とくればそんなお店はそうそう見つからない。
結局、会社を出たのは仕事が終わってから三十分以上たっていた。
「ここ、だねぇ。美味しいのかなぁ」
オムライスとピザの、ちょっとお洒落なお店。木曜日とはいえ、夕食時の時間、それなりに店内は混み合っていた。美味しそうな匂いが店内に広がっている。
「お疲れ、あと一日で休みだねぇ」
ビールで乾杯をすると、彩はほとんど一気にグラスを開けた。彩、今日は営業クンに嫌味言われていたな。自分の仕事じゃないのに、資料まとめてあげて怒られるなんて、ありえない。ぶつぶつと呟く彩に頷きながら、のんびりとビールを飲む。愚痴を聞くのは、嫌いじゃない。大変なのは、私だけじゃないと思うとホッとするし、同じように仕事を嫌がる姿にもホッとする。これも、ストレス解消に必要な事だと、思っている。
「麻衣ちゃん?」
そろそろ帰ろうか、と話していた時に頭の上から声が振ってきた。見上げた先にいたのは……。
「雅、さん?」
「やっぱり、麻衣ちゃんだ。仕事、この辺なの?」
「あ、会社は違う駅なんですけど、ここ美味しそうだったから……」
急すぎて、なにも返事が思いつかない私に、雅さんは笑ってくれた。
「そうなんだ。俺の会社この辺だから、たまに同期と来るんだよね。ランチだとかなり安いし」
隣の男性がぺこりと頭を下げてくれる。雅さんとは違ったタイプだが、イケメンだ。
「一緒に食べようって誘いたかったけど、もう食べ終わった感じだね」
「ああ、はい。残念です」
本当に、残念。二人きりじゃなければ、黒猫以外で会うのも嫌じゃない。せっかく雅さんと『黒猫』以外で過ごすチャンスだったのに。
「このあと、『黒猫』行く?」
「ちょっと、寄ろうかと思っています」
「そっか、じゃぁ俺も行く。遅くならない予定だから、待っててよ」
「……はい」
同期の人と一緒だったせいか、少しそっけない態度で店の奥へと行ってしまった雅さんを目で追う私に、彩はキョトンとしている。そういえば、彩には雅さんの話をしたことなかったなぁ。
「誰?」
「ん? 雅さん。最近『黒猫』でよく会う、飲み友達?」
「そう、なんだ」
優人は? と言いたげな彩に気づかないフリをして、飲みかけのグラスをあける。
「これから、会うの?」
「……どうかな? 『黒猫』には行くつもりだけど」
グラスを持ったままブツブツと呟く彩に、不安がよぎった。
「今日、私も『黒猫』行きたい」
「は?」
まだ美華が『黒猫』に来ていなかったころ、一度だけ彩を連れて行った事がある。その一度で、私の優人に対する気持ちをあっさりと見抜き、マスターと二人でニヤニヤしていた。そういえば、『楽しい店だね』と言っていたのに、あれ以来彩は『黒猫』に来ることは無かったなぁ。
「どうしたの? 急に」
「行ってみたいの。いいじゃない、彼が来たら帰るから」
いや、私だってそんなに長い時間はいませんけどね。明日も仕事だし。
いいでしょう? と私の腕を掴む彩を断る理由は、特にない。
「いらっしゃい。あれ? ええ、と彩ちゃん?」
「覚えててくれたんですか? すごい!」
一年近く前、一度だけ来た事のある彩を覚えていたマスターに感動していると、『商売だからな』と笑ってくれた。今日は、機嫌がいいみたいでほっとする。
「何呑む?」
「カンパリソーダ。麻衣も、一緒でいい?」
「私は、ハイボール」
まだ、カンパリは呑みたくない。
「ここで、ナンパされたの?」
「は?」
「さっきの人」
雅さんは……。ナンパ、ではないと思う。呑みに出て、声をかけられて、一緒に呑んで。でも、ナンパとは違う気がする。
「ナンパではないよ。誰かと呑んだ方が楽しいでしょう? 優人と、同じ」
そう。優人とだってきっかけは呑み屋だった。カウンターのみの串揚げ屋。隣に座っていた優人と気が合って、楽しくて、すぐに連絡先を交換した。その時は純粋に、また一緒に呑みたいと思っただけ。
「まぁ、それも出会いだけどね」
困った顔の彩が、何を言いたいのかわからないけど、雅さんのことを気に入らないことは、はっきりとわかる。
―麻衣ちゃん、もう少し『黒猫』にいる? さっきの友達も一緒?―
「雅さんから、もう少しここにいる?って。彩ももう少し、大丈夫?」
「……うん」
両手に握りこぶしを作った彩に疑問は残ったが、とりあえず返事だ。
―二人で一緒に来ました。もう少しだけ、いる予定―
―すぐ行くから、もうちょっと居て―
これは、もう返事いらないよね。
優人もこんな風にしてくれたら、いいのに。
勢いよくカウベルを鳴らして入ってきた雅さんの後ろには、さっき一緒にいた男性。一緒に食事をして、その流れで来たのだから別に不思議はないんだけど、以前マスターが『友達を連れてくることはほとんどない』と言っていたので、てっきりここは普段の生活とは切り離した場所にしているのだと思っていた。
「俺の同期で、石川 智」
よろしく、と軽く頭を下げたその人は雅さんとは違うタイプの男性だった。少し長めのサラサラの黒髪に銀縁の眼鏡が柔らかい印象なんだけど。その瞳は、全く笑っていない。ストン、と彩の横に座ると、メニューを眺めている。
「ごめんね、そいつ愛想無いんだ」
苦笑いした雅さんが、頭を小突いても彼は全く気にしていない。彼は、ここに来たくなかったんじゃないのかと思ってしまう。
私の横に座る雅さんは、いつもと同じように話しかけてくれる。『優人君が好きなの?』あの言葉は、夢だったんじゃないかなんて都合のいい事を考えてしまうくらい。
「麻衣、私そろそろ」
十時を過ぎた頃、彩が残念そうに財布を出してきた。
「私も、もう帰る。雅さん、私帰りますね。また連絡します」
マスターにお会計をしてもらって、石川さんにも頭を下げて店をでる。明日仕事があるのに、遅くなっちゃったなぁ。
「ねぇ、麻衣?」
「なに?」
「報われないのが辛いのは、麻衣だけじゃないからね」
彩の責める様な視線が、真直ぐに私に刺さる。わかっている。それでも欲しいの。私以外の誰が傷ついても、欲しいの。
それを、彩に伝える事は出来なかった。




