傷つける重み
「麻衣ちゃん、遅くなってごめん」
少し息を切らした雅さんがドアを開けたのは、11時を少し過ぎた頃。こんなに遅くまで仕事をしていたのに、来てくれた。雅さん、いい人なんだよなぁ。自分勝手な都合で巻き込んでしまう事を、心から申し訳なく思う。
もう少し早く知り合っていたら素敵な呑み友達になれたんじゃないかなと、不思議な感情が顔をのぞかせる。本当の私に、雅さんが興味を持つはずがないとわかっているのに。
「雅さん。忙しいのに、無理を言ってすみません。私の友人の優人と美華、と、親戚の紅葉です。こちら雅さん。最近ここでよく一緒に呑むの。今日は久しぶりに皆で呑むから、呼んじゃった」
精一杯笑って振り返ると、思った通り美華は雅さんに真直ぐに視線を向け、その視線を優人が追う。雅さんは、視線に気づかない振りをしながら私の肩に手を触れる。
「初めまして、雅です。この店は学生時代から通っているんだけど、普段は平日しか来ないから、週末集まる君たちとは会ったことないよね? 少し年上だけど、よろしくね」
にっこりと笑いながら、美華に向って壁を作ったような気がしたのは、気のせいなんだろうか。私の肩に置かれた手が強い意志を持っているようで、切ない。
「初めまして、美華です」
「……優人です」
嬉しそうな美華とは対照的に、不満を隠すこともない優人がいつもよりも少し低い声をだす。雅さんを呼んだ私にも不満気な顔を見せるのは、どんな顔でも見せられる関係なんだと思うことにした。
「紅葉と申します。よろしく」
にっこりと笑う紅葉に、雅さんは一瞬目を奪われたようだったが、すぐにいつもと同じような穏やかな視線に変わる。
「麻衣ちゃんの親戚って、紅葉ちゃんかな? なんとなく、雰囲気が似ている」
紅葉に似ていると言われることが嬉しくて、悲しい。どうして私はこんなにも我儘なのだろう。
「そう、遠い親戚なの。遠いのだけれど、よく似ているって言われているんです」
にっこりと笑う紅葉を捕らえる美華の視線に言いようのない嬉しさがこみ上げる私は、ひどく意地悪だ。
「雅さんは、どうして麻衣と一緒に呑むようになったんですか?」
美華が、雅さんに遠慮のない視線をなげた。それは、『私の方が上』とわかっている女の視線だ。以前なら、その視線を見るたびにかなわない自分が情けなくて、消えたくなった。
でも、今は……。
「どうして? 楽しいから?」
当たり前だと言わんばかりの雅さんの言葉が自信をくれる。今の私は、美華よりも上。美華の悔しそうな視線が心地いい。
「美華も、平日に来たらいいのに。今度一緒に来よう?」
誘われたと思ったのか嬉しそうな顔の美華に、優人は露骨に嫌な顔。雅さんは困った笑顔を見せている。私は、どんな顔をしているのだろう。
週末は忙しいと言っていた雅さんは、いつもよりも疲れた顔はしていたが私達のやり取りをニコニコしながら聞いてくれて、時折上手く会話に入ってくる。大人、なんだろうなぁ。
「ごめんね、俺明日も仕事だから、今日はそろそろ」
そういって席を立とうとしたのは、日付が変わる直前だった。
「ごめんなさい。気づかなくって。明日大丈夫ですか?」
「うん、平気。ってか、なんで俺明日休みじゃないんだろうなぁ」
心底残念そうな声にホッとした。美華との初対面は、とりあえず楽しんでくれたならそれでいい。
「外まで、送ってあげたら?」
紅葉がそっと私の背中を押した。優人の視線は気になったけど、もっと気になったのは美華の悔しそうな視線。ちょっと煽った方が良いのかもしれない。
「そう、ね。ちょっと外すね、すぐ戻るから」
すでに扉を開けようとしていた雅さんを慌てて追いかける。
「ビルの外まで送ります。この間の、お礼」
「寒くない?」
「大丈夫です」
困惑した表情を見せた雅さんを押して強引に一緒に店を出ると、さっきまで饒舌だったのが嘘のように、無言で階段を上がっていく。背中が、空気が冷たい気がする。
「麻衣ちゃんは、優人君が好きなの?」
突然頭の上から降ってきた言葉に息が止まった。何か言わなきゃと思うのに、何を言ったらいいのか全く分からない。
「優人君に嫉妬してほしくて、俺を呼んだ?」
「……違います」
言葉が出てきたのは、隠す事のない本心だから。優人は雅さんに嫉妬なんてしない。『良かったな、良い人そうじゃん』なんて本気で言ってくれる。嫉妬するのは、優人ではない。
「そう」
まぁいいや、と呟いて先を進む背中に今更罪悪感がこみあげる。
「ここでいいよ、外まで行くと寒いし」
階段を登り切った所で振り返った顔は、いつもと変わらない。
「そんな顔しないでよ。変な事言ってごめん」
「いえ、雅さんは、悪くないです」
「……まぁ、また一緒に呑もう? 友達いても俺は全然平気だから」
じゃぁね、と笑って地上に出ていく姿を黙って見送った。明るく賑やかな週末の夜が、私を拒絶しているように感じて彼に声をかける事すら出来なかった。
「おかえり、寒かったのか? 顔真っ白だぞ?」
「麻衣ちゃん、大丈夫? ブランケット借りる?」
優人と美華の声に頷く事しか出来ない私に、紅葉は可笑しそうに笑っている。雅さんが私の気持に気付いたこと、紅葉は知っている。知っていて、私に送らせた。雅さんの気持ちは、私の罪悪感は、紅葉にとって『面白い』ことだったのだろうか。
「これ、掛けとけ」
マスターが渡してくれたブランケットを肩にかけると、暖かさに少しホッとする。紅葉と一緒にホットウーロンをもらって少しの時間、ヒーターの側にあるボックス席に避難した。
後ろから眺める優人が心の底から楽しそうにしているのがたまらなく悔しい。美華の言葉一つ一つに耳を傾け、丁寧に返している。私の時とは、違う顔で。
「麻衣も、彼といる時はいつもあんな顔しているわよ」
紅葉が思い出したようにコロコロと笑う。そうか、私もあんな顔をしているのか。それは、雅さんでなくても気づくよねぇ。傷ついた、のだろうか。
どんなに強い人でも、傷つかないわけなどない。当たり前の事に、今更気づいた。それでも、ここで引くことはできない。したくない。
「私は、優人が欲しいの。黙っていても、手に入らない」
私の声に紅葉がクスクスと笑う。そう。笑っていて。私の側にいる事を、楽しんでいて。
紅葉の興味をひく『人の心』は、そこら中に溢れている。それでも私を選んでくれたのは、私がお祖母ちゃんの孫だから。私が特別に興味を引いたわけではない。それをわかっているから、紅葉が私を見て笑ってくれると、ホッとする。
「麻衣ちゃん、次はいつ雅さんと会うの?」
閉店間際の店内。優人が席を立った時に美華が私に耳打ちをする。雅さんに興味を持ってくれた。嬉しいのに、思い通りなのに、どうしてか私の心は重くなる。雅さんの後ろ姿が胸を締め付ける。
「いつ、かな? 約束しているわけじゃないから。約束したら、連絡するよ」
羨ましそうな、不満げな顔。私も美華をこんな顔で見ていたのだろうか。
―昨日はあの後遅くまで呑んでいたの? 帰り、大丈夫だった?―
夕方、雅さんからの連絡は私を気遣うものだけ。私の気持ちにも、優人にも一切触れてこない。
―閉店までいましたよ。帰りは明るかったので大丈夫(笑)また、誘ってもいいですか? ―
私も、触れない。傷は隠した方が、都合がいいから。
―誘ってくれるの? 楽しみにしている―
―良かった。また誘います―
―うん、楽しみにしている―
本当は、早い時期にまた美華と雅さんを会わせたい。雅さんは誘えばきっと来てくれるのだから、今のうちに雅さんの休みに合わせて約束をしてしまえばよかったのに。わかっているのに、出来なかった。




