呑み友達
1週間で一番疲れる水曜日。会社帰りにBAR『黒猫』のドアを開ける。平日の9時過ぎ。空いているだろうとは思っていたが、店にはマスターだけだった。
「麻衣? 珍しいな」
「うん。ちょっとだけ呑みたくなって。一杯だけ」
「そうか」
「ハイボール、ください」
「ん」
何も聞かずにハイボールを作ってくれるマスターにホッとする。正直、また少し紅葉に似てきた私に嫌な顔をするんじゃないかと心配だった。
「今日はお客さんいないんだねぇ。平日はいつもこんな感じなの?」
「ずっとこれじゃ潰れちまうよ。暇な日ではあるけど、もう少ししたら残業帰りの方々が来る、はず」
残業帰りで、明日も仕事で、それでも呑みに来る人もいるんだ。それなら、もう少し待ってみようか。
「ねぇ、平日来る人のなかに、イケメンいる?」
「は?」
少し高い声と呆れたような目が、私を責める。マスターは、私がずっと優人を見ていたことを知っている。カウンターの中にある椅子に座って、まじまじと私を見ている。居心地、悪い。
「麻衣、どうした?」
「どうって言われても、イケメンと呑めたら楽しいなぁって思っただけ」
「……優人は?」
「優人は、友達だよ」
「……いいのか?」
「イケメンの呑み友達が欲しいなって思っただけだよ」
「そうか……」
そこまで驚かれるようなことを言ったつもりはなかった。それでも、マスターの視線に罪悪感が大きくなる。だって、私がイケメンと一緒に呑みたいわけじゃないから。
気まずい沈黙が続く中、カウベルが鳴り明るい声が響いた。
「マスター、ビール!」
「あ、イケメン来たわ……」
「え?」
いや、そんな勢いのある若者じゃなくて、出来れば落ち着いた大人のイケメンが良いです。若干不満気な視線を送った自覚はある。でも、目が合った男性はニコニコと笑って私の横に座った。ああ、女の子大好きって、顔に書いてある。
「初めまして。雅です。一人で呑んでたの? 一緒に呑んでいい?」
その軽さに漏れそうになった溜息を必死で飲み込んだ。さっきの言葉を全力で後悔しながらも、すでに隣に座っている男性をまじまじと眺め、グラスを合わせた。好みはあるだろうけど、8割程度の女子が認める様なイケメンで、細身のスーツがよく似合っている。女好きで、メンタル強そうで、失礼ながらよく見ればちょっと落ち着いていてもいいお年頃。ちょうど、いいかも。
最近始まったドラマに、バラエティ。お取り寄せを開始した地方のケーキ。学生時代からはまっているという料理の話。女好きのイケメンさんは、話題も豊富だった。心配そうなマスターを尻目に二人で盛り上がり、あっという間に十一時を回ってしまった。
「うわぁ、こんな時間。ごめんなさい、明日も仕事だから帰ります。また今度」
「うん、また。麻衣ちゃん週末来るの? 俺もたまには週末来ようかな?」
「じゃぁ、金曜日に」
連絡先を聞くことも無く、次に会う日の口約束。慣れている、のかな?
週末、終わりそうにない仕事に溜息をつきながら、お昼は会社から逃げ出して彩と一緒にcafeでランチ。彩は、紅葉と出会った頃の私の変わりようを好ましく見ていたはずなのに、このところ、やたらに心配をするようになった。コーヒーを飲みながら繰り返される『大丈夫?』に過剰に反応してしまうのは、どうしてだろう。
「どの辺が、大丈夫じゃないように見えるの? 私、どこか変?」
柔らかく、言葉を選んだつもりだったが、言葉に含まれた刺はまっすぐに彩に刺さっていくのがわかる。
「変、というか。なんだか、暗い気がするの」
「暗い?」
意味が分からない。綺麗になった、明るくなった、と言ってもらっているし、自分でもそう思う。同じものを見ても今までよりもずっと明るく捕らえる事が出来るようになって、皆が楽しめる様な話題も簡単に探せる。暗くなった、の意味が全く分からない。
居心地悪そうにしていた彩が、考えながら口を開いた。
「表面は、明るいの。でも、なんていうのかな? すごく疲れているような、ぐったりしているような、そんな暗さ? 表情は明るいし、疲れた顔をしている訳じゃ無いんだけどね……」
「全然、わからない」
「そうだよね」
嘘。本当はわかっている。紅葉は、私に鬼の魅力をくれた。でも、それを本来の私が拒否している。本当は、受け入れられるはずなんてない。紅葉の魅力は、私には分不相応なものなのだから。分不相応なものを手に入れようとしているのだから、代償はあるのだろう。でも、そんなことどうでもいいとさえ思える。今そう思えることを、誇りたい。
「欲しいものを欲しいっていうのは、すごく疲れる事なのかもしれないね」
グラスに浮かぶ氷を見つめながら彩が呟いた。欲しいと言うことが、疲れる。そうなんだろうか。欲しいものを胸の奥に隠していたときの方がずっと疲れていた気がする。疲れも、隠れていたのだろうか。
「でも、欲しいものを欲しいと言うのはとても自然なことなんだと思う。私は、今の私を後悔したりしない」
「……うん」
納得はしていないけど、反対もしない。彩は私を受け入れてくれる。全てを話すことはできないけれど、このまま見守っていて欲しい。
定時に終わる事はなかったけれど、一人で食事をする勇気もない私には調度いい。このまま『黒猫』にむかえば、雅さんと会えるはず。金曜に、と約束をした。お酒の上での約束なのはわかっているが、それでも彼はきっとくる気がする。連絡先を聞かなかったのは、必要がなかったから。彼は、素直に紅葉の魅力を受け入れた。
「麻衣ちゃん、よかった」
終電間際の週末の夜。もう来ないのかな、帰った方がいいかなと思い始めた頃になったカウベルに、ホッとしたような声。その声に、私は求められていたのだと自信がつく。
「こんばんは。今日はもう来ないかと思いましたよ。飲み屋での約束なんてそんな物だよなぁ~って」
「来るよ。また金曜ねって言ったでしょう? 約束は守るんだけどさ、週末は仕事が忙しくて、中々早い時間は来れないんだよ。麻衣ちゃんこそ、あんな約束、社交辞令なんだろうと思った」
「社交辞令、に見えましたか? 私、雅さんと呑みたかったんだけどなぁ」
「……ありがとう」
心底嬉しそうな顔に胸が痛くなる。欲しいものを手に入れるためならなんでもできると思ったのに。彼にも感情があることを知っている。まだ、人の気持ちを大事にしてあげたいと思っている私がいる。これだから、鬼にはなれないなんて言われちゃうのかな。
週末の深夜。混み合う店内のカウンターに簡易の椅子を出してハイボールを飲み始める雅さんに、マスターが小さく溜息をもらしたのが聞こえた。
「うわぁ、こんな時間だ……。明日も仕事だから、俺はそろそろ帰るね」
「明日、仕事なんですか? 忙しいのにつき合わせちゃってすみません」
「サービス業だからね。普段は週末はぐったりしているんだけど、今日は楽しかった。これで週末乗り切れるよ。麻衣ちゃん、まだいるの?」
「私は明日お休みなので、もう少し」
雅さんが来た頃から少し店内は空いている。終電もとっくに逃したことだし、このままここで始発までいるつもりだ。
「そうか、この店にいる間は大丈夫だと思うけど、帰り気を付けてね。また一緒に呑もう? 良かったら連絡して」
「あ、ありがとうございます」
名刺を置いて帰っていくその姿は、遊びなれているんだろうとはっきりわかる。私の連絡先を聞かなかったのは、自信があるから? それとも私からの連絡がなくても気にならないということ? どちらでも残念ではあるが、対して気にはならない。だめなら、別に彼じゃなくてもいいのだから。
「麻衣には、合わないヤツだと思うけどなぁ」
雅さんの席を片付け、呆れたような溜息をつきながらマスターが呟く。合わなくてもいいの。だって、彼の相手は私じゃないから。飲み込んだ言葉は、毒となって私の胸に広がっていく。
黙ってグラスを見つめる私の耳に、マスターが口を寄せた。
「賃貸不動産の営業、話している感じでは、成績はそこそこ。人当たりも良くてここでの人間関係も良好。たぶん、金もそこそこ持っているだろうな。ここには学生時代から顔を出しているけど、自分の友達を連れてくることはほとんどない。遊ぶ相手はいるけれど、特定の彼女はずいぶんいない。歳は、たぶん三十歳を少し超えたぐらい」
「……なに?」
「名刺には書いていない、雅の情報。他に言うなよ」
マスターが、その場にいないお客さんの事を話すのを初めて聞いた。私には合わないと言っていたのに。
「ありがとう」
「連絡、するのか?」
「うん、平日も一緒に呑める人いたら楽しいし」
「優人の時とは、随分違うな」
優人とは、違う。だって、優人は私が欲しかったから。雅さんの事は……。
「まぁ、いいさ。若いんだから」
マスター、ごめん。大事な『黒猫』のお客様なのにね。本当にごめんね。
欲しいものを手にするために、必要なら迷わない。迷うことも、迷わない事も、どちらもとても胸が痛い。




