黒い気持ち
優人の家についた時に、タクシーは帰してしまった。駅から少し離れた場所にある優人のマンションは、タクシーが偶然来るような場所ではなく、少し歩きたい今の私には調度いい。
どうしたらいい? 優人が私を欲してくれるようになるには、どうしたらいい?
お祖母ちゃんは、どうやってお祖父ちゃんを手に入れたの? どうして、手に入れたのに自信を持てなかったの? 知りたい。お祖母ちゃんと話がしたい。
どれだけ時間がかかったんだろう。ぼんやりと歩き続けて、気がついたら『黒猫』の前にいた。週末ということもあってかなり遅い時間なのに、カウンターは満席に近い。
「麻衣、いらっしゃい。今日は一人?」
どうしようかとドアの前でぼんやりしている私にマスターが手招きをしてくれたが、カウンターにいる人はほとんど知らない。素直に帰れば良かったかもしれないけど、もう来ちゃったしな。
「今日混んでるねぇ」
「週末ぐらいは混まないとな。一人で呑んでたのか?」
「ううん、さっきまで優人と一緒に」
「そうか」
それ以上触れないマスターがありがたい。ハイボールを飲みながら優人の言葉を考える。美華にフられたと思う何かがあったんだろう。何があったの? どこであったの? 思いついたのは、この店だった。
「ねぇ、マスター。最近、優人と美華、二人で来た?」
「最近、かぁ。前に麻衣が紅葉ちゃんと来た時以来、二人では来ていないなぁ。どっちもたまに一人で来るけどな」
二人では来ない。優人がフられたかもしれないと不安になるには充分な理由だ。私だって、誘っても誘っても断られているときは、もう駄目だと落ち込んだし何度も泣いた。それでも、ちゃんとフられていないから、諦められない。その気持ちは、誰よりもわかる。
「前に、私達が帰った後、何かあった?」
マスターは、しばらく私を見つめた後に溜息と一緒に『別に』と呟いた。怒っている気がするのは、私の気のせいか。
「紅葉ちゃんを真似ても、綺麗にはなれないぞ」
「……なんで? 」
「あの娘は、綺麗な娘だよ。でも、麻衣とは違う。無理に真似ても、麻衣は綺麗にならない。わかんねぇだろうなぁ」
「私は、紅葉みたいにはなれない?」
「なれないね」
溜息と一緒に呟かれた言葉が、私に刺さる。紅葉にはなれない。どれだけ紅葉の魅力をもらっても紅葉のように綺麗にはなれない。
私は優人を手にすることが、出来ないの?
どうやって帰ってきたのか、気がついたら自宅のベッドに転がっていた。酔っているわけじゃない。頭はすごくすっきりしているし、酔って寝てしまった後のあのだるさもない。でも、マスターの言葉を聞いてからの記憶がはっきりしない。
どうして、私じゃダメなの? そればかりが頭をめぐる。
カーテンを開け放している窓から、空が白んでくるのがわかる。夜が明けても、何も変わらない。
優人に求められないなら、私なんていらない。
「……こ。百合子」
呼ばれているのは、私? 声のする方へ顔を向けると、大好きな人の笑顔がある。嬉しそうで、誇らしげな笑顔。なにか、良い事があったのだろうか。
「お土産。綺麗だろう」
差し出されたのは、紅葉の簪。消え入りそうな紅い光を反射して輝いている。
「紅葉で山が真っ赤になっていた。いつか、一緒に見に行こうな」
一緒に見たいと思ってくれていることだけで、十分に嬉しい。そんなこと、この人が気づくことはあるのだろうか。
「これ、桜子さんにもあるんだ」
「……桜子にも?」
「お前と揃いの簪だ。一人で別の町に嫁いだんだ、寂しいだろう。今度、二人で渡しに行こう」
この人は、まだ桜子を好きなんだろうか。怒りでも悲しみでもない感情が私の胸に広がり、心が重く沈んでいく。どうして……。
この人は、私が鬼になっても手に入らない。どうしたらよかったの。紅葉の簪が、私をあざ笑っている気がする。鬼に頼った愚かな私は、何一つ手に入れる事はできないのだろう。
「ありがとう」
簪を受け取った桜子をみて、幸司は本当に嬉しそうに笑う。それは、私には向けられたことのない笑顔。仕事で疲れているんだろうに、休みの日にざわざわ汽車に乗って簪を渡しにきて、幸司になんの得があると言うのだろう。幸司は、私にも同じようにしてくれるのだろうか。
簪をもらってからというもの、私の胸には真っ黒な感情が巣くっている。これは、どうしたらなくなるのだろう。
「桜子、喜んでいましたね」
「ああ」
何より悔しいのは、私が自分の気持ちを伝えられない事。この黒い感情を伝えてしまったら、彼はどう思うのだろう。彼を手に入れるために鬼に力を借りたことを知ったら、彼は離れていくのではないだろうか。彼を手に入れたかった私の気持ちを、わかってくれることは無いのだろうか……。
なにも言えずに、汽車は走る。私の気持ちを知りながら、彼の気持ちに気付くことなく素直に簪を受け取った桜子が、憎い。大好きだった桜子なのに、憎い。
「桜子から、お礼状が届きましたよ」
本当なら、知らせたくなどなかった。でも、知らせずにいてもきっと彼の耳に入る。その時に、私の黒い気持ちを知られるよりも、私から。
「ああ、そうか」
上機嫌で桜子からの手紙を読む幸司。私を見て。その手紙よりも、側にいるのに。どうして。
桜子なんて、消えてしまえばいいのに。そう思うごとに、幼い頃の記憶が蘇る。鬼に魅入られた子供として、避けられていた中、桜子だけは私を見てくれた。桜子がいたから、幸司と話すこともできた。感謝も、尊敬もちゃんとある。でも、幸司が桜子をみると、それだけで全てが吹き飛んでしまって、何もわからなくなってしまう。
「今度、一人で桜子に会いに行っても、いいでしょうか?」
「もちろん。きっと桜子さんも喜ぶよ」
この会話が、二人を永遠に会えなくするなんて、思いもしなかった。私はただ、桜子に幸司にかかわらずにいて欲しかった。
大好きな人と結ばれたのだから、私の夫に笑いかけないで。ただそれだけだったのに、私は二度とあの村に帰ってこないで欲しいと言ってしまった。桜子の、帰る場所を奪ってしまった。
知らなかった。桜子のご主人に他の女がいたなんて。彼女が、悩んでいたなんで。だって、彼女はいつも幸せそうだった。
「ごめんね。幸司には、二度と会わない。村に帰ったとしても貴女の家には近づかない」
最後に聞いた彼女の言葉は、嗚咽が混じっていた。それは、彼女が見せた弱さ。弱さを見せる事のできる強さ。私が欲したのは、きっとこの強さなんだろう。
「さよなら」
汽車を見送りながら呟く声が胸に刺さり、桜子の寂しさと悲しさが伝わってくる。
「さよなら」
呟いた私の声は風に掻き消えて、桜子の耳には届かないだろう。私の胸には、黒くて重い気持ちが広がっていた。これで、幸司は私だけを見てくれるのだろうか。
黒い気持ちが晴れないまま日々は過ぎ、桜子は逝ってしまった。それは、私が紅葉に願ったからか、それとも……。
紅葉がかかわっていなかったとしても、私は桜子の死を願った。それは変わらない事実だ。
「助けて……」
月の無い夜に、何から救われたいのかもわからないのに紅葉に願う。
紅葉は、二度と私の願いをかなえる事はないのに。
「ごめんね、麻衣。ごめんね」
小さな頃に聞いた、私を慈しむお祖母ちゃんの声。どうして謝るの? 私は、紅葉に会えて幸せだと思うのに。お祖母ちゃんは幸せではなかったの?
「鬼は、人を幸せにはしない」
嫌。聞きたくない。お祖母ちゃんなんて、嫌い。
両手で耳をふさぐが、届いた声は頭から消えてなどくれない。私は紅葉に魅力をもらって幸せになる。優人が手に入るなら、他に何もいらない。私のままでは、幸せになんてなれないの。




