踏み出す
「紅葉ちゃん、親戚なんだって?」
おとなしく水を飲んでいる私に、マスターが声をかけてくれた。
「うん、遠い、親戚」
「……麻衣は、紅葉ちゃんにはなれないよ」
「わかっている」
「ならいいんだけどな。お前、紅葉ちゃんを真似ているだろう? でも、なぁ。俺は以前の麻衣の方がいいと思うぞ」
マスターが視線をさまよわせながら言葉を紡ぐが、言っている意味が私にはわからない。いや、わかりたくもない。紅葉の魅力を手にした私よりも以前の私の方がいいなんてことがあるわけない。鬼の魅力を手にしても優人を手に入れることができないのに、ありのままの私なんかじゃ、優人は絶対に手に入らない。
私は、優人が欲しいの。
無言になった私に、マスターは溜息をつきながらお水のお代わりをくれた。
「綺麗になりたいって努力は認めるけど、やりすぎはどうかと思うって話だ。オジサンの独り言だと思って聞いとけ」
「……」
今の私は、やりすぎなんかじゃない。むしろまだ足りないくらいだ。以前の私なんていらない。今のままじゃ、優人は手に入らないのだから。
「オジサンの独り言は、いらなぁい」
酔った勢いで放った言葉に、マスターは痛そうに顔を歪めた。
「そうか、まぁ今はそうなんだろうな」
「……うん」
ごめんね、の言葉は小さくてマスターには届かなかった。カウンターでゆっくりと水を飲んでいると、少しずつ、酔いがさめてくるのがわかる。後ろからは、甘ったるく楽しそうな声。もう、帰ろうかな。
「マスター、お会計してもらっていい? もう、帰る」
「終電、とっくにないぞ」
「タクシー拾うから平気」
タクシー代をケチって歩いて帰ったことも数回。心配したマスターに、ボックス席で寝ててもいいから明るくなってから始発の電車で帰れ、とのありがたいお言葉をいただいて以来、終電を逃したら大人しく朝までいる。
「大丈夫。ちゃんとタクシーで帰る。紅葉も一緒だし。今日は、これ以上いたくないの」
「……そうか」
会計を待つ間に、紅葉を呼びに行く。今日は帰ることを伝えると紅葉の横にいるご機嫌なお兄様がご馳走してくれるという。優人の前で男性からご馳走になるのは嫌だと思ったが、紅葉にご馳走したいんだろうな、と思いなおして素直にお礼を言った。関係のないはずの美華は悔しそうにしている。美華も、酔っているんだな。
「じゃぁ、またね」
「ちゃんとタクシーで帰れよ」
ドアの外まで送ってくれたマスターに手を振って、地上へと続く階段を登る。
「楽しかったわね」
本当に嬉しそうに、紅葉が笑う。
「美華と、何を話していたの?」
「気になる?」
「気に、なる」
クスクスと笑う紅葉に、腹が立つ。でも、一番腹が立つのはこんなに紅葉の魅力を手にしているのに卑屈になって、もらったものを生かすこともできない自分自身。
「麻衣が綺麗になったって話よ。やっぱり、人は面白い」
「面白い……」
なにが、面白いのだろう。
部屋に着くころには酔いは覚めていたが、割れるように頭が痛い。そんなに呑んだかな?
「大丈夫?」
にっこりと笑って冷蔵庫からペットボトルの水を出してくれる。紅葉は、私を見るときはいつも笑っている。夢で見る紅葉も、お祖母ちゃんの事を思い出している紅葉も、色々な表情をしているのに私に向かうときはいつも幸せそうに笑っている。
「紅葉は私といて、面白い?」
深く考える事なく口をついて出た言葉は、自分に向って刺さる。面白いと思うから、紅葉は私に魅力をくれる。そうでなければ、私は捨てられる。わかっているのに、わからなかった。
「私が麻衣を面白いと思うから、いいのよ」
「……」
真意はわからないが、紅葉の言葉に嘘はない。紅葉がいいと言うのだから、いいのだろう。美華といるよりも、私といる方が面白いのならそれでいい。
紅葉が感じる面白さとは、なんだろう。人は面倒だからこそ、退屈はしないと言っていた。
何をしても優人が欲しい。誰も私の邪魔をしないでと心から願う。でも、その願いを優人に知られたくはない。浅ましい心は、私一人の胸に一生隠しておきたい。
「鬼は、心を隠したいとは思わないの?」
「隠すような心は、持っていないのよ」
一瞬の間をおいて、さも楽しそうに笑う。私だって、隠すような心を持ちたいわけではない。でも、知られたくないと思う。優人には、綺麗な私だけを見て欲しいと願う。
「人は、弱いのに強い。強いのに弱い。百合子もそうだった」
強さなんて、どこにあるのだろうか。お祖母ちゃんだって後悔でいっぱいだった。悔やむのは弱いから。強ければ、悔やんだりせずに自分のしたことをすべて受け入れられるのではないだろうか。
「いいのよ、麻衣はそのままで」
艶やかに笑う紅葉が妬ましい。紅葉のように、隠したい心を持たすに生きられたならどれだけいいだろう。鬼に、なれたらいいのに。
「麻衣は、そのままで」
穏やかな声色が耳の中を踊り、頭に靄がかかっていく。紅葉が良いと言うのだから、良いのかもしれない。
「紅葉、私を捨てないでね」
肯定も否定もせずに闇に溶ける鬼。鬼を溶かした部屋の空気は潔く澄んでおり、なおさら私を弱くする。
恋を知らない紅葉は、嫉妬に狂い美華を憎みながらもそれを隠そうとする汚い私を眺めて楽しんでいる。 優人が手に入るまで私は紅葉を楽しませることができるだろう。もしかしたら、優人を手に入れてからもずっとずっと……。
お祖母ちゃんは、何故後悔したのだろう。何よりも欲しかったものが手に入ったのに。黙っていれば良かったのだ。何も、わざわざ汚い自分を教える必要なんてなかった。
私は、お祖母ちゃんみたいに優しくなんてない。汚い私は、私しか知らなくていい。
もっと早く紅葉の魅力を手にしていたら美華が現れるよりもずっと前に、私が優人を手に入れた。こんなに、苦しむ事も汚れる事もなく、真直ぐに愛して愛されることができた。私を鬼から守ろうとしたお祖母ちゃんが、憎い。大好きだったからこそ、裏切られたようで悲しい。
深い灰色の霧に囲まれている。自分の指先すらもうっすらとしか見えない霧の中、なぜか恐怖は感じなかった。灰色だった霧はやがて黒く染まり、私の身体は闇に溶ける。
目が覚めた時には、ひどくすっきりとしていた。お祖母ちゃんの夢を見た時のような、切なさはない。闇に溶けていく身体に、少しの恐怖もなかった。
私は、どこか壊れてしまったのだろうか。
週が明けたらいつも通りの毎日。
朝起きて、会社に行って、仕事をして、帰宅する。時間が空くごとに携帯を見つめるけれど、優人からの連絡は一切ない。いつから、私は自分から優人に連絡をすることができなくなってしまったんだろう。どうして、出来なくなったんだろう。鬼の力でも、私の心を強くしてはくれない。
以前は、週末になるごとに、今日はどこで呑もうかなんて会話を楽しんでいた。そこに美華が入ってきて、優人が美華を見つめる視線に気づいた頃には優人から連絡が来ることはほとんどなくなり、私から誘っても断られることが増え、臆病な私は自分から連絡をすることができなくなっていった。それでも、美華が優人を見る視線は私とは違う。優人の視線を満足げに受け止めるのに、心を受け入れる事はしない。歯噛みする私を気遣う様な素振りを見せながら、笑っていた。笑っていたのだ。
私は、女としての美華が憎かった。憎いのに、憎くて仕方がないのに叶わない事が悔しかった。
今は、少し変わった気がする。
美華は以前よりもずっと私を敵視している。私へあてつける為に、優人へ好意を寄せ始めたような気すらする。
その視線に、少しの優越感と大きな不安が日ごと胸に広がってくる。このまま美華が優人を受け入れたら、私はどうしたらいいんだろう。今の私では、まだ優人に愛される事はできないのだろうか。
―今日、二人で呑みにいかない?―
昼休み、息を止めて送信をする。律儀で優しい優人のことだから、必ず返事は来る。でも。それが私の望んだ返事ではなかったらどうしよう。どうして私は、こんなに自信がないんだろう。
―今日ちょっと遅くなりそうなんだけど、大丈夫?―
私の送信から1時間以上だってからの返信。今日は、美華との約束はしていないのか。優人と二人でなんて、いったいいつ以来ないんだろう。
―いいよ―
自分でも驚くぐらいの短い返信。余計な事は書かないように、と思ったらこれ。自分で嫌になる。
―仕事終わったら、連絡する。ご飯食べに行こう―
―わかった―
再度短すぎる返信をして、画面を閉じる。優人は遅くなっても、私は定時に終わらせたい。週末だから仕事は残せないから、早く終わらせなくちゃ。




