誘い
「麻衣、お母さんはどうだった?」
「ああ、大丈夫。軽い捻挫だって。お父さんが大げさだったの」
比較的休みがとりやすい会社ではあるが、急遽有休を申請するのはそれなりに急な用事がいる。木曜日に母が転び、父だけでは不安だから実家に帰りたいと上司に訴えたのが、すでに社内に広まっていたらしい。若干心苦しいが、鬼に会いに行ったなんてたとえ彩にだって言えない。
「そうかぁ、でも、大げさなぐらいでいいのかもよ? たいしたことないって言いながらひどくなっちゃう人多いみたいだから」
ホッとしたように息をもらす彩。本当に心配してくれたんだと思うと申し訳ない気持ちになった。せめて彩にだけは、サボったって伝えなきゃな。なにも、鬼がどうとかいう話はしなくてもいいよね。
「なんだ、そんなことだったんだ」
会社帰りに彩を誘って駅の側の居酒屋へ。母が倒れたわけではなくちょっと最近疲れていたので実家に帰りたかったのだと暴露すれば、彩はケラケラと笑ってくれた。
「休暇取る前とか、連休中にちょっと連絡くれたらよかったのに。心配しちゃったよ」
彩のお母さんは、春先に倒れてまだ病院にいると聞いている。だからこそ、自分の親と同世代であろう私の親のこともかなり気にかけてくれているのを知っていたのに、なにも考えていなかった。
「ごめんね、本当に」
「いいよ~、私が勝手に心配してたんだから。しかも心配っていっても麻衣一人っ子だから介護で実家に戻るとか言われたら困るなぁ、ってこと。自分の心配だから」
彩の気遣いからの言葉なのは百も承知なのに、その言葉に甘える以外できない自分が情けない。せめて今日は奢るからと言えば嬉しそうに追加の注文をして見せるが、私の財布が痛まない程度の注文。今の会社に就職して一番良かったのは、彩と知合えたことだと心底思う。
「心が疲れた時に、ホッとするのは大事だよ」
嬉しそうに呟いた彩の言葉は、上手く私の中に入ってこない。
週始めということもあって、2件目に行こうなんて言葉は出ずに解散となる。適度に混み合う車内には残業帰りらしき疲れた人、一件飲んでほろ酔い気分でご機嫌な人、元気一杯の学生。この時間の電車は様々な人がいる。自分は、周りから見たらほろ酔い気分のご機嫌な人に入るのだろうか。
「人って見た目じゃわからないものよねぇ」
興味深げにつぶやくその声は。
「紅葉?」
「なぁに?」
いつからいたのか、私の横で紅葉が吊革につかまり周りをキョロキョロと見まわしている。
「さっきから、居た?」
「ええ、ずっと。どうして?」
何を当たり前のことを、と言わんばかりに小首をかしげる姿に言葉も出ない。突然現れたのだろう紅葉の姿を、不思議そうに見つめるような人は誰も居ない。これも、鬼の力なの?
「一緒に帰りたかったの」
私にだけ聞こえるようにポツリと呟いた小さな声がじんわりと胸に広がる。何故だろう、すごく、嬉しかった。
いつかのように優人の所まで連れて行ってもらえるのではないかと期待していたが、紅葉は窓に映る車内の人に夢中ならしく視線だけをせわしなく動かし、一言も話さない。私と帰りたかったわけじゃなくて、黙って一緒に電車に乗ってくれる人が欲しかっただけか、と理解したころには降車駅まであと一駅だった。
「紅葉、降りるよ」
紅葉の裾をつまみ電車から降りると、普段は感じることのない視線がまとわりついた。それは決して私への直接のものではなくて『紅葉と一緒にいる私』に向けられたものであることはよくわかっている。
改札を通り、コンビニに寄ってからマンションまで帰る。買い物の時間を含めても十数分だったが、その間紅葉は終始楽しそうにキョロキョロとしている。
「人の世界は、面白い?」
「ええ、とても。私は一人じゃこれないから、麻衣がいてくれて助かるわ」
一人じゃ来れない、でしょうねぇ。『いつの間にか側にいる』というのは何度も経験しているが、『一緒に歩く』となると終始キョロキョロとして、堂々とお店に入っていくのに入った後はどうしていいかわからずに戸惑っている。何年生きているのかわからないけど、人の世界での紅葉は知識がないのに好奇心が一杯の幼い子供だ。
「飲める?」
そんな紅葉の為に私が買ったのは、リンゴジュース。ストローを指して渡してあげると嬉しそうに両手で受け取った。ああ、こういう所、すごく可愛い。
「今の紅葉と、昨日までの紅葉は、全然違うのね」
「そう? どんなふうに?」
「昨日までは、とても大人びていて、悲しそうで寂しそうで、でも幸せそうで。今日は、ただひたすらに楽しそう」
私の言葉に、紅い唇が緩やかに弧を描く。
「永く生きる鬼でも、感情は日々動くのよ」
それは、そうなんだけど。それでも、全く別の顔、幼い子供のようになってしまった紅葉には、聞きたかったことが上手く聞けない。お祖母ちゃんは、どうして悲しかったの? どうやって、お祖父ちゃんを手に入れたの? 私が知りたいことは、夢にはでてきてくれない。
「紅葉の知っている、お祖母ちゃんのことを教えて」
「百合子が、麻衣に伝えているでしょう?」
「夢で、一方的に記憶をたどるだけ。知りたいことは、教えてくれないの」
「それが、百合子が麻衣に伝えたい事なのでしょうね」
その言葉は、教える気は無いと言う事だろう。
お祖母ちゃんが伝えたいことを、私は受け入れることができない。私が知りたいのは、お祖母ちゃんの後悔ではなく、お祖父ちゃんの心を手に入れた時の事。
「紅葉は、お祖母ちゃんを見ていて、辛かった?」
「いいえ? 楽しかったわ」
紅葉が辛かったなどと言うはずがないのはわかっていたのに、単純な疑問を抑える事ができなかった。お祖母ちゃんの話をする時、嬉しそうに、悲しそうに、愛おしそうに瞳が揺れる。手に入らない者を欲しいと訴え、嘆く姿を見るのはどんな気持ちだったのだろう。人の気持ちとは少し違うのかもしれないけれど、私に興味を持つほどにお祖母ちゃんを大切にしていた。
「私は、胸を張って紅葉と歩く。お祖母ちゃんみたいに、泣くことも後悔することもない」
口をついて出たのが、誰に伝えたかった言葉なのかわからない。それでも、私はまっすぐに紅葉を見つめ、紅葉も目を細めて私を見つめてくれた。このままの私では愛されないのなら、仕方ない。欲しいものを手に入れるために鬼に力を借りる事がどうして泣くことになるのか、この時の私にはわからなかった。
―久しぶり。黒猫で呑んでるんだけど、来ない?―
週末の優人からのラインに、心臓が音をたてる。優人からラインが来たのは、もう3カ月近く前。その時も、私からの誘いを断る内容だった。優人の方から誘ってくれるなんて、いつ以来だろう。
嬉しい。もう家に帰っちゃった、なんて絶対に言いたくない。でもどう頑張っても1時間はかかる。なんて返事をしようか迷って焦った私の指はやけに正直になってしまった。
―一人で呑んでるの?―
どうか、一人でいてほしい。私と二人で呑みたいのだと言ってほしい。
くだらない希望を持って送ったラインは、すぐに帰ってきた。
―美華もいるよー
さっきよりも大きな音を立てて心臓がはねた。血が逆流を始めたように、手足が冷えていく。既読になっているんだから、返信しなきゃと思うのに、指が動かない。
優人に会いたい。今すぐ化粧をして、服を着替えて、側に行きたい。なのに、美華の顔を思い浮かべると泣きたくなる。優人が嬉しそうに美華を見つめる姿を見たら、私は泣くんじゃないかとすら思える。
自分の立ち位置を理解して諦めていた頃なら耐えられたことが、希望を持ってしまった今では耐えられない。どうしよう。
―都合悪い?―
既読になっているのに中々返せない私に、優人が焦れる。行かないって言ったら別の人を誘うの? せっかく誘ってくれたのに、そんなこと許せない。
―行くけど、ちょっと時間かかる。しばらくいる?―
―ラストまでいるつもりだから、ゆっくりでいいよ―
ラストまで、美華と一緒なの? その後は?
私の恋人じゃないのだから、嫉妬しても仕方ない。優人が誰といるかなんて、優人が決める事。ずっと、そう思いこんで惨めな自分を隠していた、卑屈な私。
けれど私は鬼の魅力を手に入れる。それなら、こんな卑屈な気持ちはもういらない。欲しい物は、欲しい。




