愛おしく 憎く
「麻衣」
高く澄んだ、紅葉の声。この声すらも欲しいと願う私は、とうに自分を見失っているのだろう。
「簪、随分綺麗になったのね」
まだ濡れている簪はタオルの上に置き、窓辺で風に当てている。『綺麗な簪』とはいいがたいが、それでも土の中から掘り出した時よりはずいぶんましになっている。
桜子さんの簪は紅葉に、自分の簪は土の中へ。お祖父ちゃんからの贈り物を、心を、二つとも手放したお祖母ちゃん。私なら、手放したりしないで二つとも自分の物にしたい。自分以外に向かう心でさえ、全て欲しい。
「百合子は、桜子のことも好きだったの。桜子を好きでいる幸司の事も」
桜子さんを好きでいるお祖父ちゃんは、きっと幸せそうに笑っていたんだろう。自分に向かないと知っていてもその笑顔を愛おしいと思う気持ちには覚えがある。
美華を憎む事の出来る私は、幸せなのかもしれない。憎むことで、嵐のような激しい感情が自身の外に向かうことができているのだから。目の前が滲んでいく私に紅葉が笑う。
「憎んでも、いたのよ。桜子は地主の娘で幼いころからなんでも持っていたのに、親の決めた結婚を断ってまで自分の焦がれた相手と結婚した。幸司の気持ちには、爪の先ほども気づかないで」
夢の中、欲しくてたまらなかった紅い羽織。あれを着ていたのは、きっと桜子さんなのだろう。『どうしたの?』不思議そうに呟かれた声は、欲しいものが手に入らない事など知らない純粋で残酷な声。どれだけ憎くて、どれだけ愛おしかったのだろう。
「でもね、百合子は子供の頃から桜子を知っていたの。彼女に悪意がないことも知っていた。知っていたからこそ、迷って、苦しんだ」
可笑しそうに笑う紅葉は、やっぱり鬼なのだと嫌悪する私がいる。だけど、人の迷いを、苦しみを面白いと思ってくれるのならと鬼に縋る私もいる。
「桜子を見つめる幸司は、幸せそうだった」
それを見つめるお祖母ちゃんは、とても辛かった。
「だから、幸司が桜子に贈った簪を手にしても、捨てる事も自分で持つこともできなくて、私にくれたの。幸司が百合子に贈った簪は土の中に埋めたのに、幸司が桜子に贈った簪は、埋める事すらできなかったの」
どうして、自分に贈られた簪を埋める必要があったのだろう。たとえお祖父ちゃんが心の底で桜子さんを思っていても、身体はお祖母ちゃんの側にいたのに。
「紅葉は、どうして簪を私にくれたの? 」
お祖父ちゃんの桜子さんへの想い。お祖母ちゃんの嘆き、諦め。そして悲しみのつまった簪は、紅葉にとっては、『面白い』ものだろう。どうして、手離したりしたのか。
「百合子が、そう望んだの」
艶やかに笑う紅葉があまりにも綺麗で、言葉の意味を考える事が出来なかった。
「百合子の簪には、寂しくて悲しくて、とても辛い気持ちが宿っている。でも、桜子に贈られた簪には穏やかな愛ばかりが宿っている。百合子はそう信じていたから、麻衣が持つことを望んでいたの」
穏やかに微笑む紅葉は、満月のように輝いている。
「百合子はもういない。でも、百合子の寂しかった気持ちはまだ残っているの。本当は知っていたのに、知らないふりをしたから、どこにも行けずに、ずっと」
「……紅葉?」
悲しそうな瞳が闇を見つめる。寂しかった気持ちだけがどこにも行けずに残る。どこにも行けない寂しさを重ねて生きたお祖母ちゃんは、いつまで一人でいるのだろう。
「お祖母ちゃんは、紅葉の魅力を手に入れたのでしょう?」
「ええ」
「それでも、寂しかった?」
「そうね」
「お祖父ちゃんの心が、桜子さんにあったから?」
「幸司の心は、どこにあったのかしらね? 幸司しか、知らない事よ」
思い出すようにゆったりと笑う姿が、幼い私に笑いかけたお祖母ちゃんの姿に重なった。お祖母ちゃんは、幸せそうだった。
「麻衣の知っている百合子だけが、百合子ではない。美樹も、そう」
「お母さんも?」
「そう。麻衣の知らない美樹もいるの」
物心つく前に母を亡くしているのだから、寂しい子供時代だったのかもしれない。だけど幼なじみと結婚し、姑とも良好な関係を築いていた。お母さんは幸せな主婦なのではないか。
鬼に魅入られた私を羨むように見ていたお母さんも、鬼に力を借りたいと思った事があったのだろうか。
「紅葉は、お母さんの事も知っているの?」
クスクスと笑う紅葉に、何故だかとても寂しくなった。
「知られたくないと美樹が思っているのなら、麻衣が知る必要はない。麻衣は、知らなくてもいいの」
穏やかに笑いながら、私の頬を撫でる。陶器のようなすべらかな手は氷のように冷たく、紅葉が人ではないことを思い出させた。
「紅葉の魅力を、私にちょうだい」
口をついて出たのは、いつかと同じ言葉。少し目を丸くした紅葉が、さっきまでとは違う屈託のない笑顔をみせた。
目の前が歪み、意識が闇に沈んでいく。
「美樹ね、司ちゃんのお嫁さんになってあげる。そうしたら、おばちゃんは美樹のお母さん、おじちゃんは美樹のお父さんになるんでしょう?」
「……司が、いいって言ったらな」
幼子を膝に乗せ苦笑しながらも、その声はどこか嬉しそうだ。桜子の娘が、幸司の息子を望んでいる。幸司もそれを望んでいるのだろう。やっぱり、私が手に入れるべきではなかったのだ。胸の奥に闇が広がり、目の前にいるはずの幸司の背中が、遠くかすれていく。
あんなにも望んだのに。やっと手に入れたのに。どうしてこんなに苦しいのだろう。
大好きだった桜子の死を望み、大好きな幸司の幸せを願えなかった事への罰なのだろうか。この幼子が司と結ばれたとき、私の罪は許されるのだろうか。
幼い頃の桜子と同じ顔をして屈託なく笑う美樹を、司も幸司も愛している。私は、どうすれば愛されるのだろう。
「美樹ねぇ、おばちゃん好き。おばちゃんがお母さんだったらいいのに」
幸司の肩越しに見せた屈託のない笑顔。嬉しいのか悔しいのか悲しいのか、私の意志とは無関係に目の前が滲む。思わず顔を背け台所へと逃げ込んだ。
いつか、あの娘が私の罪を許してくれるのだろうか。己の母を奪った私の罪を知っても、あんな風に笑いかけてくれるのだろうか。
幸司によく似た瞳が、桜子によく似た女性を追い切なげに揺れている。幼い頃、あんなに真直ぐに司を見てくれた力強い瞳は、今は別の男性を追って心細げに揺れている。
どうしてこうなのだろう。桜子は、今もなお私を苦しめる。幸司の息子が、桜子の娘を追う。しかし、想いが届くことはない。いつまで続く? 幸司の想いを、叶えてあげる事は出来ないの?
「美樹と、結婚する」
月のない夜、射抜くような真直ぐな瞳を持った司。それは、とても喜ばしいことのはずなのに、幸司は私の横で全てを飲み込むように押し黙っている。
「いいのね?」
精一杯の私の問いに、迷うことなく力強く頷く。ああ、私にも幸司にもできなかったことを、この子が、司が叶えてくれる。
皆が喜びに瞳を滲ませる中、憂いた瞳でうつむく白無垢の花嫁。真直ぐに前を見つめる花婿。和やかとは言い難い式は滞りなく進み、幼い美樹との約束は違えることなく守られた。
「よかったなぁ」
二人になった家でお茶をすすりながら幸司が呟いた。幸司の息子が、桜子の娘と結ばれた。『よかったなぁ』は誰の事なんだろう。肯定も否定もできずに黙る私を覗き込む不安げな瞳。最後に幸司の顔を見たのは、いつだったろう。同じ家に住み、夫婦として時を重ねた。それでも、私はずっと背中だけを見ていた気がする。
「迷いのない瞳だ、よかったなぁ」
覚悟を決めた瞳、迷いのない瞳だった。これまでどんな想いをしてきたのか、どうしてあの瞳を手に入れたのか、何一つわからないが彼の門出を祝ってやりたい。私にも幸司にもなかった覚悟が、あの子にあることを願う。
「そうねぇ」
その夜、久しぶりに二人で並んで座った。ずっと、こうやって過ごしたかったのだ。本当は、たったそれだけを望んでいたのに。私は、欲しがり過ぎたのかもしれない。
白い壁に囲まれた小さな部屋。穏やかに眠っているような幸司。白衣を着た男性が何か言っているが、耳から入る言葉は、心に届くことがない。泣くことも縋ることもできずに、ただ、立ち尽くしていた。




