狂おしく
「おやすみなさい」
十時を少し過ぎたばかりなのに部屋に戻ろうとする私に、お父さんは不満そうな顔を見せたが何も言わない。隣に座るお母さんは、昔と同じように『お休み』と笑った。
紅葉を邪だと思うかと問いた時に、否定も肯定もしなかったお母さん。ただ、美しい鬼だったと言った。お祖母ちゃんは紅葉が私に近付くことが無いように願っていたのに、お母さんは、そうじゃない。むしろ、紅葉に会えた私を羨んでいるようにも感じた。
鬼とわかっていても魅かれてしまうことは、誰よりも私が知っている。
「何をしに、ここまで来たの?」
既に部屋で待っていた、美しい鬼。呆れたような声すら美しい。
『何をしに』かぁ。
「紅葉に会いに来たの。この場所で、会いたかったの」
「……そう」
感情の読み取れない静かな声。黒く光る瞳は、見えないものを探すように彷徨っている。
「お祖母ちゃんとは、庭で会っていたの? 」
「百合子がここに嫁いでから、何年かの間よ。新月の夜、闇にまぎれて私を呼ぶの。本当に、失礼な娘だったわ」
小さく嘆息した横顔からは、憎しみや憤りは感じない。『失礼な娘』でもいいぐらい、とても大切にしていたのが伝わる。
「退屈しのぎには、なった?」
「そう、ね。あの娘といた時は、退屈だとは感じなかった」
懐かしむように、嬉しそうに庭を見つめる紅葉。紅葉に愛されていたお祖母ちゃんが、羨ましくて誇らしい。
「紅葉は、殺してない。お祖母ちゃんの願いは、桜子さんを殺してなどいない」
「……百合子は、そうは思わなかったのでしょうね」
感情のない声に胸が詰まる。本当に、そうだろうか。紅葉の『さよなら』から、何も感じ取らなかったんだろうか。
「麻衣の知ってる百合子だけが、百合子ではないわ」
記憶の中のお祖母ちゃんを探る私に、ピシャリと言い放った。そうかもしれない。それでも。
「お祖母ちゃんは、優しかったわ」
「……そうね。麻衣を、とても大切にしている」
だから、紅葉は私に会いに来てくれたの? お祖母ちゃんの孫では無かったら、紅葉とも会えなかった? 私は、私だけでは、何もない?
「……やっぱり、百合子に似ている」
懐かしむような、うらやむような紅葉の乾いた笑い声が、遠くに聞こえた。
お祖母ちゃんが、私を守る。
「桜子さんが、旦那さんに刺された……。今日、息を引き取ったそうだ」
男の人の覇気のない声が耳に届く。『桜子』。お祖母ちゃんの幼なじみで、何もかも手に入れることのできる、とてもとても綺麗な女性。一度も会ったことのない、もう一人のお祖母ちゃんの名前。
刺された? 殺されたの?
聞きたいことは山ほどあるのに、声にならない。縋りつきたいと思うのに、腕が動かない。
彼の表情を見たいと願うのに、顔をあげる事すらできない。
何もできずに立ち尽くし、やっと口から出てきたのは自分でも驚くほどに冷たい声だった。
「桜子を刺したのはご主人かもしれないけれど、殺したのは、私。桜子が死ぬことを、誰よりも願っていたの」
指先が、冷たくなっていくのを感じる。頭の奥も冷えていく。
自分が望んだことの結果に、恐怖を感じる。
手に入った物と、失った物は、どちらが大きいのだろう。
「百合子?」
「貴方は、桜子を見てたでしょう? 子供の頃からずっと、私ではなくて、桜子を……」
「何を、言っている?」
自分の声も、愛しい声も、震えている。もう、指先の感覚は完全になくなっていた。
「私の中に子供がいます。貴方と私の子供。それなのに、貴方はまだ桜子を想っている。だから、殺してほしいと、鬼に願ったの。貴方が私だけを見てくれるように。鬼が、美しい鬼が私の願いをかなえてくれた」
目の前は滲んで、歪んで、もう前が見えない。『さよなら』紅葉の声が頭をグルグルと回っている。
満月の明るい畦道を、喪服を着た男性の背を追い、歩いている。
かける言葉も、かけられる言葉も、ない。それでも、前を歩く背中を滲んだ瞳で見つめながら歩く。これほど惨めでやりきれない気持ちを、私は知らない。
玄関に用意してある塩をかけることもなく部屋の中に入っていく背中。私が望んだのは、こんなことではない。彼女がいなくなれば、穏やかに暮らせるはずだったのに。穏やかとは真逆の苦しさが、胸に広がる。
玄関脇に盛られた塩に、桜の花びらが落ちている。散ってまでなお美しい。まるで、あの娘のよう。
月が満ちるように大きくなっていくお腹。それは、私が愛された証だと、ただ信じればよかったのだ。信じることができずに、鬼に願った。紅葉の最後の言葉は、私に何を伝えたのだろう。私は、何を欲しがっただろう。
月が満ちるたび、後悔が私の中に広がっていく。
あの日から、私は彼の背中しか見ていない。
「男の子ですよ」
嬉しそうな女性の声。遠くで赤ん坊の声が聞こえる。どうして、側にいないの? 一人にしないで。お願い。一人は嫌。側に、いて。
明るい日差しの中、赤ん坊の体温を感じながら歩く。花を見せ、空を見せ、その柔らかい瞳に私の汚れが映らないように、私以外のものを見せながら歩く。
道の向こうから、幼い女の子を連れた老女が歩いてくる。私をみて、嬉しそうに手を振り駆け寄ってきた幼い女の子は、私の腕に抱かれる赤ん坊を愛おしそうに見つめる。自分には生涯与えられることの無い、母の腕。抱かれる赤ん坊に対する嫉妬や羨みはなく、ただ愛おしそうな瞳で赤ん坊を見つめている。
「おばちゃん、赤ちゃん大事?」
「……ええ、大事よ」
「大事だってぇ、良かったなぁ」
愛おしそうに赤ん坊の頬を撫でる幼い手。『大事』な存在には違いない。背中を向けた彼がこれ以上遠くへ行かないように。彼がこの子を見つめている限り、母である私は彼の側にいられる。
そんな心があることを、知りもしない幼い女の子は、笑いながら私の袖を掴んだ。
「じゃあねぇ、美樹ちゃんも、赤ちゃん大事。おばちゃん、お母さんのお友達だから」
-『美樹ちゃん』やっぱり、この子お母さんだ。-
「美樹ちゃんは、優しいねぇ」
頭を撫でる私の手に『美樹ちゃん』は嬉しそうに笑って同じように赤ん坊を撫でる。『美樹ちゃん』は、人から愛されるのに慣れている。自分が受けた愛を、真直ぐに人に向ける事ができる。桜子と同じ、人の愛を疑う事の無い瞳。私は、手にすることができなかった。
熱を持った瞳に気付くことのない屈託のない笑顔に、どれだけ胸を焼き、怒りを覚えただろう。でも、それ以上に……。
幼い頃、鬼付きの子供として異端の目を向けられた中、桜子だけが私の手を取ってくれた。美しい鬼だったと語る私の言葉を信じ、羨ましい、会ってみたいと目を輝かせていた。
そう、本当は桜子の死なんて望んでいなかった。一度は、彼が桜子を望むのならそれでもいいとすら思っていたのだから。それが、どうして。
紅葉が私の前に再び現れてから、何かが狂い始めた。
手に入れる事などできなかったのに、手に入ると思ってしまった。私には分不相応な望み。本当は気づいていたのに、気づかないふりをして、紅葉の魅力を自分のものとした。そんな私が、愛されるわけなどないのに。
「お母さんに、そっくりねぇ」
声が震えないように必死だ。内頬を噛んで涙をこらえる。察してくれた『美樹ちゃん』の祖母が足早に立ち去っていく。さよなら、と笑顔で手を振る姿がいつかの夢で見た赤ん坊と重なる。あの時、お祖母ちゃんはなんと言ったのだろう。




