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「えーそれで、エチレンは平面構造だけど、アセチレンは直線構造なんですね。二つの炭素原子間はエチレンが二重結合で、えーアセチレンが三重結合。これは二つとも回転できないので、これは覚えておいてください、入試でもよく出ます……。あっと、もうチャイムなっちゃいましたね。えー今回の内容は有機化学の基礎分野で、入試でも頻出なんでね、しっかりと復習しておいてくださいね。はいでは」
四時限目の授業が終わり、何人かの生徒の質問に答えたあと俺はようやく職員室のデスクに戻る。この後は昼休みでかつ五時限目に授業は入っていないのでしばらくゆっくりできる、なんてことはない。いすにもたれかけながらデスクの上を見る。仕事がたっぷりと残っていた。
肩をぐりぐり回していると、
「三年生の授業ですか?」
隣の教師が話しかけてきた。名は高橋とかいって俺と同じ理科の教師で俺の五年先輩だった。
「この時期になるとはっきり二分されますよね、三年生って」俺は目をこすりながら彼に答える。
「受験はまだ先だ~とか思って今まで通り怠けている子と頑張りだす子、ですか? この学校は結構頑張ってる子多いですよね。部活やってる子だとそうもいかないかもしれないですけど」
季節は春の終わりがけ。ゴールデンウィーク後の五月の中旬だった。
「高橋先生は三年の担任ですよね。大変だ、四十人の進路について考えるわけなんだから」
「黒森先生も二年の担任してるでしょ?」
そう、この春から俺は二年五組を受け持っている。
「そうです。去年より仕事増えちゃって、大変ですよ。三年生持つのは当分先にしたいです」
「やばいですよ、あんま愚痴ってて生徒に聞かれたら……」
職員室、なんて生徒が一番近寄りたがらない場所だと思っていた。この高校に赴任してくる前は。俺の通っていた高校はほとんど不良の巣窟だったし、職員室なんて荒らし以外の目的で入ったことはない。しかしこの高校の場合生徒が授業の分からなかったところを質問に来たりすることも多い。この高橋も生徒からの評価はなかなか高いらしく、たびたび自分の受け持つクラス以外の生徒も質問に訪れていた。
俺の方の評価は完全に普通である。まあ教師になって一年ちょっとの若いやつだからあんまり信用されてないのかもしれない。しかしこういう若い教師は生徒と親密になかよくできるものだと思っていたが、どうやらそれはドラマの中だけのようだ。そもそも俺は教師の中でも影が薄い。スーツに七三分けの短髪、黒縁メガネの風貌。唯一の身体的特徴は身長が高いということくらいだろう。それでも二メートル近いわけじゃなく一メートル八十八センチと、高身長の中でも普通の高身長だ。町を歩けばこれくらいいくらでもいるだろう。
いや、そんないないか。
元ヤンであることは生徒、職員の両方に内緒にしていた。ばらしたら俺の影の薄さが少しは緩和されるかもしれないが教育者である以上、そんなことを自慢げに語りたくない。それにケンカもかれこれ八年はやっていない。大学と大学院での六年間でケンカをする相手も理由もなかったから当然だ。そもそも二十歳過ぎてケンカする方が異常だ。筋トレはいまだに続けているが、全盛期に比べると体力も格闘能力も大きく衰えたはずだ。
昼飯をさっさと食べ終え、俺は三年生の提出課題の添削に取り掛かる。途中で隣の高橋が新婚生活ののろけ話をしてきて気が散ったがなんとか六時限目までには終えることができた。
六時限目は俺が担任をしている二年五組だった。理系クラスだから当然男ばっか、なんてことはなかった。この学校では女子でも理系を選択する者が多く、クラスでの男女比は7対3ぐらい。チャイムが鳴って号令が済むと俺はいつも通り機械的に授業を進めた。
「ただいまー、今帰ったよー」
玄関で靴を履き替えながら廊下の奥に向かって声をかける。答えはない。一人暮らしなのだから当然だ。
スーツからTシャツとジャージに着替えてリビングのソファに座る。座るというよりはダイブするといった方がいいくらいの勢いだ。それほど高価なソファではないのでそのうち壊れるに違いない。別に愛着ないからいいけど。しばらくして床に転がっているリモコンに手を伸ばしてテレビをつけた。
「相変わらずつまんねーなー」
適当にバラエティ番組にチャンネルを合わせるが最近出てきたような一発屋芸人と安い男性アイドル、ほとんどおじいちゃんの老害芸人、無駄に数の多いさして可愛くない女性アイドルばっかである。どうやら内輪ネタで盛り上がっているらしく、何のことなのかまったく分からなかった。
ニュースに切り替える。
海外のテロの話題だ。またヨーロッパのどこかの町で銃撃戦があったらしい。被害者数や日本人の安否、現場にいた人達の感想が次々と流れる。
テロのニュースは俺がまだ小学生の頃から頻繁にテレビで流れていた。当時は日本にテロなんてなかったから遠い国で怖いことが起きている、くらいにしか思わなかった。
しばらくして日本でも同じようなテロが起きて、国中が大混乱した。遠いと思っていた恐怖は実は身の回りでも起こりうるんだということを強制的に認識させられ、国が大きく変わった。といってもこれは俺がまだ小学校低学年のときの話で、俺は変わる前の、平和な日本を詳しく知っているわけではない。今と変わらなかったという人もいるし、昔はもっと良かったという人もいる。何はともあれそれから日本は大きく動いた。自分の身は自分で守るという原則のもと銃刀法が改正され、各地で頻発する暴動を抑えるために軍備も増強。武器と軍隊。その二つには俺も高校時代によくお世話になったものだ。懐かしい。それからしばらくしてアメリカ軍の支援を受けられなくなった日本はさらに軍備を強化した。
国は変わっても、国民が変わるわけじゃない。受験生は今も昔も勉強に追われているし、教師はモンスターペアレントやら問題児に苦心している。
しばらくソファでだらけた後、冷蔵庫から昨日の残りの食材を取り出して軽く料理し、夕飯とする。酒は週末だけと決めているので今日は我慢。そして、
「……」
暇である。仕方がないからテレビ台の下からDVDを取り出して再生。もう三十回くらいリピートしているが決して飽きない俺のバイブル的ドラマのタイトルが液晶画面に表示された。
三年B組金ザモ先生
三年B組の担任である熱血高校教師、金色ヶ丘財目(自称:金ザモ先生)が不良生徒を次々に更生させていくという内容だ。その更生方法が素晴らしく、暴力をふるう不良生徒に対して体罰に訴えるのではなく催眠術によるマインドコントロールを施すというもの。全十三話しかないがすべての話に無駄がなく、特に最終回の金ザモ先生が盗んだ陸軍ヘリによって高校の校舎に命がけの特攻を仕掛けるラストシーンは日本のドラマでも指折りの名シーンだと思う。視聴率もかなり高く、ネットでも話題になっていたのにBPOから苦情が殺到してほとんど打ち切りのような形で幕を下ろしてしまった。続編が作られる可能性はゼロに近く、非常に残念に思う。
俺があんなに嫌っていた教師になろうと思ったのはこのドラマのおかげだ。大学院時代に知人から紹介されて見始めたら一気にはまってしまった。
しかし教師になって一年と二か月。やはり現実はドラマのようにはいかないと思い知らされる。そもそもうちの高校に不良がいない。それに俺は金ザモ先生のように催眠術は使えないし、熱血でもない。金ザモ先生は国語教師だが俺は理科教師。やはりドラマはあくまでドラマ。影響されすぎて俺が金ザモ先生のまねをしたって痛いだけだ。そんなことは分かっている。
分かってはいるが……。
ちょうど最終回。金ザモ先生と不良生徒たちが銃撃戦を繰り広げるシーンを見ながらぼーっと考えた。
もう少し、ほんのもう少しだけ、やりがいが欲しいと思う。
毎日それなりに充実してはいるのだが、やはり、もっとこう……刺激が欲しいというか、何というか。
同僚の中でも楽しそうに仕事をやってるやつも……いや先輩にやつはない、人もいる。生徒から慕われ、同僚の教員からも慕われ、そして自らも生徒を慕う。そのうちの一人が俺の隣の高橋だ。
別に彼らは熱血とか、有能とか、そんなんじゃない。ただ、なんて言うか……こう、馴染んでいるのだ。教師としての肩書が馴染んでいて、学校という環境に馴染んでいる。俺と彼らの一番の違いがそこだと思う。俺のように毎日気合を入れながら仕事をしているわけじゃないというか……。
俺も彼らのようになりたいと常々思う。
俺の性格では無理なんだろうか。
大学院時代に金ザモ先生にはまり教師になろうと決意した。だが山梨の教員採用試験に合格したときの熱狂はいつのまにか俺の中から消えてしまっていた。熱狂的にふるまおうとすれば生徒たちが引いてしまうのだ。だから俺は学校では努めて平熱、平凡を装う。今日だって3年生を持ちたくないって言ったけどあれは嘘だ。本当はどんなに面倒できつい仕事でも、それが教師としてのものだったのなら他を押しのけてでもやりたい。やり遂げたい。やり遂げてみせたい。
俺の職場は……明らかな「進学校」だ。以前俺のクラスで万引きをした生徒が一人だけいたものの、生徒たちはみんないい子。俺は避けられている、なんてことはないと思う。だが、なんか……影が薄い。うまく言えないけど……「うまく行っていないことはない」みたいな感じ。
生徒にももっと好かれたいと思う。俺は生徒を愛しているし、愛さなくてはならないと思っているのだが、それが向こうには到底伝わらない。生徒の目からしてみれば俺は、教師というのは単なる勉強を教える機械にしか映らない。少なくとも俺の目からはそう見える。
そうこうしているうちに金ザモ先生の最終回を見終えてしまった。最終回に限って言えばもう五十回くらいリピートしてる気がする。やはり最後に金ザモ先生がサイボーグとして復活するシーンでは泣きそうになった。最終回の視聴率は五十パーセントを超えたということだからやはり名ドラマであることに疑いはない。
時計の針はちょうど十一時を指していた。少し早いが風呂に入ってもう眠ろう。