プロローグ
プロローグ
英語で職業は「occupation」。人生において職業は大きな割合を占める(「occupy」)からだという。その通り。人生における仕事の時間というのは馬鹿にならない。一日8時間労働だとしても一日の睡眠時間より長い。だからある人物の人生を語る際にその人の職業は大きな要素になる。
もちろん人生=仕事なんてことはない。人生における楽しみは多くの人が趣味とか、仲間と過ごす時間とか、恋人、さらには妻、子供、孫、そういった家族と過ごす時間とかを挙げる。だが、それでも仕事が一番やりがいがある、生きがいなんだっていう人も多い。
俺は……そう、その後者だ。もちろん仕事以外にも生きがい、大切な物(者)がある、と思いたい。確信はないけれど。
これは俺の人生の物語なのだが……まあほとんどは仕事にまつわる物語だ。
まずは簡単な生い立ちから。
小学校の卒業文集で、クラスで一番頭の良い子の将来の夢が「先生になること」だった。先生というのは子供たちに勉強を教える仕事なわけだから当然自分も頭がよくないといけない。だから先生=頭がいい、という等式が成り立つのは分かるのだけれど頭がいいから先生になる、というのは当時の、小学六年生の俺には理解できなかった。そもそも先生という職業にまったくいいイメージがなかった。音楽の時間にリコーダーを忘れただけで嫌味な感じで怒られるし、給食で嫌いな野菜を食べられなかっただけで休み時間もずっと居残りで食べさせられる。これは今思うと俺が男子、しかも俗にいう悪ガキだったから、だと思う。
男子小学生というのは全国どこでも様々な悪さに興じるものだ。そのテンプレとしては女子をいじめたり、授業中にはしゃいだり、漫画を学校に持ち込んだり、など。今の子供たちはどうなのかは知らないが俺の頃はうんこを家庭科室の冷蔵庫に保管したりとかした。今思うと衛生的に相当やばい。
いや、これは時代云々の話じゃなくて俺の学校限定だったのかもしれない。しかし替え歌なんかは全国に同じのが伝わったりしていてなかなか面白い。
ともかく俺の小学校生活は平和そのものだった。
そして中学校。この辺から子供たちは二種類に分かれていったように思う。いわゆる「真面目なやつ」と「不真面目なやつ」。ここでいう「真面目なやつ」とは眼鏡をかけた学級委員タイプという意味ではない。宿題をきちんと提出して、部活に参加し、青春の汗を流すタイプ。この頃から勉強のできるやつはがり勉タイプから青春謳歌のリア充タイプに変わっていったように思う。
そして後者「不真面目なやつ」。この頃からそいつらは俗にいう「不良」とか「ヤンキー」、「DQN」とかに変貌していく。授業をサボり、たばこを吸ったり、セックスに興じてみたり。おそらくこの辺りから将来の社会的地位の差が生まれるのだろう。
俺は……後者だった。教室で真面目に授業を受けても退屈なだけだったし、今真面目に勉強しないと将来に響くぞ、とか大人に言われてもうざいだけだった。部活で必死に頑張っているやつらに対して斜に構えてみたり、テストでいい点をとるためだけに必死こいて勉強してるやつらを見下したりしていたように思う。
だからといって勉強や体を鍛えることの重要性を全否定していた、というわけではない。人を見下すには見下す対象その人よりも上位でなければならない。下位の人間が上位の人間を見下してもそれは傍から見ればただの負け惜しみだし、滑稽この上ない。努力できるか否かでその人の人間性が決まる、なんて教師たちの言葉はただの詭弁だと思っていた。人間性を高めるために努力をするのは当然のことだからだ。
中学に入ってすぐの頃から俺は肉体の鍛錬と勉学に打ち込んだ。教科書に頼るのは癪だが仕方がない。初めの一年間は中学三年間の学習内容を脳みそに叩き込むことに集中した。先輩からお古の教科書をもらってすべて頭に詰め込む。残りの二年間は高校の予習や読書に打ち込んだ。そのおかげで学校はサボりまくっていたけどテストは常に学年一位だった。
教師はいい顔をしなかった。
同時に体力づくりにも打ち込んだ。毎日三食しっかりと食べ、朝五時に起きては走り込み10キロ、腹筋、背筋、腕たせふせ、その他諸々のありとあらゆる筋力トレーニングに打ち込み、身長は中学卒業時点で180センチを超えていた。そのおかげで帰宅部だったけど体力テストは常に学年一位だった。
教師はいい顔をしなかった。
こうして過酷な三年間は終わりを迎える。
さて、中学三年生になると進路を決めなければならない。俺は地元で屈指の超ヤンキー高校である「脱兎工業高校(略して脱工)」を志望した。理由としては学校のサボりすぎで内申点がぼろぼろだったことと、三年間鍛えた体でヤンキーたちとどこまで戦えるのかを試したかったこと。当然推薦入試は無理なので一般入試で受験し、合格した。
そして俺の戦いの日々が始まった。
初陣。負けた。ぼっこぼこにされて負けた。全身怪我だらけで入院するはめになるまでぼっこぼこにされた。本当に自分でも引くぐらいぼっこぼこにされた。
敗因は主に三つ。一つ目は俺にケンカの経験がなかったこと。いくら体を鍛えても実戦経験がなければ勝てない。二つ目は俺一人に対して敵が五人いたこと。ケンカ売ったとき五人ぐらいならいけるだろとなめてかかったのが運のつき。四方八方から袋叩きにされた。そして三つ目。これが一番大きいと思うのだが、敵が武器を持っていたこと。ナイフ、ナイフ、メリケンサック、レンガ、ナイフ。ぼっこぼこ、からのざっくざくにされた。
これじゃだめだ。俺は退院して新たな段階に移った。
知り合いの米兵とイスラエル軍の士官に白兵戦の基礎を習うことにした。二人は実際に戦場で戦闘経験のある戦闘のエキスパートたちだ。ナイフ格闘、素手での格闘、ピストルの使い方、銃剣突撃、ライフル狙撃技術などを習った。下三つは高校生のケンカに必要ないだろうが念のため習っておいた。半年間の血と涙とよだれと鼻水とその他様々な排出物のハードトレーニングによって俺は戦場でも十分戦えるほどの精鋭に成長した。最終的には二人を圧倒するほどの技術を手に入れた。
それからはケンカで負けなしだった。
当たり前の話だが軍事訓練を受けた男と素人がケンカをして素人の方が勝てるはずがない。ほとんど瞬殺で俺は勝ち抜き、勝ち上がり、勝ち進み。そして気づいたら俺は脱工の番長になっていた。番長になり、やることと言えば一つ。そう、他校の制圧である。俺は脱工の不良連中に格闘訓練と集団行動をさせて彼らを最強の軍隊に仕立て上げた。脱落した連中も多かったが多くの脱工生がついてきてくれた。
不良というのは意外に愛校心が強い。
それからというもの脱工はケンカで負けなしだった。俺が作戦を立て、集団で行動し、ナイフだけで他校を制圧する。それにあたり俺は仲間たちに不良以外の一般生徒への攻撃を禁止し、最低限の規律を守らせた。また、他校の生徒にカツアゲをされている脱工生の護衛任務にもあたった。そして俺たちは北関東最強の高校生殺戮軍団になった。
高校の教師たちはびびって俺に近寄らなくなった。
そのあと、俺は大学受験のため番長を引退し、後輩にその地位を譲った。そして大学生になり、勉強とか研究とか色々なんやかんやあった。どうもその辺の時期の記憶があいまいなんだが……まあ、そのうち思い出すだろう。そんなこんなで大学院を出た後。
俺は教師になった。