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企画モノ

水上さんと朝倉君(フェチの場面クロッキー 約三時間)

作者: 佐倉治加

高二の夏休みは勝負の夏休み。一ヶ月近くもある休みの頑張りが進路を左右する。


そう教師に言われたものの、塾に通ってない自分ができることといえば学校で課された課題を粛々とこなすことぐらいだった。


それを水上みかみさんに言うと、


「私も塾に行ってないよ。一人で集中が途切れるなら一緒にやる?」


俺はその話に深く考えずに飛びついた。そして夏休みはほぼ毎日のように学校の図書館か、俺若しくは彼女の家で勉強をすることになった。

実際には、もう大学受験の範囲の学習が一通り終わっている彼女は、赤本や、教師から宿題とは別にもらった課題をこなし、その傍で俺の勉強を見てくれるという状況であった。


「ここは、サインをコサインに直して平方完成するんだよね。そしたら式がこうなるでしょ。で、図を書いて……」


今日は俺の部屋で勉強をしていた。サラサラとゲルインクのボールペンを灰色の罫線に沿って滑らせる彼女の手に、迷いはない。もう答えまでの道筋がわかっている動き。彼女の肩までの癖っ毛は途中でぴょこんと迷子になりかけているのに、思考は整然としている。


五月に付き合い始めて約二ヶ月半。

一緒にいればいるほど、水上さんが遠くにいるような。

いや、そんなことない。彼女の隣にいるために頑張るって決めたんじゃないか。

そう自分に言い聞かせて、ノートの上で走り続ける彼女のペンと声に集中した。


水上さんは学年一の才女だ。

なぜそんな彼女と俺が付き合うに至ったかは省略するが、付き合ってからしばらくして彼女は突然、進路変更する、と宣言した。


元々、その能力には似合わない芸術系の学部に進学して書道の研究をしたいと言っていたのに、俺と付き合い始めた事で考えを変えたらしい。もっとレベルの高い大学の法学部に。

一応どういう経緯でそうなったのかは説明されたけれど、俺にはチンプンカンプンで、俺の呆けた表情を見て彼女も察したのか、

「結論をはっきり言っておくけど、朝倉あさくら君と一緒にいるためには、これが一番いいと思うのよ」

と、説明の内容には合わない、可愛らしい笑顔を俺に向けたのだった。




休憩時間。

母が置いていってくれた麦茶と水羊羹が目の前にある。二人分。

それが最近当たり前になってきていて、少し嬉しかった。


羊羹を一口サイズに切り分ける彼女。乳白色の皿にカトラリーがカチリ、と当たる音がした。

今日は殆ど俺に勉強を教えることに時間を割いてくれている。そのことに申し訳なくなって、水上さんにごめん、と謝った。


「気にしないで。私も復習になるし、教えるって勉強にもなるんだよ」


羊羹を入れてもぐもぐと口を動かす彼女。

彼女の周りはいつもほんわかしていて、目の前にいるだけで幸せな気分になる。


「それにね、今頑張っとけば勉強が終わったあと、朝倉君は字が書けるでしょ。芸術系は実技もあるんだから、そっちも頑張らなきゃ。それは私じゃ教えられないし」


そう。俺が行きたいのは芸術系の書道科。

書家になりたい、というわけではなく、様々な文字の研究をしたいと思ったのだ。

水上さんと色々話をしたり、書道教室の先生にも相談して決めた。漠然と、書道が好きだから書道の先生になるんだろうな、と思っていた頃とはえらい違いだと思う。


「でも、水上さんが得してることってないんじゃ……」


俺がそういうと、彼女は「朝倉君の字が見られるなら、これくらいいいんだよ」と目を細めた。


「じゃあ、何か俺にできることってある?」


受験生だから、特に遊びにどこかに行くわけにもいかない。というか、自分の成績が合格圏内に入っていないのに、彼女をデートに誘うこともできない。それも不甲斐ないと思う一つで。

まだ一年以上ある。でももうそれだけしかない、とも取れるこの時期。

変な焦りを抱えているのかもしれない、勉強も。水上さんとの関係も。


そんな俺をじっと見て一呼吸。彼女はそうだね、と首を傾けた。


「あ、でも、こんなこと言うと、朝倉君ドン引きしそう」


「俺にできることだったら、何でもは無理かもしれないけど、引かないよ」


「ホントウに?」


笑いながら試すように聞かれて、俺は首を縦に振った。

水上さんはしばらくテーブルの上を見ていたが、じゃあ、に続けて言った言葉は、すんなり俺の頭に入ってこなかった。


アシ、ミタイノ。


この六つの音は、日本語だと思う。そして、そんなに難しい事は要求されていないはず。でも俺はハイともイイエとも返せずに、ぽかんと彼女を見ているだけだった。

それを見て彼女は俺が良くない印象を持ったと思ったのか、やっぱ今のなしね、と急いで手を振った。

俺はそれにもついて行けずに取り敢えず「アシ?」と間抜けな発音で聞き返した。


「……足、と言うか足背そくはい。足の甲。朝倉君の足の甲にあるアザの色が好きなの、私」


水上さんは顔を少し赤らめて、俺から視線を逸らしながら小さな声で途切れがちに言った。

そんな彼女を見て俺の心臓の音がキツくなった気がした。


案の定というか何というか、俺は大好きな彼女の為ならと、フラリフラリそちらへ行くことにしたのだった。



少し見せれば終わると思ったのだが、是非とも手にとって見たいと愛しの彼女が望むので、俺は畳に座ったまま片足を差し出した。心の中の葛藤は綺麗に隠して、彼女の小さな手からはみ出している、自分のゴツゴツした足を無心で眺めた。

靴下とは全く異なる温かさが足裏を覆っている。


しばらくジィっとそれを見つめていた水上さんは、おもむろに空いた方の手でしゅる、しゅると足の甲を撫ぜた。

それは儀式のようだった。

撫ぜられた足は俺から切り離されて、モノになってしまった錯覚に陥る。


水上さんは、俺の字をなぞる時のように、右手の中指と薬指の二本で、俺の足の甲の変色した一部分をそろり、となぞった。

愛でられる筆の軌跡と、足の甲を這う彼女の指の感触が一致して、顔が熱くなる。

でも、モノにされてしまった足は彼女の手に乗せられたまま、彼女の膝の上に置かれている。


ようやく、足から視線をこちらに向けて


「最近、字を書く時間が減ってるんだね」


彼女にそう言われて、確かに、と俺は小さく頷いた。


「分かるの?」


「だって朝倉君の正座胼胝せいざたこ、すごく色が薄くなってる」


彼女は、俺の足の甲にある、丸く赤みを帯びた斑に、的確に指先を這わせている。そんなところも観察されていたのか、と何か恥ずかしかった。


「受験が終わったら、またいっぱい時間が取れるのかな」


しおしおとした様子の彼女に、もちろん書くよ、といった声がいつもより大きくて。彼女は目を大きく見開いたあと、嬉しそうに


「楽しみにしてるね」


「うん、だって俺にはそれしかないから」


少し自嘲めいていたかもしれない。でも、書道以上のものは無いよな、と心の中で再確認していた俺は


「それが私の幸せなんだけどね」


ぼそり、と聞こえた彼女の言葉を深くは考えなかった。

だから続けて、正座胼胝を育てるのもいいな、と笑った彼女の真意が読めず、この足だけ持たれている、という状況をそろそろ脱したい、と目を泳がせ、畳についた両腕に力を入れた時だった。


彼女は、膝の上にあった俺の足を、ゆっくりと胸の高さに持ち上げて間近でそれを見つめた。と、不意に彼女の頭が傾いて俺の足を覆う。胼胝に指とは違ったものがぬるりと触れた。


え、と思ったら彼女がごめん、ついやっちゃった、と目を逸らしながら言った。


俺にとって、ファーストキスだった。

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