鴨の流れの
私がここへ越してきてからどれだけの月日が流れただろうか。
目の前には京都の街を南北につらぬく鴨川が流れ、陽光を浴びて金糸銀糸を織り込んだ西陣織の金襴緞子のように輝く。その清き水面には水鳥が遊び、とんびがくるりと空を舞う。向こう岸には柳の木々が風にそよぎ、その先には比叡より連なる東山の峰々が横たわる。その青々とした姿は千年の時を超え、この街とそこに暮らす人々の営みを見守ってきた。かつて通った大学の校歌に謳われる光景そのものが、いま私の目の前に広がっている。
シギがつい―――っと、目の前を横切っていった。
夕暮れ時、鴨の流れを眺めながら、ふと我が来し方を思い浮かべてみる。
無気力・無関心・無責任の三無主義と先輩に後ろ指を指されながら、急速に収束していく学生運動を尻目に大学生活を送っていたのはもう三十年以上も前になる。
ヘルメットにゲバ棒姿の連中はさすがに姿を消したが、学内のあちこちにはその生き残りが居てビラ撒きをしていた、そんな時代だった。しかし学生運動なんてものに気力や体力を注いでもシラけるだけだし、大学にはもっと楽しいことがたくさんあるだろうにと思っていた。法理論を説明するついでに一々己の政治的主張を開陳しては口角泡を飛ばす教授の話など聴く気にならず、教科書や六法はもっぱら枕代わりでしかなかった。
午前中で授業を切り上げたあとは、学生食堂でどんぶりをかき込み、大学のすぐ裏手に広がる京都御苑の木の下で昼寝。夕暮れ前からもぞもぞと活動を始め、仲間の下宿でじゃらじゃらと麻雀牌を引っかき回すか、鴨川の河原で下手なギターをかき鳴らし喉を枯らす日々を過ごした。もちろん、試験前以外にろくに勉強をした記憶がない。当然これといった目標もなく、何か努力したところで何も変わらない、何も変えられないと思っていた。
今が楽しければそれで良し。いつも私が苦々しく見ている学生とおぼしきアベックの姿は、実はあの日の私そのものだったのかもしれない。測ったかのように河原に等間隔に並んで座り、額を寄せ語り合うもの、口づけを交わす者、熱い抱擁を見せる者たち。若さにのみ裏付けられた底抜けな輝きに満ちた時代が、この私にもあったのだ。
そう、今でこそこんな有り様だが、学生時代には人並みに恋もした。
当時付き合っていた彼女は、私がギター仲間とやっていた鴨川フォークライブの数少ない観客の一人だった。同じ大学の、ひとつ年下の文学部生。周りは地方出身者ばかり、私自身も広島から出てきた田舎者だったから、京都生まれ京都育ちの彼女はいかにも都会人な香りがして輝いて見えた。
同年代の女の子の多くが西城秀樹やら野口五郎、郷ひろみといったアイドル歌手に夢中になる中、吉田拓郎や泉谷しげるが好きな変わった娘だった。文庫本を片手に地べたに座り、小さな声で歌詞を口ずさんでいたのを思い出す。
付き合うとは言っても、貧乏学生の身分ではたいしたこともできなかった。バイト代が入った翌日は、大学のすぐそばのジャズ喫茶でお茶をしてから新京極の映画館へ。それだけがデートらしいデートで、私たちはいつも鴨川の河原でときを過ごした。大学の目の前にかかる荒神橋から、橋をふたつくぐって出町橋へ。そこから土手へあがり、商店街が見えれば私の下宿はすぐそこだった。頬を真っ赤に染めながら初めて手をつないだ葵祭の日も、緊張に息をつまらせながら初めて口づけした祇園祭の夜も、隣には鴨の流れがあった。
じりじりと街を灼いた陽はとっぷりと西の山に沈んだ。先斗町の岸から河原にせり出した料理屋のいくつもの川床が、流し燈籠のようにぼんやりとした明かりを川面に映し出している。
遊び呆けてばかりいた私だったが、どうにか大学を卒業して東京にある文具メーカーに就職することができた。いちご白書の歌のように、私も「就職が決まって髪を切ってきた」のだ。
母親の涙に背を押され、成功を誓って上京したのは良かったが、抜けきらない広島弁を訛りと馬鹿にされ、なかなか上がらない営業成績に頭を抱える日々が続いた。いい歳をして人前で上司に怒鳴られたり、客に小突かれたりしたときには本当に気が滅入ったものだ。
何度、荷物をまとめて故郷へ帰ろうと思ったことか。それでも逃げ出さずやってこられたのは、卒業後すぐにボストンバッグひとつ抱え私のあとを追ってやってきた彼女の存在によるところが大きかった。来てしもた、と悪びれずに笑う彼女の顔をアパートの扉の先に見たときには卒倒しそうになったが。
東京で迎える二度目の夏を前に、私たちは神田川を見下ろす五畳一間のアパートで同棲を始めた。それなりに名の通った会社とはいえ安月給だった私の稼ぎではどうにもならず、彼女がパートで働いて支えてくれた。ささやかな、ささやかな生活だった。そして三度目の春が来たとき、私は久しぶりに京都の地を踏んだ。彼女の両親のもとへ結婚のお願いをしに行ったのだ。床の間を背に腕を組みじっと私を睨みつけるあのときのお義父さんの姿を思い出すたび、今でも身がすくむ。しどろもどろになりながら何とかひねり出した言葉は、お嬢さんを、下さい。駆け落ちも同然だった私たちの結婚をよく許してくれたものだと思う。
クスっと笑い声が聞こえた気がして、ふと横を見る。あの頃とほとんど変わらぬ美しさをたたえた妻が、私に微笑みかける。いや、ちょっと昔を思い出していただけさ、と私はつぶやいた。
気づけば夜もだいぶん更けてきた。あれだけ並んでいたアベックたちの姿もどこかへ消え、もう終電も行ってしまったのだろう、煌々と灯っていた三条京阪駅界隈の明かりもすっかり落ちている。ただ轟々と水の流れる音だけが耳に入ってくる。これからは誰にも邪魔されることのない、私たちだけの時間だ。
お世辞にも、社会的に成功したとは言えない半生だった。何を為した訳でもない、ただ平平凡凡と齢を重ねてきただけの男だ。それでも、人並み以上に幸せだったことは胸を張って言える。
結婚してから三年と少し、私たちは娘を授かった。女の子は父親に似るとよく言われるが、幸いにも母親に似てくれた。眉のきりっとした少し太いところや黒目がちの眼、鼻すじの通り具合はまさに妻そのものだ。そして事あるたびに発揮される一本芯の通ったところも、妻の血と言うべきか。だがその一方で、素直で心優しかった。友人たちにも恵まれ感性豊かにのびのびと育ったわが娘は、親の私が言うのも変な話だが、人一倍利発で、美しい女性に成長した。
彼女の存在は妻とともに私の人生における最大の自慢の種であった。目に入れても痛くないと簡単に言う親は数多存在するが、わが娘のためならこんな命の一つや二つを簡単になげうってでも、どんなことでもやってみせられる自信があった。
その娘が社会人になってしばらく経ったころ、お父さんに紹介したい人がいるの、と言って一人の青年を連れて帰ってきた。私には内緒にしていたが、どうやら彼とは学生時代から付き合っていたらしい。変な虫がつかないようにと女子大に入れた私の儚い願いは、私の全く知らないところで早々に崩れ去っていたのだった。
こちらが気恥ずかしくなるほど真面目な顔で、お嬢さんをください、とその青年は古風なことを言った。ここは父親らしく振舞っておくのが礼儀だと思った私は、小難しい顔をつくって腕を組み、彼の顔を見つめてみた。あの日のお義父さんのように。しかしその頭の中では、すでに白無垢に包まれた娘の晴れ姿を思い浮かべていたのだ。そんな私の本心を見透かすかのように、妻は終始嬉しそうな顔をしていたのを思い出す。その柔らかでおだやかな笑顔は、あの日のお義母さんそのものだった。
どこかで、カラスがぎゃあと鳴いた。真夜中の、すべてを溶かしてしまう漆黒の空に向かって、いったい何を伝えようとしているのだろうか。
あの日―――祗園祭が宵山を迎えたあの日、京都は朝から雨が降り続いていたという。
独身生活最後の記念にと、妻と娘は前日から京都へ旅行に出掛けていた。私たちの思い出の地へ。娘はずっと東京で育ってきたから、京都へは数えるほどしか行ったことがなかった。妻の実家へ帰省するでも、観光スポット巡りをするでもない。結婚式を目前に控え、自分の両親がどんな場所で出会い、時を重ねたのか見ておきたくなったのだと、旅立ちを前に彼女は私にそっと話してくれた。
夜。京都盆地の釜の底に一服の涼をもたらした雨は上がり、祭に押し寄せる人々の熱気が街を支配する。
辻辻に立ち並ぶ山や鉾は、町の誇りを一手に背負ってその壮麗さを競いあう。何百年も前にシルクロードを通ってやってきた前懸、胴懸、見送りのタペストリー。歴史に名を残す名匠の手による彫刻、飾り金具。屋根裏の絵でさえ円山派や四条派の絵師の手によって描かれたものだ。山鉾の前後でゆらめく駒形提灯は、かつて都に猖獗を極めた疫病の犠牲者の御魂の如く。祇園囃子のゆったりとした笛の音鉦の音は、彼らを常世へと導くかのようにその調子を響かせる。
道行く人に撮ってもらったのであろう、長刀鉾を背景に笑顔を見せる二人の浴衣姿―――が写真に残っている。
それから彼女たちは、先斗町にある、町家を改造したフレンチレストランで食事をした―――という記録が残っている。
宿へ向かう二人は、雨に濡れた石畳がしっとりとした光沢を放つ先斗町通から、高瀬川に柳のゆれる木屋町通へ。そして青白くライトアップされた中央分離帯の噴水を横目に、御池通を渡ろうとした。
そのとき。市役所の前を雄叫びをあげて通過した青いトラックが、速度を緩めることもなく信号を無視して交差点に進入した。横断歩道を渡っていた二人はフロントガラスに貼りつく格好になったあと、そろって真夏の蒸し暑い空を舞い、黒くねっとりと光るアスファルトに逆さにたたきつけられた。そして、トラックは走り去った。
―――目撃者の言によれば。
知らせを聞いた私は東京駅八重洲口で列を作っていた学生に一万円札を無理矢理つかませて切符をもぎ取り、夜行バスで京都へ向かった。
無限とも思える時間ののちにたどりついたのは、鴨川が目の前を流れる大学病院の霊安室だった。医師や警官が何か話をしてくれたのは覚えているが、そんなものは全く耳に入っていなかった。ただ、立ち尽くした。ほぼ即死状態で、痛みを感じる間さえなかっただろうと自分に言い聞かせるのが精一杯だった。
つい半日前まで二人の姿を写していたカメラは「遺品」となり、私の腕の中で鈍い重みを放っていた。そのひび割れたレンズのように、私の瞳には何も映らなかった。映したくもなかった。そして人間は、本当に打ちひしがれたときには一滴の涙も一節の言葉も出ないのだということをそのとき初めて知った。
生ぬるい吐息のような風に、風鈴がちんと鳴った。学生時代、四畳半一間の私の下宿にぶら下げていたものだ。天神さん行ったときに見つけてん、と軒先に吊るす彼女のワンピース姿が目に浮かぶ。だが、そんなささやかな思い出さえ共に語る相手はもう居ない。風鈴もいつの日だったか縁が欠けてしまった。
愛する妻と我が子を失った私の人生は、坂道を転がる石ころよりも早く落ちぶれていった。何の仕事をしても全く手につかない。凡そやる気だとか熱意だとか呼べるものは、あの日棺桶に入れた思い出の品とともに灰になってしまったのだろう。そんな気がした。
そして飲めない酒に手を出しては飲まれて潰され、警察の厄介になることも一度や二度ではなかった。埋めても埋めても塞がることのない心のすき間はやがて、修復のしようのない破綻を私にもたらした。
解雇。右肩下がりの台所事情でリストラを進めたい会社にとって、私の素行の悪さは丁度よい標的となったのであろう。
ある日、もはや何回目かも忘れたがトラ箱で朝を迎えた私は、警官の厳重注意に形式的に頭を下げ、家に帰ることもなくヨレヨレのスーツを着たまま出勤した。その直後、上司に呼ばれて何の前触れもなく解雇を言い渡された。土下座でもして何とか会社に置いてもらおうかとも思ったが、一度欠けてしまった風鈴はもう何をしても響くことはない。私は簡単に挨拶だけ済ますと、その日のうちにデスクの荷物をすべて処分した。会社人生なんてものはその程度のものだとでも言うかのように、何もかもがあっさりと処分された。
そうして会社をクビになり人生にとどめを刺された私は、生ける屍と化した。残りの人生など消化試合ほどの存在価値すらない。何も考えず、何を為すこともない。心臓が最後の一拍を打ち終えて沈黙し酸素の供給が止まるまで、失った者の記憶が電気信号として壊れた通信機のように脳内で発信され続けるだけなのだ。
だがそうなる前に、脳は最後の思考を行った。私はその決定にもとづき、一切の家財を売り払って家を出た。手元に残したのは妻と娘との有形無形の絆と、いくばくかの現金のみ。西へ西へと流れ流れて、たどりついたのがこの場所だった。
三条大橋の西詰、橋台の下の二畳半ほどの空間。
私は乞食に身を落としたのだ。
空を覆っていた闇を鴨川へと押し流して、大文字山から朝日が昇る。
この商売は朝が肝心だ。昨日のうちに公園で汲んでおいた水で顔を洗い、五日前に消費期限の切れたパンを頬張りながら出かける準備をする。ポケットには手製の地図、自転車には工事現場で拾ってきた土のう袋とビニール紐。
若者たちが置いて行った花火の残滓を横目に、河原からだらだらと坂をのぼっていく。このあたりが親不孝通と呼ばれていたのはいつの頃だったか。川を背に小ぢんまりと立つ弥次喜多像の足元に、お供えでもするかの如く輪にして並べられたチューハイ缶。その回収を皮切りに、今日は三条通を西へと進むことにする。
空き缶の拾い屋も他人が考えるほど楽なものではないのだと、実際に体を動かして初めて知った。ゴミ出し場はどこにあるのか、市が差し向ける回収業者は何時に来るのかをまとめてルート地図を作る。まるで外回りをやっていたあの日のように。加えてその地図に、宵出し後出し――前日夜のうちにゴミ出しをしたり、当日回収が終わってから出したりする――するクセのある家を書き込み、要所要所には同業者の縄張りも記しておく。そんなことまで頭に入れておかねば食ってはいけないのだ。そしてその作業をやっているときだけ、私は生を実感することができた。
だがそれでも現実は厳しい。アルミ缶二つで一円、一日中回りに回っても収入が三千円に届かない世界なのだから。会社勤めをしていた頃の十分の一に過ぎない。
もっとも、生きる甲斐を見つけた今の私には、収入のことなどもはや何の関係もないのだ。
車もまばらな河原町通を渡る。カラオケ屋から出てきたアベックが、あからさまに汚いものを見下す目で私を睨む。化粧の落ちかけたタヌキのような顔でヨタヨタと歩く女の方がよほど汚いと思うが、目を伏せて足早に通り過ぎる。
私たちの世界では沈黙こそ美徳だ。そして、目は口ほどに物を言う。
いつもぶら下げている帆布のずた袋の中、二葉の写真が入っている。片方は、長刀鉾をバックに妻と娘がVサインをしている写真。そしてもう一葉を手にするたび、私の体を電流が貫く。
暗闇を背景に走るオレンジと青の幾本もの光の筋。あまりのブレように私自身、最初はただの失敗写真としか思えなかった。しかしこの写真があのカメラに残っていたフィルムの最後のコマであり、青い灯火が噴水のイルミネーションだと気づいたとき、私の中で何かが弾けた。これは「あの」瞬間が収められたものなのだと。
あの時、アスファルトに打ちつけられた拍子に偶然シャッターがおりてしまったのであろう。私にはこの写真が、妻の瞳に映った最後の光景に思えた。そしてその瞳は、残るかすかな力を振り絞って一台の車の姿を視界の隅にとらえていた。
青色の中型トラック。目撃証言にあったあの車と同じだった。
はじめはこの写真を警察に提出しようかとも思った。これを出せば目撃証言を裏付けるばかりか、事件解決への切り札となるかもしれない。しかしその頃の私の心の中では、そんな冷静な判断をあっさりと吹き飛ばす疑問の嵐が吹き荒れていた。
長年連れ添ってきた妻と、輝かしい未来が待っている娘と。その娘とともに人生を歩んでくれる息子が居て、二人の間の新しい生命を心待ちにする。そんなはずだった。
それなのになぜ、私はいまこうして一人で居るのか。
何故、妻と娘はあんな死に方をしなくてはならなかったのか。
なぜ、あのとき運転手はあのまま逃げ去ったのか。
なぜ、こうしてワット数の一番ちいさな電球の下で、人形のような虚ろな目をして過去の思い出ばかりを振り返っていなくてはいけないのか。
なぜ、何故、なぜ、何故、なぜ、何故、なぜ、何故……
いくつもの「何故」が反応し合い臨界点に達したとき、私の脳内に莫大なエネルギーが生み出された。それは緩やかな死、生きたままの死へと向かいつつあった私に人生最後の、そして最大の決断をさせたのだった。
残された自分がすべきことは一つ。たとえそれが世間から見れば誤った決断であろうとも。妻と娘がそれを望んでいなくても。これしか私には道はないのだ。
他に失うものがない人間の最後の悪あがきは、このとき始まった。
おはようさん。三条通のアーケードを抜けたところの大きなカニの足元で、不意に声をかけられた。アズマさんだった。東本願寺の門前を寝ぐらにするからアズマさん。もちろん誰も本名など知らない。彼は元々由緒ある呉服屋の若旦那だったが、嫁さんが入れあげた新興宗教に身ぐるみ持っていかれたらしい。こんな商売をしている人間は、みな大抵何かを背負って生きている。
例の井ゲタに京の字なぁ、あれ滋賀の運送屋らしいわ。週に何回か山中越通って来てるんやて、と彼は言った。
写真に姿を残したトラックのボディ。ただでさえ暗いうえにブレているおかげで社名やナンバーは読み取れなかったが、街灯の光を浴びた屋号だけははっきりと見て取れた。私は街角で同業者を見つけては手がかりを探した。
「井ゲタに京の字」の話は人から人へ伝わっていったらしい。百万遍界隈を縄張りにする拾い屋の親爺が突然、ワシあの話知ってんねや、とアズマさんに話しかけてきたという。私がおおきに、これ、とウヰスキーの小瓶を二本手渡すと、彼はワシらの情報網なめとったらアカンわな、と真顔で返した。
そう、私たちは孤独に見えて実は人一倍横のつながりが強い。賞味期限切れ食品の回収に寛大な店、不良のガキ共の出没地点、ボランティア団体の支援活動の動向。そうでなければ、とうに野性を失った人間が身一つで生きていけるはずがない。
私たちは常に助け合う。己の背負った十字架を互いに支え合って生きていかねば、いつかはその重みに身を潰されてしまう。
そこから寺町通を北に進み、御池通に出る。京都らしくない片側三車線の広々とした道は車の喧騒に溢れ、スーツ姿のサラリーマンたちは生き急ぐかのようにただ前だけを見つめ足早に歩いていく。地下鉄が到着したらしい。駅への入口からまた紺色や灰色の人の群れが吐き出される。高そうな銀色の腕時計に目を向けた男が、チッと小さく舌打ちをする。私はそれを横目に、空き缶を満載した自転車をゆっくりと押して進む。
高瀬川を越えたあの角で、ふと足を止めた。あの夜の目撃情報を求める看板が今も立っている。
だが何年も前に死んだ、赤の他人のことなど気にする人間が果たして居るだろうか。
そんな私の疑問を形にするかのように、看板はあちこちがへこみ、傾いでしまっている。大方、酔っ払いにでも蹴倒されたのであろう。私は道で転んだ子供を助けるかのように手を差し出し、そっと抱き寄せて泥を払ってやる。痛かったろう、怖かったろう。そしてきちんと一人で立ったのを見届けて、私はまた自転車を押していく。
夏の終わりの陽射しに、鴨の流れが輝く。
その輝きに、生命のみなぎりよりも目じりにたまった一粒の涙を思い浮かべるのは、私の気の持ちようのせいだろうか。時折銀色の腹を見せながらゆうゆうと泳いでいく魚の群れより、大雨で増えた水が引いたあとの淀みに取り残され、干上がるか食われるかを待つばかりの魚に目が行ってしまうのは、自身の行く末にうすうす気がついているからなのか。
だが私は諦めるわけにはいかない。このまま安穏と拾い屋を続けて人生を終えるわけにはいかないのだ。あの忌まわしい夜の出来事が人々からすっかり忘れ去られても、出来事の張本人が必死になってその記憶を封印しようとしても。
必ずこの手で見つけ出し、妻と娘を撥ね飛ばした挙句見捨てて逃げた代償を払わせねばならないのだ。そうでなければ、私の存在価値など無に等しいではないか。復讐を誓い家を出たあの日、私は自分で自分の生き方を決めたはずだ。
横を走り抜ける車の音にふと顔を上げると、―――通りの向こうに妻と娘が居た。今の生活を始めてからと言うもの、よく姿を見る。もちろん幻覚なのはわかっているが、つい手を伸ばしたくなる。しかしいつも手は届かず、やがて姿は消えてしまう。一度で良いからこの手で再び抱きしめたいというのに。
そして二人はまた寂しげな顔をしている。いつだってそうだ。私が決意を固め、さあこれからだというときに限って、そんな顔で現れる。伏し目がちなその表情には、以前の快活な面影はどこにも見当たらない。写真に残るあの太陽のように明るい笑顔はどこへ行ってしまったのか。
わかってる、わかってるんだ。今でも苦しいんだろう。憎いんだろう。早く私に復讐を遂げて欲しいんだろう。もう少しでたどり着けるんだ。例の車の持ち主がわかったんだ。あとはあのときの運転手を見つけるだけなんだ。な、父さんすごいだろう。よくやってるだろう。お前たちとの約束は必ず守るからな。だからそんな顔をしないでくれ。どうやってやるのかが心配なのか。そんな心配はお前たちはしなくていいんだよ。錦市場に老舗の刃物屋があって、そこで切れ味抜群の包丁を買ってきたんだ。いつでも使えるようにな、ほらここに入れてあるんだ。お前たちの写真と一緒にかばんに入れてあるのを見たことがあるだろう。別に私は人殺しがしたい訳じゃないんだ。だから痛みに悶える奴の姿を楽しもうなんて思ってもいない。サクっと、そうサクっとやってしまえば終わりなんだ。お前たちにむごたらしい光景を見せるわけにもいかないしな。これからこの空き缶を金に替えに行くんだ。そうして電車に乗って、大津へ行く。今日からしばらくは大津で暮らすことになりそうだな。なぁに、家はしばらく空けていても何てことはないさ。誰が好き好んで乞食の家からモノを盗るもんか。そして向こうの同業者にも協力してもらって、もうちょっと詳しい話を調べてもらうんだ。あとは運転手の一人でも脅して、あの日事故を起こした運転手を探らせる。そうすればまもなく事件は解決さ。そう考えると、警察なんて何の役にも立ってないな。こんな素人でも犯人探しが出来るのに。そう思わないか。さぁ楽しみにしていてくれよ。お前たちを苦しめた奴を懲らしめてやるんだ。父さん昔から言ってただろ。お前たちのためならどんなことでもするって。な、だからそんな顔をするのはやめてくれ。何が不安なんだ。何が不満なんだ。答えてくれ。私に教えてくれ。
なあ頼む!
気づいたときには大声で叫んでいた。いったいいつから声になっていたのだろう。道行く人があからさまに私を避けていくのがわかる。周囲から突き刺さる視線が痛い。それでも私は諦められずに問いかけ続ける。いったいどうすれば、何をすればまたあの笑顔を見せてくれるんだ。
低いうなりをあげて、目の前を観光バスが横切っていく。雄牛のような巨体に、妻たちの姿が隠れる。今日こそは消えないでくれ、そして「答え」を教えてくれ。無駄なことと知りつつ祈る。だがやはり、白い排気ガスに混じってその姿は霧消してしまった。
どこにもぶつけようのない思いを残して、私は御池大橋の欄干に身を預ける。
鴨の流れは変わらない。妻と手をつなぎ歩いた思い出の日も、あの祇園祭の日も、そして今日も。私だけが生き永らえ、醜く変わってしまった。
鴨の流れはあらゆるものを流し去る。夜の闇も、世の芥も、心の憂さも。しかし流しきれない私の思いは澱となり、淀みを為して心をあの日のままに堰き止める。
今日も私は生きる。光るあの日の思い出と包丁をずた袋に入れて。まだ見ぬあの者の血で澱を洗い流し、全てを鴨の流れに解き放てるその日が来るまで。
(平成21年9月第1稿脱稿)
(平成24年3月30日加筆修正稿脱稿)