トライアングルレッスン the First 〜初めての恋人繋ぎ〜
「ほら、ゆいこ」
夏の暑さが少しずつ和らぎ、秋の気配を感じるようになった9月中旬。街の雑踏の中、そう言って差し出される手に、私は自分の手を重ねる。
ぎゅっ、と握られた手。
そのまま、ひろしの隣を歩きながら、私はちらりと繋いだ手を見た。
「……ねえ」
「ん?」
「私たち、付き合ってるんだよね?」
「そうだけど?」
ひろしは、何を今さら、とでも言いたげな顔をする。
「だったらさ……」
私は少しだけ唇を尖らせた。
「なんで手を繋ぐとき、いつもこうなの?」
「こうって?」
ひろしは何のことかわからないといった顔で、きょとんとする。
「恋人同士だったらさ……」
そこまで言って、私は口をつぐんだ。
ひろしが不思議そうな顔で私を見る。
本当は言いたい。
もっと恋人らしい繋ぎ方をしてみたい、と。
恋愛ドラマでよく見るような、指と指を絡ませて、お互いの手をぎゅっと握る――恋人繋ぎ。
街を歩いている恋人たちがしているのを見かけるたび、いいなと思っていた。
私だって、ひろしとやってみたい。
でも、ひろしの性格からして、恋人繋ぎなんて自分からするとも思えない。
「……何でもない」
ごまかすように、私は前を向いた。
「……嫌なの?」
「え?」
「手、繋ぐの」
思わず繋いだ手を見る。
「嫌じゃないよ」
私は慌てて首を横に振った。
手を繋ぐのが嫌なわけじゃない。
むしろ、ひろしとこうしているのは嬉しい。
「ゆいこは昔から方向音痴だからな」
ひろしが繋いだ手を少し持ち上げる。
「こうして手繋いでないと、すぐ迷子になるから」
「……もう、子どもじゃないんだけど」
「知ってるよ」
ひろしはそう言って笑う。
「でも、方向音痴なのは昔から変わってないだろ?」
「……それは……そうだけど」
違う。
私が言いたかったのは、そんなことじゃない。
好きな人と付き合うようになると、女性はワガママになる――なんて、誰かが言っていたのを思い出す。
きっと、こういうことなのだろう。
こんなふうに思う自分は、やっぱり少しワガママなのかもしれない。
そう思うと、私は小さく溜め息をついた。
けれど、そんな私の気持ちなんて知らないひろしは、今も昔も変わらない繋ぎ方で私の手を握っている。
ふと、昔もこうしてひろしに手を引かれていたことを思い出した。
それはまだ、私たちが恋人になるずっと前のことだった。
私たちが小さかった頃。
私とひろし、そしてたくみは、どこへ行くにも一緒だった。
近所の公園へ遊びに行くときも、少し遠くまで出かけるときも、いつも三人で歩いた。
道中で拾った「いい感じの棒」を手に、まるで勇者になったように胸を張って歩くたくみを先頭に、三人で。
ただ、私にはひとつ問題があった。
それは、自分が興味を引かれるものを見つけると、一目散に駆けていってしまうこと。
もちろん、先頭を歩くたくみはそんなことには気づかない。ゲームのミュージックを口ずさみながら、「いい感じの棒」を腰に差して、すっかり勇者気分だ。
そんな私を見かねたのか、
「ゆいこ、こっち」
「ほら、手」
ふらふら、と寄り道をしてしまう私に対してひろしが当たり前のように手を差し出す。
「ゆいこは方向音痴だから、ひとりでどこか行くと迷子になるぞ」
「ならないもん!」
「この前なったじゃん」
「……あれは、たまたま!」
そう言いながらも、私はひろしの手を握る。
小さな私にとって、それが当たり前だった。
どこかへ行くときは、ひろしが必ず私の手を握ってくれる。
だから、迷子になる心配なんてなかった。
――少なくとも、あの日までは。
小学校に上がってしばらくした頃。
いつものように、ひろしと手を繋いで帰っていると、同じクラスの子たちと出会った。
「えー、ゆっこちゃん、まだ手繋いでもらってるの?」
「え?」
私たちが繋いでいた手を見て、その子がケラケラ笑う。
「ひろしくんに手繋いでもらってるなんて、赤ちゃんみたい!」
「違うもん!」
顔が一気に熱くなる。
恥ずかしくて、私は慌ててひろしの手を離した。
「私、もう一人でも大丈夫だから!」
「ゆいこ?」
「迷子にならないし!」
そう言い切って、私はぷいっと顔を背けた。
ひろしは何か言いたそうにしていたけれど、何も言わなかった。
その日以来、私は意地を張っていた。
「私、もう赤ちゃんじゃないもん」
そう言って、学校からの帰り道も一人で歩いた。
「迷子になんてならないもん。この道をまっすぐ行けばおうちだし、近道も知ってるもん」
三人でよく「秘密の近道」と言って通った公園がある。
パンダのジャングルジムを曲がった先にある出口から出れば、近道になるはずだった。
ところがーー
「……ここ、どこ?」
私は見事に迷子になっていた。
ほんの少し公園で遊んでいるうちに、違う出口から出てしまったらしい。
気がつけば、見覚えのない道に出ていた。
「……どうしよう」
上空では、カラスが鳴いている。
溢れ出る涙を拭いながら、不安になって辺りを見回していると、
「ゆいこ!」
聞き慣れた声がした。
「……ひろし?」
振り返ると、少し息を切らしたひろしが立っていた。
「やっぱりここにいた」
「……」
「ゆいこ、やっぱり方向音痴じゃん」
「……違うもん」
「違わないだろ」
ひろしは呆れたように笑って、それから私の前に手を差し出した。
「ほら。帰るぞ」
「……」
差し出された手を見つめる。
少し迷ってから、私はその手を握った。
「……うん」
それ以上、ひろしは何も言わなかった。
ただ、握った手だけは、家に着くまで離さなかった。
ふと、今繋がれている手に目を落とす。
昔から変わらない。
ひろしは今も、私の手を包み込むように握っている。
大きな手。
あたたかくて、優しくて。
小さな頃からずっと、私が大好きな手だった。
この手に触れていると、不思議と安心する。
昔は、迷子にならないように。
今も、きっと昔と同じように私を心配して。
そんなことを考えながら、繋いだ手を見つめていると、胸の奥に小さな違和感が生まれた。
「……違うんだよなぁ」
ぽつりと呟く。
「……なにが?」
ひろしが足を止めて、私を見る。
「今、なんか言った?」
「あ……」
しまった。
「な、なんでもない!」
私は慌てて首を横に振る。
「なんでもないから!」
「……そう?」
「そう!」
ひろしは少し不思議そうな顔をしながらも、再び歩き始める。
私もその隣を歩きながら、もう一度、繋いだ手を見る。
――違う。
この手が嫌なわけじゃない。
この手が好きだからこそ、思ってしまうのだ。
もう少しだけ。
もう少しだけ、恋人らしく繋ぎたい、と。
「ひろし」
「ん?」
「えっと……」
名前は呼んだものの、その先の言葉が出てこない。
「……どうした?」
「……なんでもない」
「また?」
「だって……」
私は繋いだ手をちらりと見る。
ひろしの大きな手に、自分の手がすっぽりと包まれている。
このままでも、十分幸せなのだ。
だからこそ、わざわざ「こうしてほしい」なんて言うのは、少しわがままな気がした。
「……やっぱり、なんでもない」
「ゆいこ。お前さっきから変だぞ」
「変じゃないよ」
「何か言いたいことあるんじゃないの?」
「……」
図星だった。
ひろしはそんな私の顔をじっと見つめて、それから繋いだ手に視線を落とした。
「……もう一回聞くけど、手、繋ぐの嫌だった?」
「え?」
「さっきから手ばっかり見てるから」
「違う!」
私は慌てて首を振る。
「嫌じゃないよ。絶対に嫌じゃない!」
「じゃあ、何?」
「それは……」
思わずひろしから視線を逸らす。
「……もっと、こう……」
「こう?」
「……こ、恋人らしく手繋ぎたいな、って……」
ようやく、それだけを口にした。
「今も繋いでるけど?」
ひろしは、きょとんとした顔で私を見つめる。
「そうじゃなくて……!ゆ、指絡めるやつ…」
「指?」
「……恋人繋ぎ」
消え入りそうな声で言うと、ひろしが一瞬黙った。
「……ああ」
ようやく意味が伝わったらしい。
しばらく、ひろしは私の手を見て、それから、ふっと笑う。
「なんだ。そんなことか」
「そんなことって……!私にとっては、結構大事なんだから」
「ごめん、ごめん」
そう言いながら、ひろしは繋いでいた手の力を少し緩めた。
そして――。
私の指の間に、自分の指をゆっくりと差し込んでいく。
「……!」
指と指が絡まる。
さっきまでとは、まるで違う。
手のひらだけじゃない。
指先まで、ひろしと繋がっている。
「……これでいい?」
「……うん」
恥ずかしくて、ひろしの顔が見られない。
それでも、繋がった手だけは離したくなかった。
「ゆいこ」
「……なに?」
「この繋ぎ方は、ゆいこが迷子になるからじゃないからな」
「え?」
ひろしが少し照れくさそうに笑う。
「恋人だから、こうして繋いでる」
「……!」
胸が、どくんと大きく鳴った。
「……ずるい。そんなこと言うなんて……」
私は俯いたまま、小さく笑った。
子どもの頃は、迷子にならないように握ってもらっていた手。
あの日、意地を張って離してしまった手。
そして今。
大きくなった私は、もう迷子にならないようにひろしと手を繋ぐ必要なんてない。
それでも、ひろしは私の手を握ってくれる。
恋人として。
絡めた指に、そっと力を込める。
「……ひろし」
そのあたたかさに、私はそっと笑った。
――私たちの、はじめての恋人繋ぎだった。




