第2問 お箸編「コンビニレジは地雷原」
腹が減っては、四択は選べません──猫神様は、そう言った。
退院した足でコンビニに寄れという、あの神託だ。神託と呼ぶには生活感がありすぎるが、実際、腹は減っていた。病院食は三日間、俺の胃袋に「量」という概念を教えてくれなかった。
というわけで、田端豚彦、二十八歳。人生を変えられた翌日ではなく当日の夕方、アパートの手前のコンビニに立ち寄ることにした。
自動ドアの前で、俺はふと足を止めた。
考えてみてほしい。コンビニとは何か。
女性店員がいる可能性のある空間である。
つまり、あのスキルの射程圏内である。
「……いや、大丈夫だ」
俺は自分に言い聞かせた。コンビニの会話はマニュアル化されている。「温めますか」「はい」。「袋いりますか」「はい」。全部「はい」で切り抜けられる、人類最後の安全地帯だ。四択の入り込む余地などない。
俺は自動ドアをくぐった。
この判断を、俺は三十秒後に後悔する。
◆
「いらっしゃいませ〜」
声のした方を、反射的に見てしまった。
レジの中の女性店員と、目が、合った。
二十代半ばくらいの、明るい感じの人だった。それだけの、どこにでもある入店の一瞬だった。目が合ったら軽く会釈でもして、弁当コーナーに直行すればいい。それだけの──
世界が、止まった。
自動ドアが開きかけのまま固まり、店内BGMが「ポ」の音で停止する。
【女心四択:入店。「いらっしゃいませ〜」と目が合った】
A.「はい、いらっしゃいました」
B.会釈のつもりが最敬礼になる
C.目をそらして雑誌コーナーに退避する
D.「らっしゃいませ」と返して店員側になる
早い早い早い。入店で出るのか。まだ何も買ってないんだが。
落ち着け。分析しろ。AとDは会話ですらない。事故だ。Cは一見安全に見えるが、「目が合った瞬間そらして逃げる客」として記憶される。それは俺がこれまでの人生で百万回やってきた動きであり、百万回、何も生まなかった。
残るはB。最敬礼。──行動系の選択肢もあるのか、これ。
角度の問題だ。会釈が深くなるだけだ。礼に失礼はない。
(B……!)
時間が動く。俺の上体が、勝手に、深々と、腰から九十度に折れた。
コンビニの入口で。夕方の。最敬礼。
し、死にたい。武家屋敷か、ここは。
おそるおそる顔を上げると、店員さんは一瞬きょとんとして、それから、つられたようにレジの中でぺこりと頭を下げ返してきた。少し、笑っていた。嘲笑ではない笑い方に見えたのは、俺の願望だろうか。
俺は何事もなかったかのような顔で(なかったことは一つもない)、弁当コーナーへ退避した。
後から知ることだが、この瞬間、彼女の中で俺は「お辞儀の人」として登録されたらしい。
悪くない滑り出しに思えるだろう。だが考えてほしい。滑り出しが悪くないという事態そのものが、俺の人生では異常事態なのだ。怖い。何かの前触れとしか思えない。
◆
のり弁当と、お茶のペットボトル。夕食の布陣はすぐに決まった。決まってしまった。
つまり、レジに行かなければならない。
レジには、さっきの店員さんがいる。他のレジは無人だ。逃げ場はない。俺は弁当を献上品のように両手で捧げ持ち、処刑台へ──もといレジへ進んだ。
店員さんの胸元の名札が見えたが、緊張で文字が頭に入らない。
「お弁当、温めますか?」
来た。だが恐れることはない。この質問への回答は人類共通、「はい」の一言。マニュアルにはマニュアルで返す。それが社会性というものだ。「はい」。言え。「はい」と──
止まった。
【女心四択:弁当を持ってレジへ。「温めますか?」】
A.「俺の心も温めてもらえますか」
B.「何度で何秒か、あなたの感覚に任せます」
C.「温めってどこまでが無料ですか」
D.「冷たいまま食べて強くなります」
「はい」がない!!
おい! 「はい」を入れろ! 四つも枠があるのに、なんで「はい」がないんだ!
Aは通報される。健全なコンビニで心を温めようとするな。Cはクレーマーの入り口だ。Dは意味が分からん上に、俺はもう強くならなくていい。物理的には十分強い。トラック由来のマットレスに耐えた実績がある。
B。Bか。「あなたの感覚に任せます」──寿司屋の「おまかせ」のノリでレンジを任せるな。だが、四つの中で唯一、敵意も下心もない。ただ意味が分からないだけだ。意味が分からないだけの発言なら、俺は生まれてから毎日している。ホームだ。
(B!)
「何度で何秒か、あなたの感覚に任せます」
言った。コンビニのレジで、温めのおまかせコースを注文した男の誕生である。
店員さんは弁当を受け取った手を止め、俺の顔を見て、それから、ふっと口の端を上げた。
「──いいでしょう。プロの温め、見せますね」
乗ってきた!?
店員さんは弁当のラベルを一瞥し、レンジのボタンを規定より短めに操作した。ごうん、と回る弁当。取り出し、袋に入れる前に、彼女はどこか得意げに言った。
「のり弁は規定時間だと海苔がべたつくので、十秒引きました。ソースの層が守られてます」
帰宅後に食べたのり弁は、白米はほかほかで、海苔はしんなりしすぎず、フライは衣が生きていた。人生最高ののり弁だった。
だがそれは後の話。この時点の俺は、目の前で起きた奇跡に対して、こう返すのがやっとだった。
「……プロでした」
「でしょ」
会話が、成立した。
俺と、女性の間で、業務を超えた会話のラリーが、一往復した。
二十八年間で初の実績が、のり弁の上で解除された。
◆
だが、レジという戦場は俺に息継ぎを許さなかった。
「お箸、おつけしますか?」
箸。箸だ。のり弁に箸は要る。「はい」だ。今度こそ「はい」だ。というかさっき学んだだろう、俺。この四択に「はい」は入っていない。ならばせめて被害の少ない──
【女心四択:「お箸おつけしますか?」】
A.「あなたが食べさせてくれるなら」
B.「箸よりあなたの指がいいです」
C.「俺の人生にも箸をつけてください」
D.「箸はいりません。愛がほしいです」
全滅である。
見ろこの選択肢を。AとBは出禁だ。出禁からの通報だ。Dは重い。夕方のコンビニで愛を求めるな。せめて夜にしろ。いや夜でもだめだ。
C。──Cは、何だ。「人生に箸をつける」。手をつける、の親戚か? 意味は不明だが、方向としては自虐だ。被害者は俺だけ。俺の被害は、慣れている。
砂時計が減る。AかBが自動発動したら人生が終わる。頼む、C、意味不明のまま流れてくれ……!
(C──!!)
「俺の人生にも箸をつけてください」
沈黙。
店員さんの動きが、止まった。目が見開かれている。やった。やってしまった。ドン引きだ。明日からこのコンビニは使えない。最寄りのコンビニを失った男は、どうやって生きていけばいい。
だが次の瞬間、店員さんは、噴き出した。
「ふ、ふふっ、あははは! 何それ、私の名字!?」
……名字?
俺の視線が、彼女の名札に吸い寄せられる。緊張で読めていなかった、その二文字。
【箸本】
──箸本さん、である。
「箸本だから、箸をつけてって!? 初めて言われたそれ! ってことは何、私が箸をつけたら、お客さんの人生おいしくなるの?」
「な……」
違う。違うんです。俺は名札を読めていなかった。今の発言に伏線も計算も一切ない。あるのは猫神の悪意だけだ。
だが、「違います、偶然です、名札見てませんでした」と釈明する度胸は、俺にはなかった。そして四択も、もう出てくれなかった。スキルよ、こういう時こそ仕事をしろ。
「……お、おいしくなると、思います」
「ふふっ、じゃあ責任重大だ」
箸本さんは笑いながら、割り箸を一膳、袋にそっと入れた。心なしか、丁寧に。
こうして俺は、この日から「箸の人」として、彼女の記憶に完全登録されることになる。
最悪の形の好感度が、発生した瞬間だった。
◆
「ポイントカード、お持ちですか?」
まだ続くのか、この地雷原は。会計まであと何メートルあるんだ。
【女心四択:「ポイントカードお持ちですか?」】
A.「持ってません。人望も」
B.「ポイントって、人としてのポイントですか」
C.「今日から貯めます。徳と一緒に」
D.財布から診察券を出す
Aは悲しい。Bは卑屈の哲学だ。Dに至っては行動系な上、昨日まで入院していた男の診察券は生々しさが限度を超えている。
C。徳。徳って。ポイントカードと徳を並べるな。並べるな、が──いや待て、これ、四つの中では一番マシじゃないか? 前向きですらある。貯める宣言だぞ。何かを貯めようとする意志は、健全だ。
(C)
「今日から貯めます。徳と一緒に」
「徳!?」
箸本さんが、レジを打つ手を止めて笑い出した。
「徳て。お客さん、さっきから語彙どうなってるの。……はい、じゃあこれ、入会申込書。徳の通帳ね」
通帳、と呼ばれた申込書がカウンターに置かれた。断る流れではなかった。俺はボールペンを受け取り、名前の欄に、自分の本名を書いた。
田端豚彦。
書き終えてから、気づいた。見られる。フルネームを。よりによって、この流れで。
箸本さんは申込書を受け取り、名前の欄を見て、動きを止めた。来る。笑われる。小学校から数えて四百六十七回目の、名前笑いが──
「……強い名前……」
え。
「豚彦さん。とんひこさん? 強……。あ、ごめんなさい、お客様の名前をじろじろ。でもなんか、こう、負けない感じがする。土俵で」
笑われて、いない。むしろ声に、敬意のようなものすらある。土俵ってなんだ。
「ま、負けたことしか、ないですが」
「今日から貯めるんでしょ? 徳と、勝ち星」
ポイントカードが、俺の手に渡された。俺の名前を「強い」と言った、人生初の女性の手から。
◆
「袋、お分けしますか? お弁当あったかいので」
最後の関門だった。温かいのり弁と、冷たいお茶。分けるのが正解だ。世間ではそうなっている。
【女心四択:「袋、お分けしますか?」(温かい弁当と冷たい飲み物)】
A.「弁当と飲み物を仲違いさせたくないので一緒で」
B.「分けてください。俺と世間みたいに」
C.「袋はいりません。抱いて帰ります」
D.「あなたの判断を全面的に信頼します」
Bは自虐が滲み出ている。滲むどころか本体だ。Cは抱くな。のり弁を抱いて夕暮れの町を歩く二十八歳を想像しろ。事案だ。Dは丸投げの上に重い。「全面的に信頼」を袋に使うな。
A──仲違い。弁当と飲み物の。擬人化か。擬人化だな。だが待て、実害を数えろ。温かい弁当と冷たいお茶が同じ袋に入る。それだけだ。お茶が少しぬるくなる。それだけだ。今日という日の被害総額の中では、誤差である。
(A)
「弁当と飲み物を仲違いさせたくないので、一緒で」
「仲違い」
箸本さんは復唱して、三秒笑った。
「分かりました。──じゃあ、仲良く入れときますね」
のり弁とお茶が、一つの袋に、並んで収まった。心なしか、本当に仲良さそうに見えた。俺の目がおかしいのだと思う。
「五百八十円です」
支払いを済ませ、袋を受け取る。
「ありがとうございました。またどうぞ、田端さん──」
言いかけて、箸本さんは少し考える顔をした。
「──いや、箸の人、で」
「そっち採用!?」
「だって面白かったし。名前は徳の通帳で確認済みなので、あとは呼びたい方で呼びます」
本名が、あだ名に負けた。知った上で、選ばれなかった。
いや、待て。「呼びたい方」と言ったか、今。呼ぶ前提なのか。次があるのか。
俺は最敬礼(二回目・今度は自前)をして、店を出た。
◆
夕暮れの歩道の、ガードレールの上。三毛猫が一匹、行儀よく座っていた。
嫌な予感しかしない。案の定、猫はナースキャップ付きの美女に変わった。通行人は誰も気に留めない。見えていないらしい。俺にだけ見える羞恥プレイである。
「五問、全問クリア。会話成立、実績解除、あだ名獲得、ポイントカード作成、定型ギャグの萌芽。──箸、運命でしたね」
「あなたの仕込みでしょ!?」
俺はレジ袋を掲げて詰め寄った。
「名札が『箸本』さんで、選択肢に『箸をつけて』!? 確率を計算しましたか!? 仕込み以外の何なんですかあれは!」
「神は箸に興味ありません」
「答えになってない!」
「それより」猫神様は、俺のレジ袋を金色の目で示した。「のり弁、冷めますよ。プロの温めが」
「……っ」
それを言われると、弱い。あの十秒引きの職人技を無駄にするわけにはいかない。
「明日も行くのですか、あの店に」
「い、行きませんよ。最寄りだから行くだけで、他意は」
「最寄りだから行くのでしょう。では明日も行きますね」
「詭弁だ!」
「いってらっしゃい」
猫神様は満足げにしっぽを一振りして、消えた。
アパートに帰り、のり弁を開ける。海苔はしんなりしすぎておらず、フライの衣は生きていて、白米はまだ温かかった。
人生最高ののり弁を食べながら、俺は財布の中の、真新しいポイントカードのことを考えていた。
徳と一緒に貯めます──あの意味不明な宣言が、後にとんでもない形で回収されることを、この時の俺はまだ知らない。




