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アシェルのコーヒー

作者: 寝不足魔王
掲載日:2026/04/07

十一月の雑木林は、思ったより静かだった。


 奏がシャッターを切るたびに、乾いた葉が風に揺れた。光が斜めに差し込んで、地面にまだらな影を作っている。午後三時すぎ。日が短くなってきた季節で、あと一時間もすれば陰ってしまう。


 依頼の仕事ではなかった。ただ来ただけだ。カメラを持って、特に理由もなく。


 木の根元に、人がいた。


 最初は気づかなかった。落ち葉の色に近い、くすんだ色の服を着ていたせいかもしれない。大きな木の根に背を預けて、膝を抱えるように座っている。目を閉じていた。


 眠っているのかと思った。


 奏はそのまましばらく見ていた。撮ろうとは思わなかった。ただ、妙な感じがした。この人は、ここにいていい人間なのだろうかと、そういう奇妙な疑問が浮かんだ。


 近づいた。


「すみません」


 声をかけると、女性はゆっくり目を開けた。驚いた様子はなかった。まるで、来ることがわかっていたみたいに。


 瞳の色が、薄い緑だった。


 長い髪は銀色に近い白で、帽子の中に押し込んであった。耳まで隠れるような、少し大きすぎる帽子。


 女性は奏を見て、それから周囲を見渡した。


「人間に、声をかけられたのは」と彼女は言った。「はじめてです」


 日本語だった。少しだけ間の取り方が違う、でも確かに日本語だった。


「ここで、よく寝ているんですか」


「寝ていたわけでは」少し考えてから、「休んでいました」と言い直した。


 奏は少し考えてから、その場にしゃがんだ。立ったまま話すのが、なんとなく合わない気がした。


「ここ、私有地じゃないですよ。でも、人はあまり来ないですね」


「知っています。だから来ています」


「そうですか」


 会話が止まった。でも気まずくはなかった。


 女性は奏のカメラを見た。


「それで、何を撮っているんですか」


「光を」と奏は答えた。「今日は特に決めてないですけど」


「光を」と彼女は繰り返した。何かを確かめるみたいに。「光を、閉じ込められるんですか」


「閉じ込める、というか」奏はカメラを見た。「その瞬間だけ、残せる」


 女性はしばらく黙った。それから、「残せる」とまた繰り返した。今度は少し違う声で。


 奏は立ち上がった。


「寒くなってきた。良かったら、近くに喫茶店があるんですけど」


 言ってから、少し変なことを言ったと思った。知らない人に、いきなり。


 でも女性は断らなかった。


「喫茶店」と言った。「行ったことがないです」


 それだけで、二人は歩き始めた。



 店は古い建物の一階にあった。ドアを開けると、豆を煎る匂いがした。


 イレアは——彼女はそう名乗った、入り口で、短く——店の中を見渡して、少しだけ表情が動いた。驚いているのか、興味を持っているのか、奏にはわからなかった。でも何かを感じているのは確かだった。


 カウンター席に並んで座った。


 メニューを渡すと、イレアはそれをしばらく見ていた。読めているのかどうかも、よくわからなかった。


「コーヒーで大丈夫ですか」


「あなたと同じものを」と彼女は言った。


 奏はホットコーヒーを二つ頼んだ。


 カップが来るまで、ほとんど話さなかった。外では自転車が通り過ぎた。店のラジオが、音量を絞って流れていた。


 イレアはカップを両手で包んで、少し目を細めた。


「温かい」


「そうですね」


「こちらは、もう冬になりそうですか」


「もうすぐですね。十一月なので」


 彼女はうなずいた。何かを納得したみたいに。


「あなたは、ここに住んでいるんですか」


「近くに。仕事はフリーランスなので、だいたい家にいます」


「フリーランス」


「自分で仕事を取ってくる、ということです。会社には属していないで」


 イレアはまた少し考えた。「自分で取ってくる」と言った。「それは、自由ですか」


「自由かどうかはわからないですけど」奏はコーヒーを飲んだ。「合っている気がします」


 窓の外を、枯れ葉が一枚横切った。


 イレアはそれを目で追って、それからまたカップに視線を戻した。


「あなたは」と彼女は言った。「私が、どこから来たか、聞かないんですか」


 奏は少し考えた。


「聞いてほしいですか」


 イレアは黙った。


「聞いてほしくないなら、別に」と奏は続けた。「聞かなくていいです」


 また沈黙があった。店の中が、静かに時間を進めていた。


「アシェルという場所から来ています」とイレアは言った。「あなたの言葉では、うまく説明できないかもしれないけれど」


「異世界、みたいな」


「そういう言葉があるんですね、こちらには」


「小説とか映画に、よく出てきます」


「小説」イレアはその言葉を口の中で転がした。「物語を、閉じ込めたもの」


「そうです」


 彼女はまたコーヒーを飲んだ。奏も飲んだ。


 外が少しずつ陰り始めていた。店の中の電球が、じんわり明るく見えてきた。


「また来てもいいですか」とイレアが言った。唐突ではなかった。でも確かめるみたいだった。


「あの木の根元にいれば、また会えるかもしれないですね」と奏は言った。


「また声をかけてくれますか」


「たぶん」


 たぶん、と言ったけれど、奏は確信していた。次に見かけたら、また声をかけるだろうと。理由はうまく言えないけれど、それだけは確かだった。


 イレアは小さくうなずいた。


 コーヒーが、少しずつ冷めていった。


 ◇◇ ◇◇


アシェルへ行ったのは、奏から言い出したことではなかった。


 十二月の最初の週、雑木林でイレアと会って、いつものように少し話した。落ち葉はほとんど地面に降りきっていて、木々の輪郭が空に透けて見える季節になっていた。


 帰り際に、イレアが言った。


「一度、来てみますか」


 それだけだった。説明はなかった。でも何を指しているかは、わかった。


「今ですか」


「今でなくても」と彼女は言った。「でも、今が良いと思うなら」


 奏はカメラを持っていた。仕事の依頼はなかった。午後二時で、空は薄く曇っていた。


「行きます」と奏は言った。



 木の根元に近づくと、空気が変わった。


 変わった、というより、重なった。今までいた場所の空気と、別の何かが、同じ場所に存在しているような感覚。奏は立ち止まった。足が止まったのではなく、止まった方がいいと体が判断した。


「怖いですか」とイレアが聞いた。


「怖くはないですけど」奏は正直に言った。「準備ができていない感じがします」


「準備は、たぶん要りません」


 イレアが先に踏み込んだ。それを見て、奏も続いた。


 一歩だった。たった一歩で、景色が変わった。



 最初に気づいたのは、光の色だった。


 同じ昼間なのに、光が違う。白くも黄色くもない。強いて言えば青みがかった白だが、それも正確ではない。影の落ち方も違った。輪郭が、こちらの世界より少しだけはっきりしている。


 木が、大きかった。


 雑木林の木とは比べものにならない。幹の太さが、二人で手を回しても届かないくらいの木が、見渡す限り続いていた。地面には苔と、名前のわからない草。足音が吸い込まれていくような静けさ。


 奏はしばらく動けなかった。


「撮っていいですか」と奏は言った。


「どうぞ」とイレアは言った。


 シャッターを切った。切ってから、液晶で確認した。光の色が、やはり再現できていなかった。カメラが捉えた色と、目で見ている色が、微妙にずれている。


「うまく撮れないですね」


「そうですか」


「光が特殊で」奏はまたファインダーを覗いた。「でも、それが面白い」


 イレアは少し離れた場所で、大きな木の幹に触れていた。目を閉じているわけでも、何かをしているわけでもなかった。ただ、触れていた。


 奏はそちらにカメラを向けた。


 シャッターは、切らなかった。



 少し歩いた。イレアが先を行き、奏が後ろからついた。道はなかったが、迷う感じはしなかった。イレアが歩く場所を歩けば、それが道になった。


「ここに、ずっと住んでいるんですか」


「ずっと、というのが難しい」とイレアは言った。「時間の流れが、こちらはゆっくりなので」


「どのくらい」


「あなたの世界で一日が過ぎると、こちらでは数時間ほどです」


 奏は少し考えた。「じゃあ、私が今まで生きてきた時間は」


「アシェルでは、そんなに長くないです」とイレアは言った。それ以上は言わなかった。


 川があった。水が透明すぎて、深さがわからなかった。光が川底の石を照らして、揺れていた。


「きれいですね」と奏は言った。


「慣れてしまっていました」とイレアは答えた。「あなたが来て、気づきました」


「何に」


「きれいだということに」


 奏は川を撮った。今度は少し露出を調整した。それでもやはり、この光は再現できなかった。でも、それでもいいと思った。撮れないものを撮ろうとすること自体が、何かに似ている気がした。


「エルフは、ここにたくさんいるんですか」


「います。でも今日は、会わないと思います」


「なぜ」


「私が、そう思っているから」とイレアは言った。「こちらでは、少しだけそういうことができます」


 奏は何も言わなかった。


 理解できないことは、たくさんある。でもそれを全部わかろうとしなくてもいいと、奏は思っていた。わからないまま、ここにいることはできる。


 木の間から、光が差し込んだ。


 奏はシャッターを切った。イレアの横顔に、光が当たった瞬間だった。意識して構図を作ったわけではなかった。ただ、そこに光があって、そこにイレアがいた。


 液晶を確認した。


 ピントが少し甘かった。でも光だけが、きれいに写っていた。



 戻ったのは、一時間も経たないうちだった。アシェルでの感覚では、もっと短かったかもしれない。


 雑木林の、もとの場所に戻ると、日本の午後の空気がまた体を包んだ。少し重い感じがした。


「また来てもいいですか」と奏は言った。


 今度は奏が聞く番だった。


 イレアは少し間を置いてから、うなずいた。


「来てください」と彼女は言った。「案内します」


 木々の間から、夕方に向かう光が差し込んでいた。アシェルの光とは違う。でも、これはこれできれいだと、奏は思った。


 二人は、それぞれの方向へ帰った。


 ◇◇ ◇◇


雪が降った。


 一月の半ば、予報では夜から、と言っていたのに、昼すぎにはもう降り始めていた。奏はアパートの窓から空を見て、それからコートを着た。カメラを持って、外に出た。


 理由は特になかった。雪の日に、雑木林がどう見えるか。それだけだった。


 それだけだったけれど、イレアがいた。



 木の根元に、いつもと同じように座っていた。膝の上に、雪が少し積もっていた。帽子の縁にも。それでも寒そうにしている様子がなかったのが、不思議だった。


「寒くないですか」と奏は言った。


「少し」とイレアは答えた。「でも、これが雪ですか」


「そうです」


「初めて見ました」


 奏は少し驚いた。「アシェルには雪が降らないんですか」


「降りません。冬がないので」イレアは手のひらを上に向けて、雪が積もるのを見ていた。「これが、積もって溶けるんですね」


「そうです」


「不思議ですね」と彼女は言った。批評ではなく、ただそう思っているだけの声で。


 奏はその手を撮った。雪が積もっていく、開いた手のひら。



 カフェに入った。いつもの店だった。ドアを開けると、雪で冷えた体に、温かい空気がまとわりついた。


 イレアはコートを持っていなかった。奏は言おうとして、やめた。彼女はそれほど寒がっていなかったし、余計なことを言う必要もない気がした。


 席に着くと、イレアは窓の外をずっと見ていた。雪が、ガラスを伝って流れていた。


「見ていて飽きないですか」と奏は聞いた。


「飽きません」とイレアは言った。「あなたは」


「飽きないですね」


 二人とも、しばらく窓の外を見ていた。


 ホットコーヒーが来た。イレアはカップを両手で包んで、目を細めた。最初に来たときと同じ仕草だった。奏はそれに気づいていたけれど、何も言わなかった。


「一月、というのは」とイレアが言った。「年の、初めの方ですか」


「そうです。あけましておめでとうございます、と言う季節がもう少し前にあって」


「あけまして」とイレアは繰り返した。「年が、明ける」


「明ける、というか、変わる、というか」奏は少し考えた。「新しくなる感じを、お祝いする習慣です」


「新しくなることを、祝うんですね」


「そうです」


 イレアは何かを考えているようだった。アシェルに年という概念があるのかどうか、奏にはわからなかった。時間の流れがゆっくりな場所で、年を数えることに意味があるのかどうかも。


「アシェルでは、時間をどう数えるんですか」


「数えません」とイレアは言った。「出来事で、覚えています。あのとき川が溢れた、あのとき大きな木が倒れた。そういう順番で」


「数字じゃなくて」


「数字では、あまり意味がないので」


 奏はコーヒーを飲んだ。数字で時間を測ることに慣れすぎていたかもしれないと、少し思った。



 雪は夕方まで降り続けた。


 店を出ると、道に薄く積もっていた。イレアは足元を見ながら歩いた。雪を踏むたびに、少し立ち止まるようにしていた。


「音が好きですか」と奏は聞いた。


「踏んだときの感触が」とイレアは言った。「こちらの言葉では何と言うか」


「ふかふか、とか。さくさく、とか」


「さくさく」とイレアは言った。歩きながら。「さくさく」


 奏は少し笑った。声には出なかったけれど、笑っていた。


 イレアがそれに気づいたのかどうかはわからなかった。彼女は雪を踏みながら、また「さくさく」と言っていた。


 雑木林の手前で、二人は立ち止まった。


 木々に雪が積もって、いつもと違う静けさがあった。


「奏さん」とイレアが言った。名前を呼ばれたのは、初めてだった。


「はい」


 イレアは少し間を置いた。何かを言おうとして、選んでいる感じがした。


「今日、来て良かった」


 それだけだった。


 奏も何かを言おうとした。ありがとうとか、また来てくださいとか。でも何か違う気がして、結局こう言った。


「また、雪が降るといいですね」


 イレアは小さくうなずいた。


 それから木の根元の方へ歩いていった。奏はその後ろ姿を見ていた。カメラは持っていたけれど、シャッターは切らなかった。


 雪が、また降り始めていた。


 ◇◇ ◇◇


二月は、空気が乾いていた。


 雪は一月のあの日以来、まとまっては降らなかった。晴れた日が続いて、でも風が冷たくて、そういう季節だった。


 奏はここ数週間、何度かアシェルへ行っていた。イレアに案内されて、川沿いを歩いたり、大きな木の上から森を見渡したりした。カメラを持って行くたびに、撮れないものと撮れるものの境界が、少しずつわかってきた気がした。わかってきた気がするだけで、まだ何もわかっていないかもしれなかったけれど。


 その日は、珍しくイレアの方から現代へ来た。



 雑木林で落ち合って、二人でいつものカフェへ向かった。


 並んで歩きながら、奏は何度か話しかけようとした。でも言葉が来なかった。何か話したいことがあるわけではなかった。ただ、この沈黙を何かで埋めた方がいいのかどうか、判断がつかなかった。


 結局、何も言わないまま店に着いた。


 席に座って、コーヒーを頼んだ。窓の外に、自転車が一台停まっていた。誰かが店に入ってきて、奥の席に座った。ラジオが、聞き取れない音量で流れていた。


「最近、仕事はどうですか」とイレアが聞いた。


「少し依頼が入りました。三月に、雑誌の撮影が一本」


「雑誌」


「紙に印刷した、いろいろな情報をまとめたもので」奏は少し考えた。「物語ではないですけど、写真と文章で作ります」


「写真を、仕事にできるんですね」


「できます。でも、好きで撮るものと、仕事で撮るものは、少し違う感じがします」


「どう違うんですか」


 奏はカップを持ったまま、少し考えた。


「仕事で撮るものは、目的がある。依頼した人が見たいものを、撮る。好きで撮るときは、自分が残したいと思ったものだけを、撮れる」


「どちらが好きですか」


「好きで撮る方が」と奏は言いかけて、止まった。「でも、仕事で撮ることで、見えてくるものもある気がします」


 イレアはうなずいた。


 コーヒーが少し冷めてきた。奏はそれを飲んだ。



 しばらくして、イレアが窓の外を見ながら言った。


「アシェルで、大きな木が一本、倒れました」


「最近ですか」


「あちらの時間では、少し前です。こちらでは、いつ頃になるかわからないですけど」


「古い木ですか」


「とても古い」とイレアは言った。「私が生まれる前からあった木です」


 奏は何も言わなかった。何かを言う場面なのかどうかも、よくわからなかった。


「倒れた木に、苔が生えてきて」とイレアは続けた。「それはそれで、きれいでした」


「撮っておけば良かった」


「思いました」とイレアは言った。そして少し間を置いてから、「あなたがいれば」と続けた。


 奏はその言葉を、もう一度頭の中で聞いた。あなたがいれば。


 言おうとした。いつでも来ます、とか、呼んでくれれば、とか。でも何かが喉のあたりで止まった。言葉にしてしまうと、何かが変わる気がした。今のままでいいのかどうかも、わからなかった。


 窓の外で、風が枯れた葉を転がしていた。


「イレアさんは」と奏は言った。「アシェルへ戻ると、こちらのことを考えますか」


 イレアはすぐには答えなかった。


「考えます」と彼女は言った。


「何を」


 また間があった。奏は急かさなかった。


「コーヒーのこととか」とイレアは言った。「雪のこととか」


 それから少し間があって、


「あなたのこととか」


 奏は窓の外を見た。イレアも窓の外を見ていた。二人とも、お互いの方を見なかった。


 ラジオが、また小さく鳴っていた。



 帰り道、雑木林の手前まで並んで歩いた。


 奏は何度か、口を開きかけた。また来てください、だけでは足りない気がした。でもそれより先の言葉が、うまく形にならなかった。


 足りないとわかっていても、言えない言葉がある。


 イレアも黙っていた。何かを言いかけて、やめたように見える瞬間が、一度あった。奏はそれに気づいていたけれど、聞かなかった。


「また来ます」とイレアが言った。


「来てください」と奏は言った。


 それだけだった。でも、それだけではなかった。


 イレアが木の根元の方へ歩いていった。奏はその場に立ったまま、見ていた。


 風が来て、冷たかった。二月の、乾いた風だった。


 空が、少しずつ暗くなっていた。


 ◇◇ ◇◇


三月になった。


 雑木林の木々に、少しだけ色が戻ってきていた。芽吹く前の、膨らんだ気配。土の匂いが変わった。冬とは違う湿り気がある。


 イレアから来ると言ってきたのは、二月の終わりだった。来ると言い方は正確ではない。彼女はただ、木の根元のそばに立っていた。奏がいつものように雑木林を通りかかると、そこにいた。それだけだった。でも奏には、今日が特別な日であることが、なんとなくわかった。うまく説明できないけれど、わかった。



 二人でいつもの店に入った。


 席に着いてから、しばらく何も言わなかった。コーヒーを頼んで、来るのを待った。窓の外に、春の気配だけがあった。


「三月の雑誌の仕事、先週終わりました」と奏は言った。


「どうでしたか」


「うまく撮れた気がします。依頼通りに、ちゃんと」


「良かった」とイレアは言った。


「アシェルは」


「少しずつ、変わっています」とイレアは言った。「ゆっくりですけど」


「どんなふうに」


 イレアは少し考えた。


「川の流れが、変わりました。木が倒れたので、水の道が変わって」


「それは、大きな変化ですね」


「そうかもしれません」とイレアは言った。「でも、アシェルはそういう変化をずっと繰り返しているので、私にはもう、大きいのか小さいのかよくわからないです」


 奏はその言葉を聞きながら、何かを感じた。うまく名前をつけられない、でも確かに何かがある。


 コーヒーが来た。イレアはいつものように両手で包んだ。



 帰り道、雑木林に入った。


 木々の間から光が差し込んでいた。三月の午後の光は、十一月とも十二月とも違った。やわらかくて、でも少し遠い感じがした。奏はカメラを持っていたけれど、すぐには撮らなかった。


 大きな木の前に来たとき、イレアが立ち止まった。


「奏さん」


「はい」


 イレアは根元を見ていた。奏もそこを見た。木の根が地面に張り出していて、土が少し盛り上がっている場所。二人が最初に会った場所だった。


「境界が」とイレアは言った。「もう、ほとんどないです」


 奏は黙っていた。


「こちらへ来るたびに、少しずつ薄くなっていて」イレアは続けた。「今日が、最後になると思います」


 風が来た。木の芽が揺れた。


「知っていたんですか」と奏は聞いた。


「最初から、ではないです。でも途中から」


「なぜ言わなかったんですか」


 イレアは少し間を置いた。


「言ったら、来なくなると思ったので」


 奏は何も言えなかった。怒る気にはなれなかった。言えなかったイレアの気持ちが、なんとなくわかった。自分も、言えなかったことがたくさんあった。


「アシェルへは、もう行けないですか」


「この境界からは」とイレアは言った。「別の場所に、あるかもしれないです。でも、私にはわからない」


 わからない、という言葉が、静かに落ちた。



 奏はカメラを構えた。


 光が、木の間から差し込んでいた。イレアがそこに立っていた。帽子をかぶっていた。コートのボタンを上まで留めていた。少し遠くを見ていた。


 シャッターを切った。


 液晶で確認した。ピントが少し甘かった。でも光だけが、きれいに写っていた。


「撮っていいですか」とイレアが言った。


「え」


「私も、残したいです」


 奏はカメラを差し出そうとした。でもイレアは受け取らなかった。


「あなたが撮っているのを、見ていたいです。そのまま撮ってください」


 奏はもう一度カメラを構えた。


 イレアは木の根元に、いつものように寄りかかった。目を閉じた。十一月のあの日、初めて見たときと同じ姿勢だった。


 シャッターを切った。


 今度はピントが合っていた。でも光はやっぱり、きれいだった。



 どれくらいそうしていたのか、わからなかった。


 光が少しずつ動いて、木の影が伸びてきた頃、イレアが目を開けた。


「行きます」と彼女は言った。


 奏はうなずいた。


 何か言おうとした。四話分の言葉が、喉の手前に全部あった。でもそれを今さら全部出しても、と思った。それより、別の言葉があった。


「来て、くれてよかったです」


 イレアは少し目を細めた。笑ったのかどうかはわからなかった。でも、何かが動いた。


「来て、良かったです」と彼女は言った。


 それから、根元のそばに立った。一歩踏み出した。景色が、一瞬だけ重なった気がした。それだけだった。


 イレアはいなくなった。


 奏はしばらく、その場に立っていた。


 風が来て、芽吹いたばかりの枝が揺れた。光が動いた。


 カメラを持ち直した。


 木の根元を、一枚撮った。誰もいない、土と根と、差し込む光だけの場所を。


 液晶を確認した。


 きれいに撮れていた。


 奏はカメラをしまって、雑木林を出た。三月の空は、まだ少し白かった。


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