009 「いい奥さんになるよ」
『今日、夜ご飯ありません。悪いけど、自分で用意してね』
学校を出てすぐに、母親からそんなメッセージが届いた。
コック帽を被ったハムスターが、鍋でチャーハンを作っているスタンプ付きだった。
駅を出たあと、侑弦は普段とは違う角で曲がり、夕飯の調達へ向かうことにした。
こういうときに最初に思い浮かぶのは、大抵いつも同じ場所だ。
「いらっしゃいませ……あっ、侑弦くん!」
『OPEN』の札が吊るされたドアを開けると、チャリンと軽やかに鈴が鳴る。
レジに立つエプロン姿の店員は、丁寧な挨拶から一転、砕けた調子で侑弦に手を振った。
小さな、けれどおしゃれでかわいらしい内装のパン屋『さざなみ』には、侑弦のほかに客の姿はなかった。
「制服、珍しいね。学校帰り?」
縁の丸いメガネと赤い三角巾を着けた店員が、ニコニコした笑顔で言った。
侑弦は頷き、木目調のトレーとトングを手に取る。
「古賀さんこそ、もうバイトか。早いな」
「うん。今日、六限までだったから」
少女、古賀佳音はそう言って、レジの裏をチラリと確認した。
三角巾の中の後ろで、ひとつ括りにした黒い髪が揺れる。
店の奥では、今も別の店員がパンを焼いているところらしい。
「侑弦くんもこれからバイト?」
「いや。夕食用に、と思って。今日、母さんいないんだ」
「あ、そうなんだね。クロックムッシュ、もうすぐ焼きたて出てくるから、時間大丈夫ならちょっと待ってる?」
「そうか。ならそうするよ、ありがとう」
「うんっ。えへへ」
佳音は柔らかく笑って、レジから歩み出た。
ビニール手袋をした手で陳列されたパンを整え、店の外に目をやる。
中途半端な時間なせいか、次の客もしばらくは来そうにない。
『さざなみ』は、侑弦が小学生の頃から通う、お気に入りのパン屋だった。
昔は親に連れられ、徐々にひとりでも訪れるようになり、今では休日のバイト前に立ち寄るのが恒例になっている。
そして去年の春頃、古賀佳音がこの店で、アルバイトとして雇われることになった。
侑弦とは通う高校こそ違うが、毎週顔を合わせることも手伝って、すぐに親しくなった。
真面目で仕事熱心な佳音は店長にも常連客にもかわいがられ、今でもしっかり仕事を続けている。
おまけに佳音は、最近新しい試みを始めたようで。
「あ、あの……侑弦くん。これ……」
「ん……お、また新作か」
佳音が控えめに差し出したトレーには、見慣れない外見のパンが並んでいた。
形はメロンパンに近いが、色が緑や黄色ではなく、橙色に見えた。
「うん……っ。メロンパンにオレンジを練り込んであってねっ! 甘みと爽やかさのバランスを考えて、作ってみたんだけど……」
「おお、なるほど。たしかにクッキー生地のところに、果肉があるな」
それに、周りの皮の部分にもオレンジの粒が見えている。
なかなかどうして、ありそうでなかった組み合わせだ。
佳音は少し前から、こうして新しいパンを作っては、店長に新商品として提案しているらしかった。
店長もその意欲は買っているらしく、おまけに軒並み出来もいいため、すでにいくつかのパンが店のラインナップに加わっている。
「まだお店には置いてないんだけど……もしよかったら、食べみてほしくて……どう?」
恐る恐るといった様子で、佳音が上目遣いに侑弦を見た。
佳音は新しい試作品が出来ると、いつもこうして侑弦に意見を求めてくれる。
ありがたい限りだが、毎回タダで貰ってしまっているのが、少し気がかりではあった。
まあ、以前代金を払おうとしたら店長に断られたので、お言葉に甘えているのだが。
「もちろん、いただくよ。感想は、またしっかり伝えるから」
「う、うん! ありがと! ふふっ」
佳音はこぼれるように笑って、オレンジ色のメロンパンをひとつ、袋に包んでくれた。
少し伏せた顔が、ほんのりと赤いように見える。店内の灯りのせいだろうか。
「はい、どうぞっ。はぁ……緊張するぅ。今回、ちょっとチャレンジなんだよね……」
「大丈夫だよ。今までのも全部うまかったし」
きっと、味見をする佳音自身の舌が優秀なのだろう。
多少の差はあれど、佳音のパンの出来は毎回期待を超えている。
味だけでなく、見た目もいいのが特にすごいと、侑弦は以前から感心していた。
「ほ、ホント……? えへへ……嬉しい。ありがと、侑弦くん」
「いや、むしろいつも食べさせてもらってて、悪いな」
「う、ううん! 侑弦くんに……あ、じゃなくて! 侑弦くんの意見、すごく参考になるし! 私もホントに助かってるから!」
「そうか。ならよかった」
役に立てているのなら、多少は申し訳なさも薄れるというものだ。
それに、行きつけの店の商品数が増えるのも、頑張っている佳音を手助けできるというのも、侑弦個人としては嬉しいことだった。
「メロンパン、昔から好きなんだよな、俺」
「侑弦くん、よく買ってるもんね」
「それに、この前作ってたベーコンエピもな。好きなパンの新作が多くてありがたい」
「あ、カレーのやつね。あっちはもうすぐ、お店に並ぶかも!」
「おお、そうか。うまかったしな、あれも」
言いながら、侑弦は思った。
佳音の新作は、侑弦がもともと好んで食べるパンのアレンジが多い。
以前は、一番好きなクロワッサンだった。
もしかすると、こちらに気を遣ってくれているのかもしれない。
「でも、メロンパンにオレンジって、なんかおもしろいな。ダブルフルーツで」
「ふふっ、そうだね。ただ、メロンパンの由来は『メレンゲパン』が訛ったものだっていう説もあるんだって。クッキー生地にメレンゲを使うから」
「ほお、そうなのか。メレンゲ……ふむ」
たしかに、メロンとメレンゲは語感が少し近い。
てっきり、見た目がメロンに似ているというのが、全てだと思っていたけれど。
「そういえば、このパンの名前は?」
「まだ決定じゃないけど、『朝焼けメロンパン』にしようかなって。ほら、ちょっと赤っぽくて、爽やかさが売りだから」
「へぇ、いいんじゃないか、凝ってて。『朝』が入ってると、勝手に親近感が湧くよ」
「え……あっ!?」
と、侑弦の何気ない言葉に、佳音はビクッと肩を震わせた。
危うく落ちそうになるメロンパンを、慌ててトレーでキャッチする佳音。
どうしたんだ、いったい。
「あ、た、たしかに入ってるね、『朝』……っ! わぁ、気づかなかったなー……」
「まあ……俺は自分の名字の漢字だから、目につきやすいんだろうさ。……大丈夫か?」
「う、うん! なんでもない! ちょっと、足元がグラついちゃって……!」
佳音はぶんぶんと首を振って、あははと乾いた声で笑った。
足元が、となると、もしかして頑張りすぎなのでは。
「あんまり無理するなよ。授業終わってすぐバイトだと、疲れるだろ」
「え……うん。ありがと、侑弦くん」
今度はふわりと顔を綻ばせて、佳音はコクンと頷いた。
佳音は真面目で、頑張り屋だ。この一年でも、侑弦は何度となく、そう思わされてきた。
滅多なことはないと思うが、倒れたりしなければいいけれど。
と、そこでちょうど、店の奥から店長が現れた。
クロックムッシュの載ったプレートを両手で持って、白いマスクをしていた。
「あ、侑弦くん、いらっしゃい。来てたんだね」
「こんにちは、佐々山さん」
侑弦が会釈すると、店長の佐々山菜美は「またイケメンになったねー」とお世辞を言ってくれた。
小さい頃からかわいがってくれた菜美は、侑弦にとって親戚のおばさんのような存在だった。
佳音が侑弦を下の名前で呼ぶのも、彼女の影響だ。
恰幅がよく、おおらかな性格で面倒見がいい。
中学生の娘と息子がおり、侑弦も何度か顔を合わせたことがあった。
ちなみに、店名である『さざなみ』は、彼女の名前から取ったものであるらしい。
「クロックムッシュお待たせ。それと佳音ちゃんの新作でいい?」
「はい。ありがとうございます」
まだ熱いパンを受け取って、侑弦はレジに立った。
佳音に会計をしてもらい、袋を受け取る。
「佳音ちゃんのパン、けっこうお客さんに人気なんだよ。私も負けてられないねー」
「そうですか。さすが古賀さん」
「この子はいい奥さんになるよー。侑弦くんもチェックしときな、ね」
「ち、ちょっと菜美さん! 変なこと言わないでください! もうっ!」
と、レジの中にいる佳音が慌てたような声を上げた。
今度は間違いなく顔を赤くして、おまけに涙目になっている。
対する菜美は「なんでよー、ホントのことでしょ?」とどこ吹く風だ。
「まあ、古賀さんはたしかに、恋人が出来てもいい関係が作れそうだ」
「ふぇっ!?」
「でしょー? これでモテないっていうんだから、周りの男は見る目ないよね」
「も、もうっ……菜美さぁん……」
照れた様子の佳音にエプロンを掴まれても、菜美はあははと笑っていた。
やはり彼女は、佳音のことをかなり気に入っているらしい。
まあ侑弦に恋人がいることは知っているので、さっきのセリフは冗談なのだろうけれど。
「……あ」
ふと、とあることに気がついて、侑弦は短い声を出した。
そういえば、佳音がいるときには、美湖とここに来たことはない。
つまり佳音は、美湖の存在をまだ知らないということになる。
もうけっこうな付き合いになるのに、なんだか意外だ。
と、心の中で驚きながら、侑弦はパンの袋をカバンに入れた。
しかし、もし知り合いになれば、美湖と佳音はきっと、仲よくなれるだろうな。
菜美たちに挨拶をして店を出る前に、侑弦はそんなことを思った。




