007 「きみのこと、好きになった」
侑弦が初めて天沢美湖と同じクラスになったのは、中学三年生の頃だった。
彼女の存在自体は、以前から知っていた。
むしろ、学年を超えた有名人である美湖を知らずに過ごすには、中学生の世界は狭すぎた。
けれどまともに話したことはなく、ただ、賑やかで人気者で、かわいい女の子、という程度の認識しか、侑弦は持っていなかった。
しばらくは、関わりも一切なかった。
おとなしく、ひとりでいることが多い侑弦と、常にみんなに囲まれている、天真爛漫な美湖。
いわば真逆であるふたりには、言葉を交わす理由も、機会もなかったのである。
このまま、一度も目が合うこともなく、卒業するのだろう。
と、そんなことすら思わないほど、侑弦にとって美湖は、完全に別世界の住人だった。
四月の末、ゴールデンウィーク前のことだった。
昼休みに侑弦が読書をしていると、突然悲鳴のような声がした。
顔を上げた侑弦と同じく、クラスメイトたちも訝しげに、辺りを見渡している。
見ると、廊下に小さな人だかりができていた。
再び大きな声がして、今度は発生源が隣のクラスだとわかった。
喧嘩だろうか。
侑弦は本に栞を挟み、廊下へ向かった。
野次馬にはなりたくない。
けれど、上擦った声に涙が混じっているように聞こえて、それが気になった。
と、そのとき――。
「ごめん、ちょっとどいて」
侑弦の横を、小さな身体が通り過ぎた。
セミロングの茶色い髪が、焦ったように揺れている。
それが天沢美湖だとわかったのは、ほんの数瞬あとだった。
侑弦は彼女を追って、廊下に出た。
美湖は迷いのない足取りで、そのまま隣のクラスへ踏み込んでいく。
中を覗くと、教室の後ろのスペースに、数人の女子生徒が集まっているのが見えた。
だが穏やかな雰囲気ではなく、教室にいるほかの生徒たちは、みんな居心地悪そうに顔を伏せていた。
「やめなさいよ」
その女子生徒たちに向かって、美湖が低い声で言い放った。
その中のひとりが振り返り、鋭い目で美湖を睨む。
背が高く、髪の色も派手で、威圧感があった。
「天沢? なにお前。部外者じゃん、黙ってな」
「警察だって、いつも部外者。でも悪事を見つけたら、止めにくる。当たり前でしょ」
美湖は少しも怯まず、女子生徒を見上げてそう言い返した。
そこで、侑弦は気がついた。
派手な女子グループの向こうに、もうひとり女の子がいる。
壁に追い詰められるかたちで立っているその子は、怯えた様子でぶるぶると震えていた。
よく見ると、髪も服も、不自然に濡れているようだった。
ああ、つまり、これは――。
「うざっ……邪魔すんなよ、優等生」
威嚇するように言って、背の高い女子は美湖の胸ぐらを掴んだ。
だが、美湖は目をそらさずに相手を睨み返し、その腕に手をかける。
「迷惑だし、そもそもいじめって犯罪だから。人生終わるよ、清水」
「は? 終わるのはお前だよ。次、あんたにしてやろっか?」
清水と呼ばれた女子が、バカにしたようにクスクスと笑う。
それに合わせて、後ろの連中も同じように肩を震わせた。
明らかに、教室の空気が張り詰めていた。
誰も、割って入れない。けれど誰もが、そちらへ注意を向けている。
侑弦はその場を去ることもできず、胸の奥で渦を巻く不快感に、ただ耐えていた。
そして。
「……はぁ。ホントにバカなんだね、あなたたち」
美湖が、吐き捨てるように言った。
一瞬、清水はポカンと口を開けていた。
けれど、みるみる表情に怒りが滲んで、口元が歪んだ。
バチン! と大きな音がした。
美湖の身体が、グラリと傾く。
清水が腕を振り上げ、美湖の頬を打っていた。
マズい。
反射的に、侑弦の足が動いていた。
机やカバンを避けて、美湖たちのところへ向かう。
止めなければ、と思った。
うまくやれるかどうか、そのあとどうなるのかは、わからない。
おとなしく、先生を待つ方がいいのかもしれない。
けれど、やっぱり放っておくわけにはいかなかった。
だが――次の瞬間。
“バチンっ‼︎”
ひと際鋭い音が、教室に響いた。
足が、ピタッと止まる。
顔を腫らした美湖の前で、清水は崩れ落ちるように、ロッカーに倒れかかっていた。
パチパチ、と美湖が、両手を払うように叩いた。
それから、ふぅっと小さく、肩で息をした。
「うわ、やり返しちゃった……」
あはは、とバツが悪そうに笑って、美湖が教室を眺め回す。
そして、ピンと立てた細い指を自分の唇に当てて、言った。
「ごめん……今の、内緒にしといて?」
結局、そのあとはすぐに担任が駆けつけ、清水たちのいじめは白日の元に晒された。
今回の事件が学校に与えたショックは大きく、侑弦たちの学年はゴールデンウィークを待たず、少し早めに連休に入ることになった。
聞いた話によると、天沢美湖は生徒指導室に呼び出され、複数の教師にこっぴどく叱られたらしかった。
とはいえ、そもそもの動機がいじめの制止であったため、厳重注意のみで、特に処分は与えられなかった。
逆に、いじめに加担した生徒たちには、出席停止措置が取られることになった。
だが、発見の遅れた学校側も責任を迫られ、しばらくは保護者への対応や、再発防止策の策定に追われていた。
落ち着かない連休が終わって、最初の登校日。
天沢美湖は普段と変わらない様子で、元気に教室にやってきた。
友人に心配の声をかけられても、グッと握り拳を作って、胸を張っていた。
授業が終わって、放課後になった。
侑弦は手早く荷物をまとめて、校門へ走った。
そして、学校の前の電柱のそばに立って、ひたすら待った。
しばらくすると、目当ての人物がやってきた。
幸い向こうはひとりで、ありがたい、と思った。
「……」
ひとつ、深呼吸をする。
連休のあいだ――いや、あのときから、ずっと忘れられなかった。
彼女の顔が、声が、あのひと懐っこい笑顔が。
意志と気高さに満ちた、あの凛々しい背中が。
脳裏に焼きついて、心を捉えて、放してくれなかった。
「天沢さん」
声をかけると、天沢美湖は不思議そうな目で、侑弦を見た。
けれどすぐににっこり笑って、「なにか用?」と言った。
クラスメイトだと認識されている自信はなかった。
だが、そんなことは心底、どうでもよかった。
「好きだ」
侑弦は言った。
予定よりも、声が震える。
けれど、気持ちは少しも揺れていなくて、それがなんだかおかしかった。
「きみのこと、好きになった。彼氏にしてほしい」
美湖の大きい目が、余計に丸くなる。
思えば、彼女の顔を正面から見たのは、これが初めてかもしれなかった。




