042 「だけど、あなたにだって」
佐野桜花は、逃げなかった。
ありがたい、と思った。それと同時に、申し訳ないな、とも。
桜花は紗雪の正面に立って、俯いていた。
肩が縮こまって、まるで叱られる前の子どものように、小さく見えた。
怒ってるんじゃないのか、と、朝霞侑弦に言われた。
それまでは、自分の感情の正体に、気がついていなかった。
胸の中で渦を巻くモヤモヤが、一体なんなのか。
それは、果たして正しい感情なのか。
なにもわからず、ひとりではどうしようもなく、ただイライラしていて。
けれど彼の――朝霞侑弦の言葉を聞いて、一気に心が楽になった気がした。
当然だ、と言ってくれた。
気持ちを肯定して、理解して、寄り添ってくれた。
そのおかげ、なのだろうか――。
「桜花」
今は、不思議なことに、怒りは少しも湧いてこなかった。
目の前にいる親友の名前を呼んでみても、それは変わらない。
また侑弦の顔が浮かんだけれど、首を振って、頭から追い出した。
「……っ」
佐野桜花は怯えたように、身体を震わせた。
それでも、わずかに顔を上げて、キッとこちらを睨む。
少し前までは、あの目が怖かった。
以前はずっと好きだったあの目が、自分に憎悪を向けてくる。
それが不安で、悲しくて、仕方なかった。
だから、終わらせたいと思った。
そのために人を頼って、助けてもらって、自分でも変わろうとした。
今日は、すべて言おう。
衒わず、繕わず。
ほしいもののために。守りたいもののために。
それで、結果がどうなったとしても。
「仲直りがしたい」
「……」
最初の紗雪のセリフにも、桜花は微動だにしなかった。
ただ、暗い目でこちらを見据えて、恨めしそうに口元を歪めていた。
きっと、またか、と思っているのだろう。
けれど、今日は違う。
前回とは。
今までとは、決定的に違う。
「だけど……私は怒ってるわ、桜花」
「……え」
桜花は目を見開いた。
小さな口をぽかんと開けて、呆気に取られた様子で固まっていた。
「説明もなく、急に、一方的に冷たくされて、すごく困った。それに、悲しかった」
「……」
「しかもその理由が、桜花の好きな人が、私を好きだから。そのせいで、私に対する劣等感が、掻き立てられたから。その劣等感自体も、あなたはもともと持っていて。私を助けて、逆に優越感を得て……でも、それも傷ついたから。……そんなの、私は悪くない。私には、どうにもできない。違う?」
自分の口調がだんだん荒く、そして早口になっていくのを、紗雪は感じていた。
感情が、言葉に、声に、乗ってしまう。
けれど、今はそれでもいい……そうでなければ、いけない気がした。
「それに、あなたはこれを、私に話してくれなかった。どうして、って聞いたのに、拒絶して、逃げた」
「そっ……そんなこと……」
「話せるわけない、って、あなたは言うかもしれない。けど、話してほしかった。だって、言ってくれなきゃ、なにもわからないもの。私はこういうことにひたすら鈍感で、疎くて、常識がない。あなたなら、よく知ってるでしょう。知ってるくせに」
桜花が、顔をそらした。
居心地が悪そうに、ばつが悪そうに。
口をかすかに動かして、なにかを言おうとして、けれど、なにも言えずにいるようで。
本当に、呆れる。
人を拒絶することは、厭わないくせに。
こちらへの怒りも、いら立ちも恨みも、隠さずにいたくせに。
その理由を言い当てられたら、急にそんな顔をする。
それは、ずるいだろう。卑怯だろう。
なにもわからない相手を、わからないまま困らせる。
そんなのは――。
「そんなの……いじわるよ」
「……えっ」
今度は、桜花はキョトンと目を見開いた。
予想していた言葉とは、ずいぶん違っていたのかもしれない。
その反応が、朝霞侑弦が言っていたのとほとんど同じで、紗雪は思わず、小さく笑った。
――意表を突いてやれよ。
――喧嘩したいわけじゃなくても、ちょっとくらい、驚かせてやった方がいい。
侑弦はあの日、ショートケーキのイチゴを齧ったあとで、そう言った。
いたずらっぽく、それでいて、真面目に。
彼は、本当にすごい男の子だ。
「桜花」
また、名前を呼んだ。
桜花の身体と、表情が、弾かれたように強張る。
いい気味だ、と思う。
けれど、ここしばらくの自分は、もっと怖かった。もっと、不安だった。
……まあ、とはいえ。
「でも……私はそのうえで、あなたと仲直りがしたい」
結論を、もう一度言った。
途端、なんだか心が軽くなって、気分がよかった。
「……紗雪?」
ああ、久しぶりに、名前を呼んでくれた。
こんなに安心するなんて、嬉しいけれど、少し、悔しい。
「全部、許すわ。私は、あなたに感謝してるもの。あの日から今まで、ずっと」
ひとりで、いたとき。
桜花が声をかけてくれた。
笑顔を向けてくれて、頼ってくれた。
たとえ、不純な動機によるものだったとしても。
紗雪にとっては、それは救いだったのだ。
「だから、まだ友達でいたいと思ってる。あなたが私を利用してたんだとしても、そんなのどうってことない。それであなたが救われてたなら、むしろお返しができて嬉しいわ」
「……なんで、そんな」
「あなたみたいに、人の複雑な感情とか、気持ちとか、機微はわからないけど。そのせいで、いやな思いをさせるかもしれないけど。これまでも、私が気づいていないだけで、そうだったのかもしれないけど。……でも、だんだんと、わかっていけたらいいなって、今は思ってる。譲りたくないことは、きっと変えられない。けど、そうじゃないことなら、変われるように頑張りたい」
「紗雪……」
「だけど、あなたにだって、変わってほしい」
トン、と、一歩桜花に近づいた。
無意識に、自然に、気がつけばそうしていた。
桜花も身を引いたりせず、ただ紗雪の方を、縫いつけられたようにじっと見つめていた。
「いいところは、そのままで。今あなたを苦しめてるような気持ちや、うまくいかないかもしれない恋を乗り越える強さを、これからは持ってほしい。私たちは、お互い、変わるべきよ」
「……お互い」
「ええ。私たちは不完全で、バカだから。ふたりで、一緒に変わりましょう。変わって、ダメなところを直して、もっといい友達になる。私は、あなたとそうしたいと思ってるわ」
そこまで言って、紗雪は一度、深く息を吸った。
うまく話せただろうか。
ちゃんと、伝わっているだろうか。
わからないし、自信もない。
けれど、なんだかすごく清々しくて、満たされていた。
「桜花。あなたは、どう?」
最後の言葉を、紡いだ。
少し笑うといいと、侑弦は言っていた。
だが意識するでもなく、自然とそうなっていた。
言葉に感情がついてきて、それが表情にも出る。
紗雪には、それがどうしようもなく、嬉しかった。
「……私、紗雪みたいに強くない」
「私は弱いわよ。でも、あなたがいたから、少しずつ強くなれてる」
「いやな子だもん、私。自分の気持ちのために、紗雪に近づいたんだよ?」
「気にしてないって言ったでしょ。私は鈍くて、バカだから。それに、強かなあなたが好きよ。尊敬してる」
「でも……でも、だって――!」
「いいのよ、桜花」
ギュッと、彼女の手を握った。
不安げで力のない、小さな両手。
人には、強さと弱さがあるから。
自分がそうであるように、完璧にはなれないから。
だから、弱さを受け入れて、変わろうと努力するしかない。
そしてきっと、それには時間がかかるから。
「ゆっくりでいい。私がついてる。だから、これからも友達でいて。今日私がお願いしたこと、全部いやなら、そう言って。そうしたら、もう終わりにする。あなたのことは、きっぱり諦める。でも、そうじゃないなら」
「……紗雪っ」
「友達に戻りましょう。たくさん話して、ちゃんと喧嘩もして、もっと強くなるの」
「……」
「返事、待ってるわ。電話でもLINEでも、直接でも。決まったら、すぐに教えて」
もう一度、笑ってみた。
今度は少し涙が混じって、声が震えてしまった。
けれど、それも悪くないかな、と思う。
そしてそう思えることが、自分にとってはきっと、大きな進歩なのだろう。
手を放すと、桜花は勢いよく後ろを向いた。
そのままじっと佇んで、しばらく黙っている。
だが、不意にドアのそばまで駆けて、そこで再び立ち止まった。
「……考える」
「ええ。そうして」
「……バカ」
ガラッとドアを開けて、桜花が出ていく。
遠ざかる足音を聞きながら、紗雪はストンと、そばのイスに腰を下ろした。
「……はぁ」
疲れていた。
慣れないことをして、気持ちも、身体も。
それに、不思議な充足感と浮遊感のせいで、落ち着かなかった。
桜花の答えは、まだわからない。
あとは、待つしかない。
けれど、待つ以外のことは、全てできたのではないだろうかと、紗雪は思った。
「……朝霞くん」
思わず、彼の名前を呼んでいた。
やるべきことが、あとひとつだけ残っていた。
『話したわ』
朝霞侑弦に、そうメッセージを送った。
『お疲れ。頑張ったな』
すぐに既読がついて、返事が来た。
鎮まりかけていた心臓が、また一度だけ、トクンと跳ねたような気がした。




